二十四話
すずなは人生において初めて、都と呼ばれる規模の町を訪れた。待ち受けていたのは当然のごとく、驚きの連続である。
道には平らな石が敷きつめられ、土が見えない。道の左右にはのぼりが立ち、一時たりとも客引きの声が途絶えなかった。
座の立ち並ぶ町家を抜け、侍町へ。そこからさらに中心へと向かえば、御柴の居城、啓十城が見えてくる。
(建物が山のよう……)
人の力で、あれをどうやって建てたのか。愕然とするばかりだ。
幸継がすずなたちを案内したのは、城主一家が住む屋敷のある二の丸。
本丸ほどではないが、屋敷も充分に広い。理たちと暮らしていた庵がいくつ入るかと、考えるのも馬鹿馬鹿しいぐらいだ。
「そなたたちは客人だ。心ゆくまで寛いでいってほしい。だが――すずな殿」
「はい」
「そなたがあくまで薬師として功を立てるのならば、このまま二の丸で暮らすのは具合がよくあるまい」
「仰る通りだと思います」
城主の屋敷しか置かれない二の丸で暮らし始めたら、もう宣言されたようなものである。それでは意味がない。
「なので当面は、三の丸に備えた職人たちの居住区で暮らしてほしい。そなたの薬師の腕は私が見込んだもの。腕を見込んで招いたと言えば、誰も文句は言うまい。そなたの腕ならばな」
「ありがとうございます」
大名が腕の良い職人を招き、家を与え生活を遇するのは珍しくない。技術が己の国を豊かにすることを、知らぬ者などいないのだ。
「すまぬが、私は父上に報告をしてくる。適当に寛いでくれ」
座敷を出て言った幸継を見送ったすずなは、改めて部屋を見て――広いなと思う。それはこの屋敷だけではない。町もだ。
誘われるように、すずなは窓に近付く。そこから見える景色は、先程通ってきた賑やかな人の営み。
(けれどわたしは、そこには行けない)
町家にも薬座はあった。しかしそこにすずなが入っては、きっと周りが迷惑する。幸継が見込んで連れてきたという触れ込みは、客を奪ってしまうだろう。
町で商売をしては、必要とする人に薬を届けられない。けれどこれからのすずなは、それよりさらに狭い人々にしかその技を振るえなくなるのだ。
自分で選んだ道に、後悔はしないと決めた。けれど。
「すみません、お師様」
「何を謝るのですか?」
「わたしはお師様の思想から、遠く離れた道へ進もうとしています」
理から教わった技を、彼の思いとはまったく違う方向に振るうことを、申し訳なく感じる。すずな自身、きっとこれから幾度も後ろめたく思うのだろう。
「本当にそうですか?」
俯いたすずなに掛けられたのは、いつも通りに優しい声。問いの形をしたそれに、すずなは顔を上げた。
「だってわたしはこれから、身分のある方に請われて仕事をすることになります。それ以外には、きっと、しない」
「そうですね。そして貴女が役目を果たせば、きっと貴女の技を教わりたいという者が現れるでしょう」
「!」
すずな自身にはできなくとも、教えを請う者が現れれば、その人は伝わった技を自由に振るえる。
「貴女の技を継いだ弟子は、どこかで己の愛のための仕事をするでしょう」
「あ……」
言われて、気付く。
その連鎖もまた、夢へ近付く方法の一つなのだと。
そしてそれは、これからのすずなにしかできないことでもある。
(地位は、権威は、名前は、力)
ただの薬師では叶わないことが、高名な薬師にはできるのだ。
「お師様、わたし、天下に名をとどろかせる薬師になります」
「きっとできますよ、すずなにならば」
「沢山の識者と会って、知識を磨いて、技を磨きます。そして正しい技を、知識を、より多くに広めようと思います」
頼宗と出会ったときのことを思い出す。
気脈を視れる者は稀だという。しかしそれは本当に生まれつきの才能のみで決まるものなのか。もしそうなら、視えない者が正しい処方ができる術を編み出さなくてはならない。
――諦めてはいけない。医の道に諦めなど許されない。
沢山の人と一緒に考え、知識を深めていけば、いつか。
(わたし自身はきっと、極めることはできない)
一生を注ぎ込んでも極められるか分からない薬師の道に加え、幸継と歩む道を加えてしまったのだ。そしてきっとすずなは、幸継を優先してしまう。
――だから。
(薬の道を極めるのは、後の誰かに委ねよう)
自分はその土台を作るのだ。最高の薬師という名声を以って、舞台を作り上げる。
この陽之元全体で、より先へと磨き上げるために。
「お師様、わたし、自分の道を見付けました」
「ええ、強くなりましたね、すずな。愛に満ちた貴女は、とても美しい」
本当に嬉しそうに、理は目を細めて誇らしげにすずなを見つめる。
「ええと……それで、お師様。すごく勝手なことなのですが……」
「何でしょう?」
自分の腕は理と比べれば未熟だが、外では一人前になれるだけの力はあるようだ。まさかとは思ったが、自分の身をかけてまで頼宗がすずなを担ぐ理由はあるまい。
だがその上がいると分かっていて、学ばずにいられようか。
身勝手だと思うし、現実として難しいだろう。それでも繋がりは残しておきたかった。
気が引けた様子のすずなに、理はあっさりとうなずいた。
「もちろん構いませんとも。貴女が望む限り、私は貴女の師です」
「ありがとうございます……!」
「とはいえ、すずなにも仕事ができるでしょうし、私がこちらに住み込むのは少々不都合があります」
「はい……」
都に居を構えてしまったら、理の理念は果たせなくなってしまう。
「ですので、通いということにしましょう。そうですね……。二月に一度、こちらにすずなの様子を見に来ます」
「い、いいのですか!?」
「二月に一度の旅でくたびれるほど老いてはいませんよ。愛弟子の顔と成長を見るためとなればなおさらです」
「お師様……」
申し訳なさは感じるが、本当の意味で師事を継続しようと思えば、そうしてもらうしかない。
「ありがとうございます……!」
それ以外に感謝を伝える方法がなくて、すずなは深く頭を下げた。
「では、我が啓十に留まるとしよう」
「止めはしませんが……。くれぐれもすずなの邪魔をしてはいけませんよ」
「無論」
「ありがとうございます、炬様」
己で決めたこととはいえ、知らない地での生活に不安を感じていたのは確かだった。炬の厚意にほっとしてしまう。
「幸継殿が戻られたら、すずなの新たな門出に乾杯をしましょう。貴女の笑顔で送り出してくださいね」
「はい、お師様!」
請われるまでもない。
心からの笑顔で、すずなは元気よく返事をした。
啓十での生活を始めて、早数日。人の中で暮らすのは幼少期以来だから、大分間が空いている。しかし幸い、すずなは人付き合いが苦手な性質ではなかった。
それなりに周囲ともやっていけそうだと、すずなが自信を付けた頃。
診て欲しい人がいると幸継から請われ、すずなは三の丸の中でも大名屋敷が立ち並ぶ区画を歩いていた。
「幸継様、ありがたいですが、無理をしていませんか? 新参者を遇しているとか」
「問題ない。相手は外様大名の三の姫だ。まだ八つか九つだったと思う」
「なるほど。小さい女の子の相手なら、同性で若輩のわたしが向いているだろうと、そういう言い訳ですね」
厳めしい男性の薬師よりも、すずなの方が適任であるのは間違いない。身分はあるが権力のない姫ならば、よりとやかく言う者は少ないだろう。
「まずは評判を作ってからだ」
「……幸継様は、意外と周到な下準備をなさる方だったのですね」
「もちろんだ。外堀を埋めずに城は落とせん」
けろりとして言い切られる。丸く収めるための手段なので否はないのだが、背中がぞくっときたのは気のせいだろうか。
「本当は私に父上程の信があれば、このような手段を取る必要などないのだが」
「たとえそうでも、わたしは自分で信を勝ち得たいです」
幸継に護られるのではなく、相応しいと認められて並び立ちたい。
「さすが、私を褒賞にする女傑だ」
「もう。それは言葉の綾ではないですか」
幸継が望んでくれていなければ、すずなとてそんなことはしないというのに。自分だけがからかわれるのに、腑に落ちないものを感じる。
「すまない。あまりに小気味よかったので、つい」
「悪く仰っているのでないとは、分かっておりますけれど」
だからついすずなも笑ってしまって、止めきれない。
「だがな、それでも私は私の力で、そなたを護り娶れる力が欲しいと思った。力があってやらぬのと、そもそもできないのとはまったく別だ」
「幸継様なら、すぐです」
幸継ならば、その血筋だけではなく、彼自身の器量で臣下の心を掴む日は、遠くあるまい。
「わたしの瞼の裏には、もうご立派な姿が見えています」
「それでは、そなたの瞳に誠に映れるよう、より頑張らねばな。――うん、やる気が湧いてきた」
幸せで他愛のない時間は、あっという間に過ぎていく。目的の屋敷までは、あと少し。
「すずな殿。啓十に来て――私を選んでくれて、ありがとう。そしてこの先は、命尽きるまで共にいよう」
「はい、幸継様」
交わされるのは幸せな約束。
希望に輝く二人の瞳は、強く美しく、互いを見つめてきらめいた。