第26話「帰還、そして」
◇
目が覚めた時、俺は動くことができなかった。
視線を天へ向ける。黒かったはずの空に、仄かな明かりが差している。見たことのない色だ。夜でも、昼でもない。永遠の闇の果てに、世界が初めて見せた色。
奈々の指が、俺の指に絡んでいた。
「真さん……」
彼女の声はかすれていた。這うようにして俺の傍にいる。顔色は蒼白で、涙の跡が頬に残っている。でも——目には、光が宿っていた。
「終わったのか……」
俺の声も、ろくに出ない。喉が渇いている。体のどこが痛いのかも、もう分からない。ただ、奈々の指先の温度だけが確かだった。
「はい……」
彼女が、小さく頷いた。
「夜は——終わりに向かっています」
◇
どれだけ横たわっていたか分からない。
気づくと、俺は誰かに支えられて歩いていた。椿が右側、茜が左側。二人とも足を引きずっている。それでも、俺の体を支えてくれていた。
「……すまない」
「黙れ」
茜が、ぶっきらぼうに言った。
「あんたは歩くな。運ぶのはあたしたちの仕事だ」
「口を動かす暇があるなら、前を向け」
椿の声も、普段より荒い。疲弊している。でも、足は止めない。
振り返る。
奈々が、生存者たちに支えられながら歩いている。老人が杖で自分の体を支えながら、奈々の腕を引いている。若い男たちが、子供を抱えた女を囲んでいる。
六人。
外征で出会った生存者たち。誰一人、欠けていない。
「……全員、いる」
「当たり前だ」
茜が、前を向いたまま言った。
「あんたが『帰る』って言ったんだろ。全員で、って」
沈黙の国を越え、沈黙の領域を抜け、夜の国を逆行する。
帰還行が、始まった。
◇
夜の国は——変わっていた。
沈黙王の秩序が崩れたことで、怪物たちの動きが鈍くなっている。視るものは相変わらず遠くで人類を見つめているものの、その圧力が弱まっている。夜の住人たちの群れは散り散りになり、這うものたちは地面に潜ったまま出てこない。
完全な安全ではない。けれど、往路とは比べものにならないほど、通れる道が増えていた。
「なんだ、これ……」
茜が、周囲を見回しながら呟いた。
「怪物が、逃げてる。あたしたちから、じゃない。何かを——恐れてる」
「夜が終わることを、だろう」
椿が、声を落として答えた。
「彼らは夜の存在だ。夜が明けるなら——居場所がなくなる」
俺は頭上を仰いだ。
薄明が、ゆるやかに広がっている。まだ夜は明けていない。けれど、夜明けの気配が、確かに忍び寄っている。
世代を超えて——沈黙王はそう言った。
俺たちが放った一撃は、世界を即座には変えない。けれど、変化の最初の楔にはなった。
あとは、俺たちの子孫が引き継ぐ。
「……行けるか」
俺は、奈々を振り返った。
彼女は、老人に支えられながら、それでも前を向いていた。
「行けます」
その声には、疲弊の中に——希望があった。
「あなたが前を向いているなら、わたしも」
◇
帰路は、長かった。
けれど、俺たちは歩き続けた。
茜が先頭で道を切り開き、椿が後ろを守り、俺は中央で奈々と生存者たちを守った。往路で学んだ連携が、帰路でも機能した。
三日目の夜——いや、この世界に夜の終わりはない。仮眠を取る時、それが何度目かで日を数えた——茜が低い声で警告を発した。
「左。夜の住人、三体」
俺は反射的に刃を構えた。地脈の力が掌で脈動する。
「下がっていろ」
沈黙王を傷つけた刃だ。眷属たち相手なら、迷う必要はない。
怪物は、俺たちを見て——逃げた。
戦う気力すらない。沈黙王の秩序を失い、怪物たちは統制を欠いていた。夜の終わりを察して、本能的に怯えている。
「……戦わなくていい、のか」
生存者の若い男が、呆然と呟いた。
「信じられない。今まで、一体殺すのにどれだけの仲間が死んだか——」
俺は、刃を下ろした。
怪物と遭遇することは他にもあった。けれど、統制を失った群れは烏合の衆に近く、数は往路と比べて格段に少なかった。
そして——
「見えた」
茜が、声を上げた。
「壁だ。終ノ塔の——壁が見える」
◇
壁が見えた時、俺は膝をついた。
崩れたわけではない。安堵で、力が抜けたのだ。
「帰って……きた」
奈々が、俺の隣で呟いた。
彼女の瞳が、潤んでいた。けれど、笑っている。
「帰って、きたんですね……」
終ノ塔。人類最後の要塞。俺が転生した場所。奈々を迎えに行くために、俺が出発した場所。
壁は、変わっていなかった。灰色の巨大な壁が、夜の国と人類の世界を隔てている。
だが——
壁の向こうの空が、少し明るく見えた。
気のせいかもしれない。けれど、俺にはそう見えた。
◇
門が開いた。
俺たちが近づくと、門番たちが騒ぎ始めた。伝令が走り、人が集まり——やがて、門が開いた。
「生きて……帰ってきやがった」
門番の一人が、呆然と呟いた。
「外征で全滅した隊の生き残りか? いや、違う——あれは」
「異端の少年だ。救世主と呼ばれていた——」
「外から帰ってきた? 生きて?」
声が広がる。人が集まる。
俺たちは、門をくぐった。
◇
塔の中は、騒然としていた。
外征で出発した者が帰還すること自体が稀だ。ましてや、壁の外から人を連れて帰ってくることなど——誰も、聞いたことがない。
俺たちが門をくぐると、人々が道を開けた。畏怖と驚きの目が、俺たちを見ている。
奈々が、俺の腕にしがみついた。
「大丈夫」
俺は、彼女の肩に触れた。
「ここは、俺の故郷だ。……お前を迎える場所だ」
人垣の中を進む。声が飛び交う。
「生き残りが——九人?」
「違う、外征隊は全滅したはずだ。あの中に、知らない顔がいる」
「外の人間? 壁の外に人がいたのか?」
「嘘だ、そんなはずがない——」
声が重なり、人波が押し寄せようとした瞬間——
「道を開けろ」
低い声が、人波を裂いた。
◇
黒藩が、人垣を押し分けて現れた。
統制官の威圧が、周囲を静まらせた。黒い正装に、胸元の徽章。恐怖で塔を統べてきた男が、俺の前に立った。
「……帰ってきたか」
黒藩の目が、俺を見ていた。
「外征の禁を破り、壁の外へ出て——生きて帰ってきた」
「ああ」
俺は、真っ直ぐに黒藩を見返した。
「帰ってきた。外から——人を連れて」
黒藩の視線が、奈々と生存者たちを見た。
「灯ノ塔の生き残りか」
「そうだ」
「……灯ノ塔は滅んだと聞いた」
「滅んだ。地脈が尽きて。けれど、生き残りはいた。俺は、彼女たちを連れて帰ってきた」
黒藩の目が、細まった。
「秩序を乱す行為だ」
「知ってる」
俺は、一歩も退かなかった。
「けれど、俺は帰ってきた。全員を連れて。壁の外で、誰も成し得なかったことを——成し遂げた」
周囲がざわめいた。
黒藩は、しばらく俺を睨んでいた。それから——視線を空へ向けた。
壁の外の空。夜の国の空。
そこに、微かな輝きが差していた。
「……本当に、光が」
黒藩の声が、かすかに震えた。
俺が見たことのない表情だった。恐怖で塔を統べてきた男の顔が、一瞬だけ——子供のように揺れた。
「……変わったな」
黒藩が、低く言った。
「何が」
「お前の目だ。出発した時とは——違う」
俺は答えなかった。ただ、黒藩を見つめ返した。
「……壁の外で、何があった」
「夜の国を越えた。沈黙の館を通過し、沈黙の国に至り——沈黙王と対峙した」
人々が、息を呑んだ。
「沈黙王の秩序を——崩した。夜は、終わりに向かっている」
黒藩の顔から、表情が消えた。
「……何を言っている」
「見ればわかる。空を見ろ。夜の国の空に——光が差し始めている」
誰も口を開かなかった。
黒藩は、俺を見つめたまま、動かなかった。
◇
黒藩が、道を開けた。
「……通れ」
その声には、俺が知らない響きがあった。敗北でも、怒りでもない。何か——もっと深いものが、滲んでいた。
「後で、詳しく聞く。今は——休め」
俺は、黒藩の傍を通り過ぎた。
彼の目は、俺を追っていた。けれど、手を出しては来なかった。
◇
人垣が、割れていく。
俺たちが進むと、人々が道を開ける。畏怖の目。驚きの目。——そして、希望の目。
「外から……帰ってきた」
「壁の外で、生き延びた人間がいる」
「沈黙王と戦った? 嘘だろ」
「けれど——あの目を見ろ。嘘じゃない」
声が、変わり始めていた。
恐怖の秩序で縛られてきた人々が——外から帰ってきた俺たちを見て、何かを感じ始めている。
「夜が——終わる?」
誰かが、呟いた。
「壁の外が——変わる?」
声が広がる。期待が、伝染していく。
俺は、それを背に受けながら歩いた。
まだ何も終わっていない。夜が完全に明けるには、途方もない年月がかかる。俺の生きている間には、終わらないかもしれない。
けれど——俺たちは、最初の一撃を放った。
あとは、この塔の人々が引き継ぐ。
——全員は……連れ帰れなかった。
ふと、外征で死んだ隊員たちの顔が浮かんだ。視るものに喰われた者。這うものに引きずり込まれた者。沈黙の館に誘われ、二度と戻らなかった者。
彼らの顔を、忘れない。
俺が生きて帰ってきたのは、彼らの死の上に立っているからだ。
◇
人垣の中に、見知った顔があった。
「真さん——!」
栞が、人波を押し分けて走ってきた。
彼女の目は赤く腫れていた。泣いていたのだ。ずっと——俺たちの帰りを待ちながら。
「帰って……きた……!」
栞が、俺の前で立ち止まった。息を切らしている。普段の物静かさはどこにもなく、ただ——必死に、俺を見ている。
「生きて……帰ってきてくれた……」
「ああ」
俺は、頷いた。
「約束しただろう。帰ってくる、って」
栞の視界が、滲んでいた。
「記録庫で……待ってました。ずっと……。あなたたちが帰ってきたら、一緒に——記録の続きを読み解こう、って」
俺は、栞の肩を軽く叩いた。
「読もう。俺が見てきたことを——お前に、伝える」
栞が、小さく頷いた。
その瞳には、涙と——知への渇望が、同居していた。
◇
椿と茜が、生存者たちを医療班に引き渡した。
俺と奈々も、医療班に連れていかれそうになったが——俺は断った。
「先に、やることがある」
奈々の腕を取る。
彼女は、俺を見上げた。何も言わない。ただ、俺について来る。
黙老の庵に向かった。
◇
黙老は、庵の入口で俺たちを待っていた。
「……来たか」
老人の目が、俺と奈々を見た。
「儂には——見えておった。お主たちが帰ってくることが」
「予言か」
「いいや」
黙老が、かすかに笑った。
「信じておっただけじゃ。お主の意志を」
俺は、黙老の前に膝をついた。
「俺は——沈黙王と対峙した。世界の真実を——知った」
「うむ」
黙老の目が、穏やかに俺を見つめていた。
「真よ——お主は何を選んだ」
「封印を完成させるでも、破るでもない。第三の道を——選んだ。壁の意味を、書き換えることを」
黙老は、しばらく黙っていた。
やがて——深く、頷いた。
「よく——やった」
その声には、長い時間を生きた者だけが持つ重みがあった。
「お主は——予言を超えたのじゃ」
黙老が、立ち上がった。
「壁が変わったことで……地脈の護りにも、変化の兆しがある」
「地脈の護り?」
「終ノ塔を守ってきた結界じゃ。枯渇が進み、あと百年保たぬと言われておった。……けれど」
黙老が、空を仰いだ。
「壁の意味が書き換わったことで、地脈もまた……息を吹き返し始めておる。微かにじゃが」
俺は、その言葉の意味を噛み締めた。
俺たちが沈黙王の秩序を崩したことは、夜を終わらせるだけじゃない。終ノ塔の未来も——変えようとしている。
◇
黙老の庵を出ると、空の色が少し変わっていた。
——いや、違う。
この世界に、日は沈まない。元々、永遠の夜だ。
けれど——曙光が、少し強く見えた。
「光が……増えている」
奈々が、目を細めて上を見ながら呟いた。
「わたしたちが——変えたんですね」
「まだ、始まりだ」
俺は、奈々の掌に自分の掌を重ねた。
「これから、何十年もかけて——夜は明けていく。俺たちの生きている間には、完全には終わらないかもしれない」
「けれど」
奈々が、俺を見上げた。
「終わりに——向かっている」
「ああ」
俺は、頷いた。
「向かっている」
◇
その夜——俺と奈々は、塔の片隅にある小さな部屋にいた。
医療班が用意してくれた部屋だ。簡素だが、清潔なシーツと、温かい毛布がある。外征で過ごした夜々とは、比べものにならない。
「……やっと」
奈々が、ベッドの縁に座りながら呟いた。
「安心して……眠れる場所に」
俺は、彼女の隣に座った。
「ああ」
奈々の指に、自分の指を絡める。まだ冷たい。外征の疲労と、テレパシーの消耗は、完全には癒えていない。
「……奈々」
「はい」
彼女が、俺を見つめた。
大きな瞳。涙の跡が残る頬。薄い唇。外征で痩せた体。——それでも、彼女は美しかった。滅びの中で希望を灯し続けた、俺の運命の人。
「俺は——お前を迎えに行くと決めた時から、ずっと考えていたことがある」
「……なんですか」
「帰ってきたら——伝えようと思っていた」
奈々の瞳が、揺れた。
「わたしも……」
彼女の声が、震えた。
「あなたに——伝えたいことが、ありました」
俺は、奈々の指を強く握った。
「俺は——お前が好きだ」
言葉が、ようやく形になった。
「初めて声を聴いた時から——いや、それより前から。前世から——俺は、お前を探していた」
奈々の瞳が、潤んだ。
「わたしも……」
彼女の声が、震えていた。
「わたしも——あなたを、ずっと。目を閉じると、いつも同じ人の背中が見えていました。追いかけても、追いかけても、届かなくて……」
俺は、奈々の頬に手を伸ばした。
涙を、指で拭う。
「もう——届いてる」
「はい……」
奈々が、俺の手に頬を寄せた。
「やっと——触れられました」
◇
俺は、奈々の唇に口づけた。
柔らかい。温かい。外征で何度も触れた唇。けれど、今夜は——違う。
安全な場所で。二人きりで。
もう、怪物は来ない。見張りを立てる必要もない。明日の行軍を考える必要もない。
ただ——俺と、奈々だけがいる。
「真さん……」
奈々の声が、かすれた。
俺は、彼女を抱き寄せた。
痩せた体。それでも、温かい。生きている。俺が守り抜いた、運命の人。
「怖いか」
「いいえ」
奈々が、俺の胸に顔を埋めた。
「怖くないです。……あなたと一緒なら」
俺の手が、彼女の背中を撫でた。
外征で何度も抱き締めた体。けれど、今夜ばかりは——違った。
「……いいのか」
「はい」
奈々が、顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、俺を見つめていた。その奥に——覚悟が見えた。
「わたしは——あなたの、ものです」
言葉が、俺の胸に落ちた。
「前世から——ずっと。あなただけの」
唇が重なる。今度は深く。息が混ざり、体温が溶け合う。
奈々の呼吸が乱れた。俺の心臓も、痛いほど脈を打っている。
俺は、彼女の肩に手をかけた。
生成りの衣の肩紐が、するりと滑り落ちた。
白い肩。鎖骨。月明かりより薄い光に照らされた肌。
「……真、さん」
奈々の声が、甘く震えた。
もう——止まれなかった。
シーツの上に彼女を横たえる。覆いかぶさる。重なる体。
二人の影が重なり——灯りが、消えた。
◇
朝が来た——と言っていいのか分からない。
この世界に、朝はなかった。永遠の夜だった。
けれど——窓から差し込む光が、少しだけ強くなっていた。
俺は、ベッドの中で目を覚ました。
隣に、奈々がいた。
彼女は、俺の腕の中で眠っていた。乱れた髪。上気した肌。床に散らばった衣。首筋に残る、赤い痕。安らかな寝顔。
昨夜のことを、思い出す。
俺の顔が熱くなった。
「……ん」
奈々が、身じろぎした。
俺の胸に顔を埋めたまま、目を開ける。
「……おはようございます」
「ああ」
俺は、奈々の髪を撫でた。
「……眠れたか」
「はい」
奈々が、小さく笑った。
「久しぶりに……安心して眠れました」
彼女の頬が、赤く染まった。
「……昨夜は」
「……ああ」
俺も、顔が熱い。
「その……」
「……はい」
二人とも、言葉が見つからなかった。
奈々が体を起こそうとして、小さく顔をしかめた。
「……どうした」
「いえ……少し、体が」
彼女の頬が、さらに赤くなった。
俺も——昨夜の余韻で、妙な筋肉痛がある。
「……その」
「……はい」
言葉にできない気まずさ。けれど——それでいい気がした。
俺は、奈々を抱き締めた。彼女も、俺にしがみついた。
言葉より、体温が伝わる。
「……愛してる」
ようやく、言えた。
「わたしも」
奈々が、俺の胸に顔を埋めたまま答えた。
「愛しています。……ずっと」
◇
その日の午後——俺たちは、塔の最上階に呼び出された。
黒藩がいた。黙老がいた。塔の長老たちが、円卓を囲んでいた。
「帰還の報告を、聞く」
黒藩が、低い声で言った。
俺は、全てを話した。
外征の経緯。夜の国で見たもの。灯ノ塔の陥落。沈黙の館。沈黙の国。沈黙王との対峙。世界の真実。——そして、俺が選んだ道。
長老たちは、黙って聞いていた。
話し終えた時——静寂が、円卓を覆った。
「……信じられん」
長老の一人が、呟いた。
「沈黙王と——戦ったと?」
「ああ」
「勝ったと?」
「……勝ったかどうかは分からない。けれど、奴の秩序を——崩した」
黙老が、穏やかに口を開いた。
「儂は——信じる」
老人の目が、長老たちを見回した。
「この者の目を見よ。嘘を言うておる目では、ない」
長老たちが、俺を見た。
黒藩が——ゆっくりと、口を開いた。
「私も——信じる」
その言葉に、長老たちがざわめいた。
「統制官——」
「見ただろう」
黒藩が、言葉を遮った。
「この者が帰ってきた時——空が、変わり始めていた。夜の国の空に——光が差し始めていた」
誰も口を開かなかった。
「……恐怖の秩序は」
黒藩が、俺を見た。
「もう——通用しないのかもしれん」
◇
会議が終わった後——黒藩が、俺を呼び止めた。
「……一つ、聞きたいことがある」
俺は、振り返った。
「なんだ」
「お前は——なぜ、帰ってきた」
「?」
「沈黙王の秩序を崩したのなら——お前は、外で生き続けることもできたはずだ。壁の中に戻る必要は、なかった」
俺は、黒藩を見つめた。
「……俺の故郷は、ここだ」
「故郷?」
「転生して——この塔で目覚めた。異端と呼ばれ、救世主と呼ばれ——それでも、ここが俺の居場所だ」
黒藩は、何も言わなかった。
「それに——」
俺は、続けた。
「壁の中の人々に、伝えなきゃいけないことがあった。夜が永遠じゃないこと。外に希望があること。——恐怖に閉じ籠もる必要がないこと」
黒藩の目が、揺れた。
「……私は」
彼の声が、かすかに震えた。
「恐怖でしか——人を守れないと思っていた」
俺は、黒藩を見つめた。
「外の恐怖から、人々を守るために——内の恐怖で縛る。それが、私のやり方だった」
「ああ」
「けれど——」
黒藩が、目を伏せた。
「お前は——恐怖ではなく、希望で人を動かした」
長い沈黙が落ちた。
「……負けた、ということだ」
黒藩が、低い声で言った。
「私の統治は——もう、機能しない。お前が帰ってきた時点で——終わっていた」
俺は、首を振った。
「負けじゃない」
「何?」
「あんたは——塔を守ってきた。恐怖で縛るやり方は間違っていたかもしれない。けれど——あんたなりに、人々を守ろうとしていた。それは、否定しない」
黒藩が、俺を見た。
「これからは——違うやり方で、塔を守ればいい。希望の秩序で。外に向かう意志で。——俺は、あんたの敵じゃない」
黒藩は、しばらく俺を見つめていた。
やがて——かすかに、頷いた。
「……覚えておく」
◇
塔は、緩やかに変わり始めていた。
俺たちが帰還してから数日。外征の生き残りの話は、塔中に広まっていた。
「外から——人が帰ってきた」
「壁の外に、生きている人がいた」
「沈黙王を——倒したらしい」
「夜が——終わるって」
声が、広がっていく。
恐怖で閉じ籠もっていた人々が——外を見始めている。
「次の外征は——俺も行きたい」
若い兵士が、そう言い始めた。
「壁の外が変わったなら——俺たちにも、できることがあるはずだ」
変革の波は、静かに広がっていた。
◇
ある日——俺は、椿と茜と栞を連れて、塔の外壁に登った。
夜の国を見渡せる場所。壁の頂上。
「見ろ」
俺は、三人に空を指し示した。
微かな輝きが、夜の空に広がっていた。まだ微かだ。夜明けと呼べるほどではない。けれど——確かに、光が増えている。
「……綺麗」
栞が、呟いた。
「見たことのない色です。夜でも、昼でもない。……これが、夜明けの色?」
「まだ、夜明けじゃない」
俺は、首を振った。
「夜明け前の——最初の光だ。これから、一歩ずつ——夜は明けていく」
椿が、壁越しの空を見ていた。
「……長い戦いになる」
「ああ」
「けれど——」
椿が、俺を見た。
「始まった。お前が——始めた」
それから、椿は視線を空に戻した。胸元の護符に、そっと手を触れる。
「私は——守れた」
小さな声だった。俺にだけ聞こえる声。
「今度こそ」
椿の過去。守れなかった妹。その傷が、今、ようやく癒え始めている。
俺は、何も言わなかった。ただ、彼女の隣に立った。
茜が、腕を組んで空を見ていた。
「あたしは——外で生き延びることしか考えてなかった。集団を失って、一人で生き延びて——それが全てだった」
彼女の目が、俺を見た。
「けれど、あんたに会って——変わった。生き延びるだけじゃなく、世界を変えることができるって——知った」
俺は、三人を見回した。
椿。栞。茜。
外征で出会い、共に戦い、共に帰還した仲間たち。
「……俺一人じゃ、何もできなかった」
俺は、正直に言った。
「お前たちがいたから——ここまで来れた。沈黙王に届いたのも——全員の力があったからだ」
椿が、かすかに笑った。
「分かっている。……だから、これからも一緒に戦う」
茜が、肩をすくめた。
「しょうがないな。あんたの背中、あたしが見ないと誰が見る」
栞が、静かに微笑んだ。
「わたしは——知識で、あなたを支えます。記録庫の全てを——あなたのために」
◇
階段を降りようとした時——奈々が、下から登ってきた。
「あ」
奈々が、俺たちを見つけて、足を止めた。
「皆さん、ここにいたんですね」
俺は、奈々に手を伸ばした。
「こっちに来い。——見せたいものがある」
奈々が、俺の腕を取った。
俺は、彼女を壁の頂上に連れ出した。
「見ろ」
夜の国の空を指し示す。
微かな輝きが、広がっている。
奈々の目が、大きく見開かれた。
「……光が」
「ああ」
俺は、奈々の掌に自分の掌を重ねた。
「俺たちが——変えた」
奈々の視界が、滲んだ。
「綺麗……」
彼女は、俺に寄り添った。
「やっと——見られました。あなたと一緒に——夜明けの光を」
俺は、奈々を抱き寄せた。
椿と茜と栞が、俺たちを見守っていた。
五人で——夜の国の空を見上げた。
◇
光が、じわじわと広がっていた。
永遠の夜だったはずの空に、初めて差し込んだ光。
俺たちが放った一撃の結果。全員の意志が束ねた、希望の楔。
「ここから——始まる」
俺は、奈々の掌を握ったまま言った。
「夜は、もう永遠じゃない。一歩ずつ——世界は変わっていく。俺たちの子孫が、その変化を引き継ぐ」
奈々が、俺を見上げた。
「……子孫」
彼女の頬が、赤く染まった。
「……その」
「?」
「わたしたちの——子供も、ですか」
俺の顔も、熱くなった。
「……ああ。そうだ」
奈々が、俺に寄り添った。
「……楽しみです」
小さな声で、彼女が言った。
「あなたとの——未来が」
◇
壁の外に、初めて光が差していた。
俺は奈々の掌を握り、仲間たちと共に、夜明けの空を見上げた。
「ここから——始まるんだ」
俺たちの夜は——ここから、明けていく。
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(第26話 了・本編完)
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