使節団編 第五章 帯方郡
狗邪韓国を発ち、幾つかの韓の地を経て、一行はようやく帯方郡に達した。
そこに広がっていたのは、これまで見てきたどの港とも違う光景だった。整然と並んだ屋根、石を積んだ塀、行き交う者たちの衣は色も織りも一様に整えられている。市の喧騒とは違う、もっと張り詰めた静けさが、この地全体を覆っていた。
「これが、郡というものか」
巴利が、声を潜めてそう漏らした。もう、以前のような浮ついた声ではなかった。
一行は、郡の役所へ案内された。そこで初めて、大陸の官吏という者たちと正面から向き合うことになった。文机の前に座した役人は、筆と木簡を前に置き、一行の一人一人を、値踏みするような目で見た。
「使いの名を申せ」
難升米が、まず自らの名を名乗った。役人は、それを筆で書き留めながら、幾度か首を傾げた。聞き取った音を、見慣れぬ漢字に当てはめるのに、幾度か書き直しているようだった。都市牛利、伊声耆、掖邪狗と、次々に名乗りが続いた。
トヨメの番が来た。
「そなたの名は」
トヨメは、一瞬、迷った。トヨメと名乗るべきか、それとも――女王の言葉が蘇った。人に軽々しく明かすものではない。本当の名、カガリを名乗ることは、初めから考えになかった。だが、トヨメという祭祀の名も、この場でどう名乗ればよいのか、迷いが生じた。
「私は、ヤマトの記す者にございます」
トヨメは、そう答えた。名でなく、役目を答えたのだった。役人は、怪訝な顔をしたが、それでも何かを聞き取ったように、筆を動かした。
「ヤマ、コ、と申すか」
トヨメは、その問い返しに、訂正しようとした。だが役人は、すでに木簡にその音を書き付けてしまっていた。邪馬觚――見慣れぬ二字が、そこに記されていた。
「違います、私は」
「これでよい。邪馬觚、と。次」
役人は、それ以上取り合わず、次の名乗りへと移っていった。トヨメは、訂正しかけた言葉を呑み込んだ。目の前で、自分でない何かが、確かに記録として残されていく。それを止める術を、この場のトヨメは持たなかった。
その夜、宿所に戻ってから、トヨメは懐の木簡に、そのことを刻んだ。
――我、名を問われ、役目を答う。役人はこれを聞き違え、邪馬觚と記す。訂正叶わず。
書き終えて、トヨメは自嘲するように、小さく息を吐いた。女王が言っていたことの意味が、この時、初めて骨身に染みて分かった。記録に残されてしまう前に、正さねばならぬ――だが、正す間もなく、記録は先に出来上がってしまうこともあるのだと、身をもって知った。
「案じることはない」
傍らで、難升米がそう声をかけた。
「かの地では、我らの名がどう記されようと、我らがこの目で見て、この耳で聞いたことは変わらぬ。記された名は、記された名。そなた自身は、そなた自身のままだ」
トヨメは、その言葉に、少し救われた気がした。だが同時に、心のどこかで、この「邪馬觚」という記された名が、いつか自分よりも長く残ることになるのではないか、という予感も、拭いきれずにいた。
翌日、一行は郡の太守への謁見を許された。ここから先、洛陽の魏帝のもとへ向かうか、あるいは太守を通じての奏上に留まるか、その定めが下されることになっていた。




