第1話「命芽吹く指先と、黄金との邂逅」
夜明け前の冷たい風が、うなじをなでて通り過ぎる。
空はまだ深い群青色に沈み、遠くの山際だけがわずかに白み始めていた。
辺境の街アークライトから少し離れた、荒れ果てた丘陵地帯。
そこが今のルミナスの居場所だった。
膝をつき、湿った土に両手を添える。
かつてこの指先は、触れた者の肌から熱を奪い、ミイラのように干からびさせてきた。
だが、絶望の泥の中で自らの命さえ手放そうとしたあの日。
土にすがった手から、逆に何かが流れ込んだ。
指先からこぼれる淡い緑光が、かつての血の記憶を洗い流すように、痩せた赤茶色の土へと染み込んでいく。
土脈を伝う振動が、地中に眠る種へと注ぎ込まれた。
硬い殻が破れる微かな振動が、手のひらを伝わって届く。
緑の双葉が土を押しのけて顔を出し、またたく間に茎を伸ばす。
葉は大きく広がり、朝の冷気を吸い込んで産毛に銀色の露を宿す。
黄色い小さな花が咲いたかと思うと、花びらが散り、その跡から丸い緑の実が膨らみ始めた。
実があっという間に赤く色づき、表面が張り詰める。
生命力そのものを凝縮したような、真紅の果菜がそこにあった。
ルミナスは静かに息を吐き、額ににじんだ汗を手の甲で拭う。
土の匂いと、青葉のむせ返るような香りが鼻腔をくすぐる。
血の匂いではない。
命が芽吹き、実る匂いだ。
その事実だけが、今のルミナスをかろうじて立たせている。
実を傷つけないよう、そっと蔓から外す。
ずっしりとした重みが手のひらに伝わる。
表面は滑らかで、冷たい朝の空気をまとい、ひんやりとしている。
粗末な木箱の中に、同じように育てた野菜を並べていく。
色鮮やかな根菜や、葉脈が透き通るような葉物野菜。
かつて暗闇で放たれた矢をまばたき一つせず見切り、刃の軌道を先読みしたその眼と身体制御が、今は野菜の艶を見極めるために使われている。
これを街の市場で売り、わずかな日銭を稼ぐ。
誰とも深く関わらず、ただ息を潜めて生きる。
それが、人殺しである自分に許された唯一の贖罪だと信じていた。
空が完全に白む頃、ルミナスは木箱を背負い、アークライトの街へと続く土道を踏み出した。
◆ ◆ ◆
アークライトの朝は早い。
冒険者や商人、職人たちが集うこの街は、日の出とともに活気に包まれる。
石畳の路地に荷馬車の車輪が擦れる音が響き、あちこちから威勢の良い呼び込みの声が上がる。
パンの焼ける香ばしい匂いと、干し肉を炙る脂の匂いが入り混じり、街路を漂っていた。
ルミナスは麻のフードを目深に被り直し、人混みの端を縫うようにして歩く。
小柄な体躯と、目立たない灰色の外套。
誰の視界にも留まらないよう、影のように滑る歩法は、暗殺者としての悲しい習性だった。
市場の片隅にある、人通りの少ない路地。
そこがルミナスの定位置だった。
敷物を広げ、木箱に入った野菜を並べる。
声を出して売り込むことはしない。
ただうつむき、膝を抱えて時間が過ぎるのを待つ。
それでも、ルミナスの野菜はすぐに売れていく。
今日用意した分も、老婆や宿屋の使いの者たちが次々と買っていき、残るは真紅の果菜が三つだけとなっていた。
店仕舞いをして、早く静かな丘へ帰ろう。
ルミナスが敷物を片付けようと身を乗り出した、そのときだった。
目の前の光が遮られ、巨大な影がルミナスを覆い隠した。
顔を上げると、そこには見上げるほどの長身を持つ男が立っていた。
陽光を跳ね返すような、眩しい金糸の髪。
厚い胸板と丸太のような腕は、上質な革鎧に包まれている。
腰には身の丈ほどもある大剣が帯びられていた。
そして何より目を引くのは、日焼けした肌に刻まれた無数の傷跡と、底抜けに明るい琥珀色の瞳だった。
強者特有の気配。
ルミナスの背筋を、冷たいものが駆け上がった。
暗殺者の本能が、目の前の男の危険性を告げている。
この男の武力は、次元が違う。
男はルミナスの警戒に気づく様子もなく、敷物の上に残った赤い実を指差した。
「見慣れない野菜だが、美味そうだな。一ついくらだ」
野太く、しかし耳障りの良いバリトンの声。
ルミナスは言葉を詰まらせ、ただ銅貨を二枚並べて見せた。
男は豪快に笑い、革袋から銀貨を一枚取り出してルミナスの前に放り投げた。
「釣りはいらねえ。その代わり、今ここで食わせてもらうぜ」
断る隙も与えられなかった。
男は赤い実を手に取ると、外套の袖で軽く擦り、そのまま大きな口を開けてかじりついた。
薄い皮が弾け、果肉があふれる微かな音が響く。
次の瞬間、男の動きがぴたりと止まった。
琥珀色の瞳が大きく見開かれ、赤い実とルミナスの顔を交互に見比べる。
目立ってしまった。
逃げなければ。
そう思考したときには、すでに体が動いていた。
銀貨を拾うこともせず、木箱を抱えて立ち上がる。
フードを目深に引き直し、群衆の中へ溶け込もうと背を向けた。
だが、男の反応はルミナスの予測を遥かに超えていた。
「待て。逃げるな」
背後から伸びてきた分厚い手が、ルミナスの細い手首を正確に捕らえた。
鉄の万力のような力強さ。
しかし、骨を砕くような乱暴さはない。
振り払おうと力を込めるが、男の腕はびくともしない。
それどころか、掴まれた手首の皮膚を通して、男の熱い体温が流れ込んでくるようだった。
同時に、微かな香りが鼻を掠めた。
陽に焼かれた乾いた樹皮の匂いがする。
ルミナスの奥底に眠る、Ωとしての第二の性が、その香りに反応して微かにざわめく。
アルファ。
それも、並の個体ではない。
喉の奥がカラカラに乾き、唾液を飲み込む音すら相手に聞こえてしまうのではないかと錯覚した。
「離してください」
かすれた声を絞り出す。
男は手首を掴んだまま、ゆっくりとルミナスの正面へと回り込んだ。
群衆が行き交う市場のざわめきが、遠くへ退いていくような錯覚に陥る。
「驚かせて悪かった。怪しい者じゃない。俺はアークライトのギルドマスター、レオンハルトだ」
男は名乗り、琥珀色の瞳でルミナスを真っ直ぐに見据えた。
「君に、折り入って頼みたいことがある。少しだけ時間をくれないか」
その瞳の奥にある真剣な光に、ルミナスは身動きを封じられたように立ち尽くすしかなかった。




