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不条理

 裏庭は、秋の陽だまりの中にあった。

 メアリーは黒い編み上げブーツの足音を立てずに芝生を歩き、レンガ造りの古い物置の前に立った。

『あの赤い毒草の種を植え替える』

 商人の言葉を思い出しながら、メアリーは物置の扉に手をかけた。チフス人の集落でよく見かけた、微弱な麻痺毒を放つ美しい赤い花を咲かせる草だ。商人は、失われたメアリーの故郷の残骸を、少しでもこの庭に再現しようとしてくれているのだろうか。


「……旦那様はお優しい」

 無感情な声で呟きながら、メアリーが物置の扉を開けようとした、その瞬間だった。


 ——ピキィィィィィン……ッ!!


 ガラスに巨大なヒビが入るような、甲高く、そして神経を直接削るような異音が空間に響き渡った。

 音源は、メアリーの目の前——物置と彼女の間の何もない空中だった。

 光が屈折し、景色が歪む。

 魔力ではない。錬金術でもない。この世界ファンタジーの物理法則とは全く異なる、理不尽で圧倒的な「裂け目」が、瞬きする間に大きく口を開けたのだ。


「っ……!?」


 メアリーの翡翠の瞳が、驚愕に見開かれた。

 十五歳の夜以来、どんな事態にも動じなかった彼女の心が、初めて純粋な「未知への恐怖」に反射した。

 凄まじい吸引力が、裂け目のブラックホールから発生する。周囲の落ち葉、小石、そして物置の扉すらもへし曲がり、その暗黒の中へと吸い込まれていく。


「な、なんだこの穴は!」

 異音に気づいて駆けつけてきた商人が、庭の入り口で悲鳴を上げた。

「近寄らないでください、旦那様!!」

 メアリーは叫んだ。


 彼女の身体が、宙に浮き上がりかけていた。

 メアリーは咄嗟に、両手首から限界濃度の「スライム毒」を噴出させ、地面のレンガに向けて放った。毒の粘液をアンカーの代わりにして、地面を溶かしながら強引に固定しようとしたのだ。

 ジュゥゥゥゥッ!

 猛烈な白煙が上がり、黒ずんだ緑の毒液がレンガを深く抉り取る。しかし、空間の裂け目の吸引力は、物理的な固定を易々と無効化した。メアリーの身体は、地面のレンガごと根こそぎ引き剥がされそうになる。


「メアリー!!」


 商人が、自らの危険も顧みずに飛び出し、メアリーの黒いエプロンの端を掴んだ。

「離して! あなたまで引きずり込まれる!!」

「馬鹿野郎! 俺のとびきり優秀なメイドを、こんなわけのわかんねぇ穴倉にくれてやるか!!」


 商人が全身の力で踏ん張るが、老齢の彼に空間の力学をねじ伏せる力などあるはずもない。

 メアリーの目に、必死の形相で自分を引き上げようとする商人の姿と、その背後に広がる穏やかで美しい家と庭が映った。

 ようやく手に入れた、何もない、空っぽだけれど温かな平穏。

 それが今、全く意味の分からない不条理によって、二度目の略奪を受けようとしている。


(また、奪われる)


 メアリーは決断した。

 己が腕を覆う毒の粘液の性質を変化させる。強酸から、極めて切れ味の鋭い「腐食の刃」へと。

 彼女はためらうことなく、商人が掴んでいた自らの純白のエプロンのひもを、毒の刃で斬り裂いた。


「なっ……!?」

「短い間でしたが、ご奉仕できて光栄でした。……お元気で、旦那様」

 商人の手が空を切り、彼その場に尻餅をついた。

 それと同時に、アンカーを失ったメアリーの身体は、一直線に漆黒の裂け目へと吸い込まれていく。


「メアリーァァァァァァァッ!!」


 商人の絶叫が、空間のねじれる音にかき消される。

 裂け目の入り口が閉ざされる寸前、メアリーの視界の最後に映ったのは、真っ青に澄み渡った故郷の秋空と、ぽつんと庭に残された一片の白いエプロンの切れ端だった。


 そして、暗転。

 皇帝を呪い殺し、帝国を滅ぼした有毒のメイドは、その理不尽な力の奔流に呑まれ——全く別の世界へと弾き出されたのである。


(第16話 了/Phase 4 完結)



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