第93話 毒の投与
ひんやりと無機質な床と壁。
ここは、私のために作られた堕天使専用の研究施設。
表向きは『魔導機構生産工場』として登録されているけど、実態は非人道的な実験の温床だ。
授業を終えた私は、気の重い足取りで施設の中を歩く。
大天使との誓約により、週に一度、必ず来ることが義務付けられている──逃れられない決まり。
与えられた自室に入り、支給されたワンピース型の被検体用病衣に着替えて部屋を出る。
すると科学者たちが待ち構えていた。
「お待ちしておりました、聖明様。
本日は毒に対する耐性実験となっております」
「……わかってる」
胸の奥で、重い溜息が燻る。
即死する毒なら、むしろ楽だ。
死んで生き返るだけなら、痛みも一瞬。
だけど、遅延性の毒や、死なない程度に苦しめる類のものは──長い。
抗体が作れるかを調べているらしいけど、成果はほとんどない。
不死であるだけで、耐性まで自在に得られるわけじゃない。
偶然、抗体ができたとして、普通の天使に使える保証はない。
結局わかるのは『堕天使をどうすれば効率よく苦しめられるか』だけだ。
白い廊下を科学班に囲まれながら進んでいき、実験室に案内される。
白い部屋の中央に、白いベッドが一つ。
ベッドの周辺には毒が入っていると思われる点滴球が浮いている。
……今日は点滴タイプか。最悪だ。
長丁場になるのは間違いない。
でも、そんな表情を顔に出してしまえば変態科学者たちが喜ぶだけだ。
私は促されるがまま、ベッドに横たわる。
そのまま科学者たちは無言で、私の腕に点滴の針を刺した。
──今回は、何の毒だろうか。
若干の不安が心を暗く染めていく。
「では、聖明様。投与を開始致します。
我々は横の部屋で観察し、記録を取っております」
どこかニヤついた表情を見せる科学者に嫌気が差す。
点滴の毒が一滴、一滴と身体に入っていく。
それを確認すると科学者たちは横の部屋へと消えていく。
暫くすると、体の奥からじわじわと不快な感覚が広がる。
胃がむかつき、頭が重く、視界が霞む。
冷や汗が滲み、指が痙攣し始めた。
……これは、マズイ。
呼吸が荒くなり、全身が震え出す。
腕で自分を抱き締め、必死に耐える。
しかし、とうとう制御が利かなくなり、身体が女性の姿へと変わってしまう。
それさえも気にすることができないほどの激痛が、全身を駆け巡り始める。
意識が一瞬遠のき、すぐ戻る──その繰り返し。
声を出すな!弱みを見せるな……っ!
喉から漏れそうになる声を、唇を噛んで押し殺す。
痛みと吐き気と痺れが交互に押し寄せ、思考が削ぎ落とされていく。
早く……終わって……っ!
◆◆◆
……どれほど時間が経ったのか。
揺れる視界で点滴球を見上げる。
ようやく点滴球が空になり、科学者たちが戻ってきた。
「どうやら終了のようですな」
「血液サンプルを」
朧げな視界の中、彼らが私の血を採取していく。
動こうとしても、力が入らない。
それでも、ベッドに転がったままではいけないと思い、どうにか身体を起こす。
このまま転がっていたら、何をされたものか分かったものじゃない。
「……今日の実験は、終わりだ……」
「ええ、もちろんですとも。お疲れ様です、聖明様」
不敵な笑みを残し、科学者たちは部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞いた瞬間、私はベッドから崩れ落ちるように床へ倒れ込む。
息が上手くできない。麻痺が酷く、声も出ない。
それでも、指先に小さな魔法陣を展開して魔力結晶を生成し、龍に通信魔法を繋ぐ。
『聖明、今連絡来たってことは実験が終わったんだな』
「龍……ごめ……実験所に来て……第三号魔導機構生産工場、地下……毒薬、実験室……」
『わかった、すぐ行く。気絶するなよ』
通信が切れた直後、激痛が再び全身を駆け巡った。
爪が床を削るほど力を込め、喘ぎ藻掻く。
涙が、勝手に溢れて止まらなかった。
◆◆◆
視界がグラつく──感覚が鈍く、もうわからない。
「聖明!」
馴染みの声が、遠くで響いた。
……けれど、身体が動かない。
声も上手く出せる気がしない。動くのは、わずかに目だけ。
その反応に気付いた龍が、すぐさま駆け寄ってきた。
脈を測り、顔色を見て、眉を顰める。
「くそ……発作も出てるな。お前の部屋に運ぶぞ!」
龍は私をブランケットで包み、身体を抱き上げ、近くの車椅子へ乗せる。
そのまま全力で廊下を駆け抜けた。
準備されている私の自室に入るや否や、龍は私の荷物を探り、一本の注射器を取り出す。
「とりあえず発作を止める!」
迷いなく、私の首に針を突き立てた。
中身は、高濃度の光のマナを圧縮した──私専用の抑制剤。
闇の暴走を抑えるための非常用だ。
薬が全身に広がるにつれ、少しずつ痛みが薄れていく。
「……り……う……」
掠れた声が、ようやく漏れた。
「おう、ここにいる」
彼は私の顔を覗き込み、安心させるように笑ってみせる。
「ま……ひが……」
「わかってる。麻痺が出てるんだな。まずはベッドに移そう」
龍に抱えられ、ベッドに移動すると、彼は手際よく呼吸補助装置を私に装着する。
「呼吸はこれで何とかなる……よし」
その後も、彼は一つひとつ丁寧に処置を施してくれた。
視線だけで応答する私に、彼はこう言った。
「まだ意識はあるな。左手、少しでも動かせるか?」
私は、微かに指を動かして応えた。
「よし、今からお前の状態を予測してみる。合っていたら一回手を握ってくれ。違ったら二回だ」
龍は私の左手を握る。
私は返事をするように、龍の手を一度ぎゅっと握った。
それを確認すると、龍はゆっくりと話し始める。
「恐らく強めの麻痺で、呼吸が乱れてる。
学院を出た時間から考えると、投与されてから2~3時間は経ってるな。
実験時間の長さを考えると、恐らく点滴で継続的に投与されたはずだ。
それなら窒息で何度か気を失っている可能性がある」
私は指先にわずかな力を込めて、一回握る。
龍は頷き話を続けた。
「麻痺以外にも若干の痙攣がある。
投与開始からこれだけ時間が経っても通信できてたってことは、即効型じゃない。
症状の出方から見ても遅延型だ。
つまり──今も進行中だ」
冷静な口調の中に、確かな焦りが滲む。
「ここからは推測も入る。
つい先日、エクソシストがナーガと呼ばれる魔法生物を討伐した。
頭が七つある魔物で、それぞれの頭が異なる猛毒を持っていた。
それらの毒は解析中で、安全が確保されるまでは保管されていた……はずだった」
この時点で、大体の見当はついた。
「実は来る途中で記録を調べた。
保管数と記録が合わない。
毒のサンプルが一つ、無断で持ち出されてる。
つまり、その毒が使われたんだ。
でもな……残念なお知らせがある」
龍は一拍、間を置いて言った。
「血清は──ない」
何となく察していた。
けれど、その言葉を聞いて心が沈む。
堕天使である私の『不死性』を前提とした、命を削るだけの実験。
死なないとはいえ、身体への負担に限界がないわけじゃない。
「今のお前は、意識はあるし、なんとか呼吸もできてる。
つまり『致死』には至っていない状態──その分、苦しみが長引くってことでもある」
静かに、だけどはっきりと、龍は言葉を続ける。
「俺が考える対応は、三つ」
龍の説明はこうだった。
ひとつ──治癒魔法で再生力を強化し、毒を押し流す。
だけど、肉体への負担は大きく、私の弱い体では、一週間以上寝込む可能性が高い。
ふたつ──血液の入れ替え。
これは不可能に近い。
堕天使の身体は他者の血を拒絶する。
血液結晶という人工の血液もあるけど、飽くまで輸血で使用されることが多く、交換輸血には向いていない。
試すにはリスクが大き過ぎる。
みっつ──自然治癒に任せ、体力の回復を待つ。
時間は掛かるけど、身体への負担は最も少ない。
時間が掛かると言っても一週間以内で済むだろうという見解だ。
「俺のおすすめは、最後の案。
苦しいのは続くが……お前の身体には、それが一番優しい」
私は左手に力を込め、どうにか声を出す。
「……三つ目が、いい」
「了解。けど、このままこの施設に置いておくのは不安だな。
堕天使に頼んで、カゴノトリへ移送しよう。
そっちのほうが安全だ。
瑠璃ちゃんには『発作で倒れた』って、俺から誤魔化しておく」
その言葉に、涙が滲んだ。
申し訳なさと、感謝と、情けなさが胸に広がる。
「あ、りがと……」
「おう!お前は少し眠っておけ」
「……うん」
龍は何も言わず私の手を握り続け、私が意識を手放すまで側にいてくれた。




