歌う百姓
日が暮れてすぐ、玄十郎はなづきの店を訪れた。なづきは歓迎してくれたが、本当は酒など飲む気はない。
酒を飲めないわけではないが、それもこれまで父親の法事のほか、母親の葬式を手伝ってくれた長屋の者に振舞ったのに付き合ったくらいである。
それに今日は、酔うわけにはいかない。
小駄良才平がやってくるのを捕まえて、夕べの技を教えてほしいと頼み込まなければならない。
侍の面子など、どうでもよかった。命がかかっている。いざとなれば、人前であろうがなかろうが、土下座でも何でもするつもりだった。
玄十郎が酒を飲むふりをして待っていると、やがてみすぼらしいなりの、小柄な男が現れた。
年の頃は30ばかりであろう。
目をしょぼしょぼさせた、口元のだらしない男である。
夏の盛りだというのに、顔は大して日焼けしていない。
ということは、日中、外に出ていないのだ。
なづきが近寄ってきて、吐き捨てるように言った。
「あれが才平よ」
「そうだろうと思った」
「あいつが昼間に働いてるの、誰も見たことないんだって」
じろりと睨んで、なづきは炊事場に戻っていった。
やがて才平が酒を頼むと、なづきが盆に一合徳利とぐい飲みを載せて運んでいった。
玄十郎に向けて、露骨に嫌そうな顔をする。
曖昧に笑いかけて、玄十郎はそれとなく才平の様子を伺った。
客はまだまだまばらである。
才平の顔もまだ赤くはなっていない。やはり酒は強いらしい。
だが、外が暗くなって踊りのお囃子が聞こえる頃になると、客が増え始めた。
その頃になると才平もだいぶん出来上がってきたらしく、なづきも頻繁に酒を運ばなければならなくなってきた。
やがて徳利も次第に大きくなり、やがてなづきも運べなくなったらしく、店の男が一升徳利を2つ3つまとめて持ってくるようになった。
しまいには男2人が樽をえっちらおっちら運んできて、升を才平の目の前に置いた。
才平は升で樽の酒を汲み、浴びるように呑む。
この頃になるとようやく顔に赤みがさしてきて、口元からは小唄がこぼれ始めた。
ええぞ、と誰かが手拍子を取ると、店の客が皆、それに合わせる。
才平は見るからにいい気分で、高らかに歌いはじめた。
その声たるや、店が揺れるほどの大きさなのであるが、決して耳障りではない。むしろ、いつまでも聞いていたくなるほど上手い。
耳を塞いでいるのは、炊事場の奥のなづきぐらいのものである。
客は入れ替わり立ち代りやってきては、才平の歌に手拍子を打って酒を飲む。
樽の酒が空になると、店の男がもう一樽持ってくる。
その酒も飲みつくされた頃、才平は立ち上がってふらふらと歩きだした。店の男に酒樽を担がせてもらって、ふらりふらりと出て行く。
玄十郎はなづきに勘定を払うと、才平を追って店を出た。
踊りの輪の中を泳ぐように、才平は千鳥足で自在に歩いていく。玄十郎は前の晩のようなことがありはしないかと怯えながら、人の波をかき分けかき分け、後を追った。
なんとか踊りの輪を抜けて宗門橋を渡ると、暗い道が小駄良に向かって続いている。才平は右に左にと危なっかしい足取りで歩いていく。
これで追いつけないわけがないと足を速めたが、才平の千鳥足にはなぜか追いつけなかった。ついていくのがやっとである。
道は次第に山道に入り、フクロウの鳴く声が聞こえ始めた。
足元が暗く、玄十郎は何度も転びそうになったが、才平は平気でひょいひょいと歩いていく。
何としても見失うまいとしたが、とうとう才平の姿は、闇に溶けるように消えてしまった。
玄十郎は追跡を諦めた。知らない山道で迷って、獣に襲われたり、昨日の男に殺されたりしては何にもならない。
暗い夜道を一人、玄十郎は肩をすくめて辺りを見回しながらびくびくと帰った。
さて、玄十郎が店を出た直後、二人の男がこんな言葉を交わしていた。
もちろん、才平が去った後でも熱気のさめやらぬ中で、聞いていたものは誰もいない。
「追いましょうか」
「やめておけ」
「なぜ?」
「あの男に出しゃばられると困る」
追うなと止めた男は、客の中でもひときわ目立って背が高かった。




