第1話「せめて昨日にしてくれ!」
俺の名前は澤田浩哉。
四十歳。
会社員。
役職なし。
出世の予定も、たぶんない。
いわゆる、うだつの上がらないサラリーマンだ。
そんな俺にも楽しみくらいはある。
アニメ。
ラノベ。
そしてフィギュア。
今日は仕事も休み。
好きなアニメのフィギュアが入荷したと聞いて、俺はアニメイトへ向かっていた。
「残ってるといいな」
頭の中にあるのはそれだけ。
だから。
足元なんて見ていなかった。
「うおっ!」
小さな石につまずいた。
本当に小さな石だった。
たったそれだけ。
俺は派手に転んだ。
「いってぇ……」
四十にもなって道端で転ぶ。
恥ずかしい。
誰かに見られてないよな?
俺は周囲を確認しながら立ち上がった。
「…………は?」
景色が変わっていた。
アスファルトがない。
ビルもない。
車もない。
コンビニもない。
そして。
当然――
アニメイトもない。
あるのは土の道。
木造の家。
そして。
髷を結った人たち。
「…………」
俺はゆっくりしゃがんだ。
もう一度立ち上がる。
変わらない。
「……なんで?」
もう一回。
しゃがむ。
立つ。
やっぱり変わらない。
「そういうシステムじゃないのか……」
何言ってんだ、俺。
頬をつねる。
痛い。
夢じゃない。
「忠敬先生!」
突然。
男の声が聞こえた。
俺は振り返る。
一人の男がこちらへ走ってくる。
「先生、何をなされているのです?」
「…………」
俺は後ろを見る。
誰もいない。
「先生?」
男が俺を見る。
「……俺?」
「はい」
「先生?」
「はい」
「俺が?」
「……忠敬先生?」
ただたか。
どこかで聞いたことがある。
誰だ?
芸能人?
違う。
歴史。
昔の人。
俺は必死に記憶を探る。
そして。
一人の名前に辿り着いた。
「……伊能?」
男が眉をひそめる。
「はい?」
「伊能……忠敬?」
「…………」
男の表情が変わった。
完全にヤバい奴を見る目だ。
「先生」
「はい」
「ご自身のお名前を、どうかなされたので?」
「…………」
嘘だろ。
俺が?
伊能忠敬?
あの?
日本地図の?
その瞬間だった。
目の前に文字が浮かんだ。
【史実情報】
人物:伊能忠敬
年齢:五十五歳
予定:第一次測量開始
史実との差:〇日
タイムパラドックス発生リスク:〇・〇〇〇%
「…………」
情報量が多い。
待て。
落ち着け。
伊能忠敬。
俺だって知っている。
日本中を歩いて。
日本地図を作った人。
小学校か中学校で習った。
それくらいは知っている。
……それ以外はほとんど知らない。
「先生?」
男が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「あの」
「はい」
「あなたは?」
今度こそ男の顔が固まった。
「…………」
「いや、その……確認」
「門倉隼太ですが」
かどくら、はやた。
知らない。
まったく知らない。
俺の日本史知識のどこを探しても出てこない。
「門倉……隼太」
「はい」
「俺たち、知り合い?」
「先生!?」
門倉が一歩詰め寄ってきた。
「本当にどうなされたのです!」
「いや、俺にも分からないんだよ!」
「朝まではいつもの先生だったではありませんか!」
知らん。
朝の俺なんて知らん。
俺が知っているのは、さっきまでアニメイトへ向かっていた俺だけだ。
「と、とりあえず」
俺は門倉を落ち着かせる。
というより。
俺自身を落ち着かせたい。
「門倉さん」
「……さん?」
「門倉」
「はい」
「今日って、何する予定だった?」
門倉が完全に黙った。
やめて。
その顔。
俺がおかしいのは分かってるから。
やがて門倉が慎重に口を開いた。
「出立ですが」
「…………」
しゅったつ。
出発ってことだよな。
「どこか行くの?」
「…………」
門倉の眉間に深い皺が寄った。
「先生」
「はい」
「本当に大丈夫ですか?」
「今のところ全然大丈夫じゃない」
門倉がため息をつく。
そして俺の後ろを指さした。
見る。
人がいる。
荷物がある。
見たことのない道具もある。
どう見ても。
旅支度。
「皆、先生をお待ちしております」
「…………」
嫌な予感がする。
ものすごく嫌な予感がする。
俺は目の前のウインドウをもう一度見る。
【予定:第一次測量開始】
第一次測量。
測量。
伊能忠敬。
日本地図。
俺の頭の中で。
嫌なものが全部つながった。
「門倉」
「はい」
「ちなみに」
「はい」
「これ、いつ出発する予定?」
門倉が答える。
「本日ですが」
「…………」
もう一度ウインドウを見る。
【第一次測量開始:本日】
見間違いじゃない。
本日。
今日。
今。
俺はさっきまで。
フィギュアを買いに行こうとしていた。
小石につまずいた。
立ち上がった。
伊能忠敬になった。
そして。
今日から測量。
「…………」
せめて。
心の準備くらい。
させてほしかった。
「せめて昨日にしてくれよぉぉぉ!!」
俺の叫び声が響いた。
門倉隼太が呆然と俺を見る。
周囲の人たちも見る。
知らん。
もう知らん。
こうして。
好きなアニメのフィギュアを買いに行くはずだった四十歳の俺は。
五十五歳の伊能忠敬として――
日本地図を作ることになった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
フィギュアを買いに行くはずだった40歳のサラリーマン、澤田浩哉。
小石につまずいただけなのに――なぜか伊能忠敬になりました。
しかも今日は、第一次測量の出発日。
日本地図を作った人だということは知っている。
でも、どうやって作ったのかは知りません。
そして何より――
浩哉はまだ、自分がこれからどこへ向かうのかすら知りません。
次回。
「俺は歩きたくない」
果たして浩哉は、無事に最初の一歩を踏み出せるのでしょうか。




