第10話 豆柴の描いた理想郷
第十話:豆柴の描いた理想郷
「ちょっとアンタ、何ニヤニヤ笑ってんのよ! 気持ち悪いわね!」
叫ぶおばちゃんに向かって、男がすばやく間合いを詰めた。
「嫌だ! なによこれ! 離しなさい!」
嫌がり暴れるおばちゃんの口に、男は試験管に残った液体を強引に注ぎ込む。続いて、困惑して後ずさりしていた同僚の青年にも、泣き叫ぶレジの女子大生にも、無理やり飲ませていった。
全員が最初は恐怖に顔を歪め、拒絶していた。
しかし、その「ハルの液体」が喉を通った瞬間——全員の瞳から毒気が抜け、とろんと濁り、そして全員が最高の笑顔になった。
「あははは! なにこれ、すごい! 体が軽い!」
「ごめんねぇ、今まで嫌味ばかり言って! 私、本当はみんなのことが大好きなのよ!」
「僕も……こんなに心が晴れやかなの、久しぶりですよ……!」
さっきまで一番険悪だったおばちゃんが、俺の手をぎゅっと強く握りしめてきた。その手は驚くほど温かかった。いつも引き引いていた青年も、女子大生も、お互いに肩を組み合って、幼子のように声を上げて笑っている。
ふっと、足元から浮力が発生した。
俺たちの体は軽やかに宙に浮き、スーパーの天井を滑らかに突き抜けて、果てしない青空へと飛び出した。
風が心地いい。
おばちゃんと、青年と、女子大生と、俺。全員で手をつなぎながら、ゆったりと大空を舞う。そこには就職難も、貧困も、人間関係の軋轢も、何ひとつ存在しなかった。ただ圧倒的な多幸感だけが世界を満たしていた。
優雅に空を飛びながら、俺はふと、すべてを理解した。
(そっか……これが、ハルが思い描いた理想なんだ)
あの小さな豆柴は、いつも部屋の隅から悲しそうな顔で俺を見ていた。
殺伐とした部屋でため息をつく俺を、バイト先で傷ついて帰ってくる俺を、ハルは胸を痛めて見つめていたのだ。
ハルはただ、俺に笑ってほしかった。
俺だけじゃない。俺を取り巻くバイト先のみんなも、険悪なおばちゃんも、いつも疲れていた青年も、全員がただ笑って、楽しく過ごしてほしかったのだ。
『みんなで笑っていられたら、それだけでよかったのに』
自分をすり潰してできたその薬で、ハルは俺たちに「理想の天国」をプレゼントしてくれたのだ。
「ハル、ありがとう……俺、いま最高に幸せだよ」
俺たちは手を繋いだまま、どこまでもどこまでも、青空の奥へと笑いながら飛んで行った。
……目が覚めると、薄暗い三畳間の天井が見えた。
頬には、泣いていたのか冷たい涙の跡が残っていた。
ハルなんて豆柴は最初から飼っていないし、今日も相変わらず不機嫌なおばちゃんと疲れ切った青年が待っているスーパーのシフトが入っている。
現実は何ひとつ変わっていない。
それなのに、あのおぞましくも甘い血肉の味と、みんなで手をつないで空を飛んだ理不尽なほどの幸福感だけが、舌の奥にいつまでもこびりついて離れなかった。
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