後編
始めは男爵視点、途中からピオニー視点なります。
突然の訪問者は男爵程度の階級では、なかなか懇意にできないお方だった。
前公爵夫人、ピオニー・リヨメーナ。
未亡人となり、当主の座を息子たちに譲ってもなお、社交界での発言力は強大だ。
そんなお方が俺の妻を連れて来訪した。
昼間にイライラして馬車から蹴り出してやった不良債権だ。
それがこんな大物を連れて来たのだから、蹴り出した甲斐があるというものよ。
妻を送ってくれた夫人をそのまま帰すのもいかがなもんかと、晩餐に誘うことにした。
晩餐は和やかに進んでいたが、夫人が妻のドレスの話をしたところで空気が変わった。
妻は突然顔を覆い、肩を震わせ泣き出したのだ。
こんな上客がいらしているというのに、みっともない!!
叱責したい気持ちを抑えつつ妻に尋ねる。
「おま……エネメール、突然どうしたんだ」
「だ、だん、旦那様……。私が今日、きて…っ着ていたドレスなんですが……」
しゃくり上げながら話す妻に内心イライラしつつも、夫人の手前大人しく見守る。
「私が、どんなドレスを、着ていたか覚えていらっしゃいますか……?」
そう言って顔を上げた妻は濡れた瞳で私を真っ直ぐ見つめた。
そもそもなんでドレスなんだ。妻のような大して可愛くもない女は何を着たって同じだろう。
「はは、何を言い出すのかと思ったら……。今は関係ないだろう。お客様の前だ。お前の話はまた後でにしようではないか」
「旦那様、今答えてくださいませ」
声は震えていたが、もうしゃくり上げてはいなかった。
ただ濡れているだけかと思った瞳は、何かを見定めようとしているかのようだ。
嫌な汗が背中をつたう。
妻の質問に間違えてはいけない。なぜかそう思えてきて仕方がない。
「お、お前の着ていたドレスは……ああ、あれだ。その……緑色のやつだろう。襟の部分だけ白くなっている……」
妻の目は閉じられた。
肯定の意味では無いことは誰の目にも明らかだった。
閉じられた瞳からは、もうなんの感情も読み取れない。
「旦那様」
そう言って再度目を開けた妻の瞳には決意が宿っていた。
「私と離縁してくださいまし」
「はっ!? な、急に! 客人もいる前だぞ!」
「急ではございません。それにピオニー夫人は、この場でこう告げることを了承してくださっています」
夫人の様子を伺うと、ただ静かにワインを飲んでいるだけだった。
夫人は始めからこうなることを知っていたのだ。
「お前! その女と手を組んで俺を陥れたな!!」
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
瞬間湯沸器と影で呼ばれている男爵は、思った通り怒り出した。
「お待ちになって、男爵。今までのご自身の行いを振り返ってみてはいかがかしら」
何を言うんだ、この女は。とでも言うように大きく見開いた男爵の目は血走っていて、相当の怒りを感じさせる。
怒りで我を忘れかけている男爵に、順に説明して差し上げることにした。
「まず、私がお見かけしたところですが。エネメール様はご自分から馬車を降りられたようには見えませんでしたわ」
男爵夫人と目が合う。決意の強い瞳でしっかり頷いた。
「もうお前など知らん! 勝手に帰れ!!!」
男爵の声色を真似て怒鳴ってみる。
男爵は真っ赤な顔から一瞬で真っ青な顔になった。
「そして、馬車から転がり落ちてきたのはエネメール様。そのまま地面に叩きつけられて、馬車はすぐに走り去って行ったわ。お可哀想に……」
私は頬に手を当ててため息をつく。
「でも、エネメール様は健気な方ね。そんな状況でしたのに、私の馬車の中で男爵のこと一切責めたりしませんでしたわ。私が悪くていつも旦那様を怒らせてしまう、なんて仰ってましたもの」
「そ、そうです。そうなんです。妻は悪さをするきらいがございまして。躾……といいますか、やはり夫である私が叱らねばならないかと……!」
男爵はハンカチで汗を拭きながら捲し立てた。
「そう、悪さ……ですか。一体どんな悪さをされるのです?」
「ええ、妻はその、使用人にもわがまま三昧でして。もちろん私にもです。やはり貴族たるもの経済のために買い物も大事でしょう? ですので買い物に連れて行ってやるんですが、いつも不機嫌な、なにか文句があるような顔をしているのです」
なるほど。弁明の場を与えればいくらでも言い訳を思いつくことが出来るようだ。
「せっかく、この私が連れて行ってあげたのに文句があるなんて!! 感謝というものがないんです、この女は!!」
男爵の話はもう十分だ。
「ねえ、男爵。エネメール様はそこに行きたいと仰ったのかしら?」
「え?」
「今日の買い物は、男爵の夜会服と杖を新調するためと聞いておりますけれど。男爵の買い物なのに、連れて行ってやったというのはおかしいのではなくて?」
男爵は酸素の足りない金魚のように口をはくはく動かしている。
「それに、使用人に対してもわがまま……というのは私が聞いた話と違うように思えますの。ここの使用人の皆様からお伺いしましたけれど、エネメール様は慎ましやかで浪費も少なく、刺繍の腕前はプロ級。玄関に飾ってあるタペストリーも、先程から汗を拭いてらっしゃるハンカチもエネメール様の刺したものだそうですね」
男爵は慌ててハンカチの刺繍に視線を落としている。
「ドレスも、ご結婚されてからほとんど増えていらっしゃらないのではなくて? 今日私のドレスを貸したときに、エネメール様は仰ってました。旦那様はご自身のご衣装は新調なさるのに、私のは目立たないほつれであれば繕いなさい、と言われたと。それに襟元の詰まった、紺色や黒色の地味なドレスしか買っていただけない、と」
「ねぇ男爵。白い襟の緑色のドレスって、一体どなたのものですの?」
白い襟に緑色のドレスというのはここの使用人のお仕着せのカラーリングだ。お仕着せと同じカラーリングのドレスを、女主人が好き好んで着るだろうか。
「旦那様。今日、私が着ていたドレスは、紺色のものでした。結婚してすぐの頃に旦那様が、紺色が私にいちばん良く似合うと選んでくださったものです。あの頃は旦那様といるだけでも楽しくて、毎日が幸せで……」
懐かしむように、少し微笑みながらエネメール様は言った。
「……ですが、今は幸せではありません。毎日旦那様に出自のことをバカにされて、私が話しかけるだけで怒鳴られて。よく旦那様は、気に入らないなら離縁だ!!って仰いますよね」
ここで家令がペンとともに男爵に一枚の書類を手渡す。
「私、今の生活を気に入っておりません。是非、離縁してくださいませ」
青ざめていた男爵の顔色は今や土気色だ。
「立会人は僭越ながら私、ピオニー・リヨメーナが務めますわ」
書類を前にした男爵はワナワナと震えている。
「ど、どうせお前なんか離縁されたあとに行くところなんぞないだろう。お前の実家は貧乏子爵家。この男爵家の支援を目当てに嫁入りしたことくらい分かっている。離縁すれば、お前の実家……ひいては子爵領への援助は打ち切るからな!!!」
その勢いとともに男爵は書類にサインをした。
「では、立会人として私もサインいたしますわね」
続けて私もサインする。男爵夫人……もう離縁なされたからそう呼ぶのはやめましょう。エネメール様のサインは最初から書類に書いてある。
それを私の家の従僕に渡す。すぐに王宮へ届けてもらうようお願いしておいたのだ。
従僕は一礼して男爵邸を出ていった。
「男爵家からの支援もなくなって、お前の貧乏実家がどうなるか見ものだな! はっはっは!!!」
女の浅知恵だと侮ってもらっては困る。
「エネメール様のご実家のご心配はご無用ですわ。だって、エネメール様は起業いたしますもの」
実はエネメール様の刺繍は貴族女性たちからとても評価されていた。
刺繍を教えて欲しい、刺繍した作品を売ってほしいという声は多く、その評判を知っている私は今後の生計を立てる手段として起業を提案したのだ。
エネメール様が収入を得られるのならば、実家の子爵家と領地への支援はだんだんと不要になる。
それまでは手を出した手前、私も支援する予定だ。
「起業!? お前、聞いてないぞ!! そんなことができるのに、なぜしなかった!」
起業のことはおろか、ご自身の刺繍の評判さえ耳に入ることは少なかった。
知恵をつけられては困ると思った男爵が、意図的に彼女の耳に入れないようにしていたからだ。
(男爵はエネメール様の話が始まると、うちの妻がとんでもないとか言って謙遜を混ぜつつ、彼女の失敗談を話し始めていたらしいし)
「旦那様……いえ、もう他人ですから、モランタル男爵とお呼びしますね。私は男爵と結婚したことに後悔はございません。でも、ここで離縁しなければきっと、今後後悔すると思うのです」
そう言うエネメール様はとても美しかった。
「モランタル男爵、お元気で」
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後日談としては、エネメール様の起業したブティックは大成功。図案は独特ながらもセンスがよく、確固たる地位を築きつつある。
刺繍教室も人気で、子爵家もその領地も少しずつ立て直しているようだ。
男爵はというと、使用人の方々がエネメール様のお店の従業員に転職したせいで、少し不便な生活になっているそうだ。
内助の功もあったようで、エネメール様の見えない気遣いで潤滑にいっていた部分が滞りだしているらしい。
「いらっしゃいませ。あら、ピオニー夫人!」
「ごきげんよう。大繁盛なようで何よりですわ」
「おかげさまで。本当にありがとうございます」
「いいのよ。今日はドレスの刺繍を頼める?」
お読み頂きありがとうございます。
更新が遅くなりすみません。