風変わりなカフェ
空から、冷たい雨が降り始めた。
2060年のメガロポリスに降る雨は、工業地帯の排煙と微弱な漏出魔力が混ざり合った酸性雨だ。普通の人間はすぐに傘か魔力障壁を展開するが、メアリーにとっては、この微弱な毒の雨は乾いた土に染み込む水のように心地よかった。
雨を弾くこともせず、メアリーは破れたメイド服を濡らしながら、当てもなく歩き続けていた。
(……お腹が、空いた)
肉体を持つ以上、チフス人であっても飢えからは逃れられない。
路地裏を抜けた先、少しひなびた裏通りの一角に、ひと際柔らかい光を放つ小さな店があった。ネオンでギラギラと飾られた周囲の建物とは異なり、そこだけがまるで古き良き異世界から切り取られてきたような、アンティーク調の木とガラスで作られた外装だった。
看板にはこう書かれている。
『Lunatic Cafe』
扉の隙間から、コーヒーの香ばしい匂いと、どこか懐かしいハーブの香りが漏れ出てきた。
メアリーはその店の前で足を止め、ショーウィンドウに飾られた美しい魔石ランプやカップの数々を、無表情な翡翠の瞳でじっと見つめた。
自分のような怪物が、入っていいような清潔な場所ではない。
毒液がひたひたと垂れ続ける腕と太ももを見て、メアリーは踵を返そうとした。
その時、カラン、とドアベルが鳴った。
「こんな土砂降りの中、そんな『美味そうな雨』を全身で浴びてるのは、捨て猫か、それとも迷子の妖精さんくらいのもんだぜ」
現れたのは、初老の男だった。
使い込まれたエプロンを腰に巻き、片目には単眼鏡のような魔道機巧のレンズを嵌めている。落ち着いた声色が、メアリーの記憶にある「あの商人」の姿と少しだけ重なった。
「……猫では、ありません。私は——」
メアリーの口から自然とこぼれたのは、馴染み深い決まり文句だった。
「道に迷った、メイドです」
男はメアリーの異様な姿——特に、緑色のスライム状の粘液に覆われた異形の腕と足——を見て、小さく口笛を吹いた。
「ほほう。光学迷彩じゃねえな。本物の『生体毒素』か。しかもこれ、魔障壁くらいなら簡単に溶かせる極上の濃度ときてる。随分と物騒なメイドさんだ」
男の単眼鏡がカシャカシャと音を立て、メアリーの毒の成分を瞬時に解析したらしい。
「……逃げないんですか」
メアリーの問いに、男は肩をすくめた。
「うちの店には、魔女の使い魔だろうが、電脳ハッカーの幽霊だろうが、色んな厄介者がやってくるんでね。ちょっとばかり毒素が強いからって、客を追い出しゃしないよ」
ぐうぅ。
メアリーの腹の虫が、間抜けな音を立てて鳴った。
彼女の氷のような無表情が一瞬だけ、ほんの数ミリだが赤く染まったような気がした。
「ははは! いいね、実に人間臭い。入んな。雨宿り代金として、うちの余ってる賄いでも食っていくといい。ただし——」
男はメアリーの手首を見た。
「床と椅子を溶かさないように、その緑色のシロップは絞っておけよ。うちのアンティーク家具は高いんだ」
「……その制御なら、慣れています」
メアリーは静かに答え、三年ぶりに、あの皇帝への復讐を隠し通した時と同じ「無」のコントロールで、毒の酸性を最低値まで鎮平化させた。
緑色の粘液は、ただの冷たいスライムの手袋に戻った。
男は満足げに頷き、店の奥へとメアリーを招き入れた。
カランコロン。
ベルの音が、新天地での第一歩を告げる。
失われた故郷、血塗られた帝国、そして平穏な箱庭。
すべてを失った有毒のメイドは、この2060年の異郷にポツンと佇む『Lunatic Cafe』に、その疲れた身体を降ろしたのである。
(第18話 了)




