10.ギャン泣きする26歳
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目を覚ますとアーノンさんの家で、僕は三日も寝ていたんだとパージが教えてくれた。
「エイクは助かった。後遺症もなさそうだ――俺からも礼を言わせてくれ」
僕に水差しで水を飲ませながらパージが言った。
水差しの水はとても冷たくて美味しい。ほんのり甘みさえある。
「蜂蜜を溶かした水だ。栄養があるぞ」
そうなんだ。この世界でも甘味は貴重なはずだ。それを僕の為に使ってくれるなんて。
ありがとうと言いたいけど、パージが水差しを離してくれず言えない。――もういいよって水差しを押し戻そうとしたけど、うまく手に力が入らない。
幸い、気配を察したパージが水差しを引いてくれたから、僕は溺れずに済んだ。
けど、うまく話せない。体に力が入らないんだ。
「魔力を使いすぎたんだろう。初めて魔法を使ったらそうなる事もある。魔力の制御がうまくない奴は特にな」
揶揄うような、それでも森の中で見たような侮蔑の色は全く見えない笑いを浮かべてパージが言った。
その夜、僕はベッドで考えていた。アーノンさん達は眠っている時間だ。窓の外では虫や小動物の気配がしていた。
眠っている間、何か夢を見ていた気がする。
あの声の主だと思う。僕に自分の元に来るよう言っていた。――いや、意識を失う前に言われたことか。
繰り返し夢に出てきては、僕に待っていると言っていたんだ。
やっぱり、あれはアベル王子なんだと思う。
なぜアベル王子が僕を呼ぶのかはわからない。でも、なんとなく僕がこの世界に来たのは、アベル王子が関係しているんじゃないかと思うんだよ。そうじゃないと、アベル王子が僕に話しかけるのも、僕を呼ぶのも納得がいかない。
つまり僕はやっぱり元の世界に戻る為には、アベル王子に会いに大森林に入らなきゃいけないって事なんだ。それが力をつけるって事なんじゃないだろうか。
そう思うと、森の中での出来事が鮮明に脳裏に浮かんできた。
パージを取り囲む狼の群れ。突き刺されたエイクさんの体。倒れたサイの魔獣――
一歩間違えたらパージもエイクさんも死んでた。そして、それは未来の自分かも知れない。
今まで日本で危険とは無縁な生活をしていたのに、なんで僕はこんなところでこんな選択を強いられなきゃいけないんだよ。
僕はベッドでシーツを頭から被って体を丸めて――泣いた。怖いんだ。
異世界転移ものとか好きだったから、漫画も小説も読んでいたよ。主人公はみんな当たり前みたいに戦って、当たり前みたいに無双してた。
でも、これは現実なんだ。やられれば痛いし、怪我をすれば血が出るし、下手したら死ぬんだ。そして、死なないためには相手の命を奪わないといけない――怖いんだよ。今だって、体がすごく怠くて、トイレさえ一苦労なくらいだ。
パージが危ないと思った時、僕は無我夢中だった。まるで、僕の体が僕のものじゃない、そんな感覚だった。
だから、僕自身が戦ったなんて意識は全くないし、また同じことをしろと言われてもできない。
あの魔獣に潰された村の残像が浮かぶ。魔獣の襲撃でパージの幼馴染も死んでしまった。
ハンターの修行をした人でさえ勝てないんだよ。僕に勝てるわけがないじゃないか。魔法を使っただけでこの辛さだよ。無理に決まってる。
何なんだよ。なんで僕がこんな目に遭うんだよ。
帰りたい。みちるが待っているのに。みちるのお腹には僕の子がいるかもしれないのに。
「眠れないのか」
すぐ近くでパージの声がした。僕の嗚咽が聞こえたのか、起してしまったのかもしれない。けど、泣き腫らした顔を見られたくなくて、僕はシーツを頭から被ったまま顔を出さなかった。
「急に色々な事が起きたからな。俺達にはこれが日常だけど、お前の世界では違ったんだよな。――命の心配をしなくていい世界って……いいな」
パージの声が優しい。シーツの上から僕の体を撫でてくれているのが分かる。
「帰りたいのはわかるけどさ。怖いなら、無理しなくていいんじゃないか?お前なら魔導士としてでもやっていける」
シーツ越しにパージの手の温かさが伝わってくる。心配してくれているんだ。
「駄目だよ――僕はアベル王子の所に行かなきゃ――自分のいた世界に帰らなきゃ」
「お前が帰る事を諦めたら、無理する必要なんてないんだぞ。魔導士なら魔獣と戦わなくてもいいし、魔法を研究するだけの安全な環境は確保されるんだ」
――元の世界を諦める?それは、僕はつまり、みちるとお腹の子を諦めて、無責任に自分だけ助かろうって言う事なの?
僕がいなければみちるはシングルマザーになってしまうし、お腹の子だって父親を知らずに育つことになるんだ。
僕はシーツを捲ってパージを見た。
「パージは、自分が助かりたいからって大事な人を見殺しにできるの?」
「できないのは、お前もだろ」
僕の言葉に答えるパージの声はとても優しかった。
「怖いなら逃げる事もできる。でも、お前は怯えてはいるけど逃げようとはしていない。――狼の時だって、お前は結界を放り投げて俺を助けてくれた。今日初めて会ったばかりの俺を見殺しにしなかっただろ」
「あの時は無我夢中で――でも、僕怖くて――死にたくないけど、みちるにももう一度会いたい――帰りたい。戦いたくなんかないよ。どうしていいかわかんないんだ」
しゃくりあげながら、僕はパージにしがみついて自分の心中を吐露した。
パージは僕が全部言い終わるまで、ずっと黙って聞いてくれていた。
「お前が逃げると言っても、俺は責めない。でも、もし進むと言うのなら、俺はお前を助けるよ。――お前が俺を助けてくれたように」
「――パージ……」
「お前がアベル王子の元に行くと言うのなら、俺も一緒に行ってやる」
「俺もだ」
パージに続いて、アーノンさんの声も聞こえてきた。
顔を上げると、いつの間に来ていたのか、パージの後ろに立つアーノンさんが、窓から差し込む月明かりに浮かび上がっていた。
「アーノンさん――起こしちゃって……」
泣きすぎてうまく口が回らない。アーノンさんはパージの隣に来ると、僕の頭に手を置いた。――温かい大きな手だ。
「お前はパージとエイクを救ってくれた。命には命で返すのが俺達だ。――だが、強制じゃない。お前の選択を俺達は尊重する――だから、気負わなくていい」
温かい手と同じくらいの温かい言葉だった。
そんな事言われたら、もう逃げれないじゃないか。行くしかないじゃないか――アベル王子の元に。
――大丈夫。君ならやれるよ。
あの声が聞こえた気がした。