第九十九話「新しい、名前」
着任四百十一日目、朝。
畑では、麦の穂がすでに膨らみ始めていた。
水路の水量は安定し、朝の見回りも、異常なしの記録が続くだけの日々になっていた。
監査室からの返答は、まだ届いていなかった。
ロイドが、届いていないことを確認し、それだけを記録した。
——本日、監査室・アルノ様より返信なし。
「何もなかったことも、記録になる、でしたね」
ミラが言った。
「はい」
ロイドは頷いた。
「待っている間も、記録は続きます」
昼前、執務所の前に一人の男が立った。
旅装のまま、荷物は背負った袋一つだけだった。
「ここが、調整官の執務所で、間違いありませんか」
男が尋ねた。
「はい」
ロイドが答えた。
「どのようなご用件でしょうか」
「住まわせてもらえないかと思って、来ました」
男は、そう言って頭を下げた。
「名前は」
「レオと言います。井戸掘りと、水回りの修繕をしています」
ロイドが、来訪記録の欄に名前を書き入れた。
ライルが、奥から出てきた。
「どちらから」
「隣領の市場町から、隊商に混ぜてもらって来ました」
レオは答えた。
「あちらで、ガルダの水路の話を聞きました。長く止まっていた水路を、もう一度通した土地がある、と」
「それで」
「腕のいる仕事があるなら、行ってみようと思いました」
レオは、日焼けした手を見せながら言った。
「一つの土地に長く落ち着いたことがありません。ですが、そろそろ、根を張れる場所を探したいと思っていました」
ロイドが、来訪記録の続きを尋ねた。
「以前は、どちらに」
「西の方の、いくつかの町を回っていました。仕事のある所を、渡り歩く形です」
「身元を確かめられるものは」
「隊商組合が発行する通行の証と、前にいた町の仕事の受取証があります」
レオは、袋の中から二枚の紙を取り出した。
ロイドは、それを丁寧に確認し、日付・発行元・記載内容を来訪記録に書き写した。
「疑っているわけでは、ありません」
ロイドが言った。
「記録として、必要な手順です」
「わかっています」
レオは、気を悪くした様子もなく答えた。
「どこへ行っても、これくらいは聞かれます」
「仕事の当てが、あるわけではないんですね」
ライルが尋ねた。
「はい」
レオは正直に答えた。
「来てから探すつもりでした。無理なら、また旅に戻ります」
ライルは、少しの間レオを見た。
「春の点検で、官倉裏の水路の石組みに一箇所、緩みが見つかっています」
ライルが言った。
「急ぎではありませんが、見てもらえますか」
「はい」
レオは、迷わず頷いた。
午後、レオはヴェクに案内され、官倉裏の継ぎ目を確かめた。
「ここですね」
レオが言った。
「水が抜けた時に、石が少し動いたようです」
ヴェクが答えた。
「石の組み方は、少し古いやり方ですね」
レオは、指で継ぎ目をなぞった。
「直せますか」
「直せます。ただ、石を組み替えるので、数日かかります」
「直し方と、必要な日数を紙にしてください」
ヴェクが言った。
「その上で、日当と材料費を決めます」
「わかりました」
レオは頷いた。
「見積もりを出して、決まってから手をつけます」
「お願いします」
試しに見てもらうことと、仕事を頼むことは別だった。
「一つ、聞いてもいいですか」
レオが言った。
「どうぞ」
「ここは、仕事を頼む時、後で揉めたりしませんか」
「揉める、というのは」
「言った額と、払われる額が違う、とかです」
ヴェクは、少し考えてから答えた。
「先に条件を紙に残します。日当、期間、仕上がりの基準」
「それだけで」
「それだけで、たいてい揉めません」
ヴェクは、いつも通りの声で言った。
レオは、その答えに、少し意外そうな顔をした。
「そういう土地は、あまり多くありません」
レオは、道具袋を担ぎ直しながら続けた。
「揉めた土地では、大抵、後になって『言った言わない』になります。紙に残す土地は、それだけで、少し安心します」
「安心するかどうかは」
ヴェクが言った。
「働いてから、決めてください」
「そうします」
レオは、小さく笑った。
夕方、ミラが住居相談の記録を確認した。
「村外れに、持ち主が貸し出しを考えている空き家が一つあります」
「住めますか」
「屋根に少し傷みがあります。直して住みたいということであれば、家賃にどう反映するかも含めて、持ち主と条件を確認します」
「では、見せてもらえますか」
「はい。ただ、今日決めるのは見に行くところまでです」
レオは頷いた。
「その方が、私も助かります」
住みたいという希望と、貸せるという条件。
両方が揃ってから、初めて住居は決まる。
昼過ぎ、ニルスが土地の相談で立ち寄り、レオの姿を見て足を止めた。
「見ない顔ですね」
「井戸掘りをされる方です」
ロイドが答えた。
「井戸掘りか」
ニルスは、少し考えるように言った。
「うちの井戸も、もう何年も浅いままだ」
「後で、お声がけしてもいいですか」
レオが尋ねた。
「構わない。ただ、金はあまり出せない」
「相談してからで、構いません」
ニルスは、それだけ言うと軽く頷いて土地の件の続きへ戻った。
仕事は、来た初日から、すでに一つ増えていた。
来訪記録に、レオの名が書き加えられた。
所属:なし。来訪目的:移住相談。職種:水回り修繕・井戸掘り。技量確認:官倉裏水路の石組み補修について見積もり依頼。住居:空き家候補一件、所有者との条件確認前。
まだ、移住者ではない。
ただ、「ここで暮らしたい」と申し出た人の名前が、ひとつ増えた。
ダグラスが、その記録を横から見ていた。
「一つ、増えましたね」
ダグラスが、誰にともなく言った。
「名前が、ですか」
ミラが尋ねた。
「はい」
ダグラスは頷いた。
「この一年、消えた名前を追うことばかりしてきました」
「今日は」
「今日は、新しい名前が、こちらから増えました」
ダグラスは、静かにそう言った。
その声に、重さはなかった。
ただ、いつもとは少し違う響きがあった。
「同じ帳面に、両方が並ぶんですね」
ミラが言った。
「消えた名前も、増えた名前も」
「はい」
ダグラスは答えた。
「それで、いいんだと思います」
ダグラスは、しばらくその頁を見つめてから、自分の机へ戻っていった。
後ろ姿に、以前のような重さはなかった。
夕刻、カイが水路の見回りの帰りに、レオを見かけた。
「新しい人ですか」
カイが尋ねた。
「はい。水回りの仕事をしてもらいます」
ロイドが答えた。
「よろしくお願いします」
カイが声をかけると、レオは少し驚いた顔をした。
「まだ、住むと決まっていないのに」
レオが少し驚いた顔をした。
「挨拶するのに、決まっている必要はないでしょう」
カイはそれだけ言って会釈し、家路についた。
ゲオルグも、遠くからその様子を見て、小さく頷いていた。
夜、ライルは手帳を開いた。
——移住希望者レオ、来訪。井戸掘り・水回り修繕を職とする。官倉裏水路継ぎ目の修繕を紹介し、本人の技量を見た上で正式な仕事とするかを判断する。住居は村外れの空き家を本人希望により提供。
もう一行、書き足した。
——監査室・アルノ様より、本日も返信なし。待つことは、何もしないことではない。今日も、それを続けた。
窓の外、日が長く残っていた。
水路の水音に混じって、遠くで誰かが石を積み直す音が、かすかに聞こえた気がした。
まだ、正式な仕事にすらなっていない、一人分の音だった。
着任した頃、この土地では、人が減っていく話を聞くことの方が多かった。
今日の記録は、まだ「移住」ではない。
ただ、「ここで暮らしたい」という相談だった。
それが、この先も続くかどうかは、まだわからない。
レオが本当に根を張るかどうかも、何も決まっていない。
それでも、減る理由だけでなく、来る理由を記録する紙がある。
一年前にはなかった種類の記録だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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