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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第十章:あの方の、答え

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第九十九話「新しい、名前」

 着任四百十一日目、朝。


 畑では、麦の穂がすでに膨らみ始めていた。


 水路の水量は安定し、朝の見回りも、異常なしの記録が続くだけの日々になっていた。


 監査室からの返答は、まだ届いていなかった。


 ロイドが、届いていないことを確認し、それだけを記録した。


 ——本日、監査室・アルノ様より返信なし。


「何もなかったことも、記録になる、でしたね」


 ミラが言った。


「はい」


 ロイドは頷いた。


「待っている間も、記録は続きます」


 昼前、執務所の前に一人の男が立った。


 旅装のまま、荷物は背負った袋一つだけだった。


「ここが、調整官の執務所で、間違いありませんか」


 男が尋ねた。


「はい」


 ロイドが答えた。


「どのようなご用件でしょうか」


「住まわせてもらえないかと思って、来ました」


 男は、そう言って頭を下げた。


「名前は」


「レオと言います。井戸掘りと、水回りの修繕をしています」


 ロイドが、来訪記録の欄に名前を書き入れた。


 ライルが、奥から出てきた。


「どちらから」


「隣領の市場町から、隊商に混ぜてもらって来ました」


 レオは答えた。


「あちらで、ガルダの水路の話を聞きました。長く止まっていた水路を、もう一度通した土地がある、と」


「それで」


「腕のいる仕事があるなら、行ってみようと思いました」


 レオは、日焼けした手を見せながら言った。


「一つの土地に長く落ち着いたことがありません。ですが、そろそろ、根を張れる場所を探したいと思っていました」


 ロイドが、来訪記録の続きを尋ねた。


「以前は、どちらに」


「西の方の、いくつかの町を回っていました。仕事のある所を、渡り歩く形です」


「身元を確かめられるものは」


「隊商組合が発行する通行の証と、前にいた町の仕事の受取証があります」


 レオは、袋の中から二枚の紙を取り出した。


 ロイドは、それを丁寧に確認し、日付・発行元・記載内容を来訪記録に書き写した。


「疑っているわけでは、ありません」


 ロイドが言った。


「記録として、必要な手順です」


「わかっています」


 レオは、気を悪くした様子もなく答えた。


「どこへ行っても、これくらいは聞かれます」


「仕事の当てが、あるわけではないんですね」


 ライルが尋ねた。


「はい」


 レオは正直に答えた。


「来てから探すつもりでした。無理なら、また旅に戻ります」


 ライルは、少しの間レオを見た。


「春の点検で、官倉裏の水路の石組みに一箇所、緩みが見つかっています」


 ライルが言った。


「急ぎではありませんが、見てもらえますか」


「はい」


 レオは、迷わず頷いた。


 午後、レオはヴェクに案内され、官倉裏の継ぎ目を確かめた。


「ここですね」


 レオが言った。


「水が抜けた時に、石が少し動いたようです」


 ヴェクが答えた。


「石の組み方は、少し古いやり方ですね」


 レオは、指で継ぎ目をなぞった。


「直せますか」


「直せます。ただ、石を組み替えるので、数日かかります」


「直し方と、必要な日数を紙にしてください」


 ヴェクが言った。


「その上で、日当と材料費を決めます」


「わかりました」


 レオは頷いた。


「見積もりを出して、決まってから手をつけます」


「お願いします」


 試しに見てもらうことと、仕事を頼むことは別だった。


「一つ、聞いてもいいですか」


 レオが言った。


「どうぞ」


「ここは、仕事を頼む時、後で揉めたりしませんか」


「揉める、というのは」


「言った額と、払われる額が違う、とかです」


 ヴェクは、少し考えてから答えた。


「先に条件を紙に残します。日当、期間、仕上がりの基準」


「それだけで」


「それだけで、たいてい揉めません」


 ヴェクは、いつも通りの声で言った。


 レオは、その答えに、少し意外そうな顔をした。


「そういう土地は、あまり多くありません」


 レオは、道具袋を担ぎ直しながら続けた。


「揉めた土地では、大抵、後になって『言った言わない』になります。紙に残す土地は、それだけで、少し安心します」


「安心するかどうかは」


 ヴェクが言った。


「働いてから、決めてください」


「そうします」


 レオは、小さく笑った。


 夕方、ミラが住居相談の記録を確認した。


「村外れに、持ち主が貸し出しを考えている空き家が一つあります」


「住めますか」


「屋根に少し傷みがあります。直して住みたいということであれば、家賃にどう反映するかも含めて、持ち主と条件を確認します」


「では、見せてもらえますか」


「はい。ただ、今日決めるのは見に行くところまでです」


 レオは頷いた。


「その方が、私も助かります」


 住みたいという希望と、貸せるという条件。


 両方が揃ってから、初めて住居は決まる。


 昼過ぎ、ニルスが土地の相談で立ち寄り、レオの姿を見て足を止めた。


「見ない顔ですね」


「井戸掘りをされる方です」


 ロイドが答えた。


「井戸掘りか」


 ニルスは、少し考えるように言った。


「うちの井戸も、もう何年も浅いままだ」


「後で、お声がけしてもいいですか」


 レオが尋ねた。


「構わない。ただ、金はあまり出せない」


「相談してからで、構いません」


 ニルスは、それだけ言うと軽く頷いて土地の件の続きへ戻った。


 仕事は、来た初日から、すでに一つ増えていた。


 来訪記録に、レオの名が書き加えられた。


 所属:なし。来訪目的:移住相談。職種:水回り修繕・井戸掘り。技量確認:官倉裏水路の石組み補修について見積もり依頼。住居:空き家候補一件、所有者との条件確認前。


 まだ、移住者ではない。


 ただ、「ここで暮らしたい」と申し出た人の名前が、ひとつ増えた。


 ダグラスが、その記録を横から見ていた。


「一つ、増えましたね」


 ダグラスが、誰にともなく言った。


「名前が、ですか」


 ミラが尋ねた。


「はい」


 ダグラスは頷いた。


「この一年、消えた名前を追うことばかりしてきました」


「今日は」


「今日は、新しい名前が、こちらから増えました」


 ダグラスは、静かにそう言った。


 その声に、重さはなかった。


 ただ、いつもとは少し違う響きがあった。


「同じ帳面に、両方が並ぶんですね」


 ミラが言った。


「消えた名前も、増えた名前も」


「はい」


 ダグラスは答えた。


「それで、いいんだと思います」


 ダグラスは、しばらくその頁を見つめてから、自分の机へ戻っていった。


 後ろ姿に、以前のような重さはなかった。


 夕刻、カイが水路の見回りの帰りに、レオを見かけた。


「新しい人ですか」


 カイが尋ねた。


「はい。水回りの仕事をしてもらいます」


 ロイドが答えた。


「よろしくお願いします」


 カイが声をかけると、レオは少し驚いた顔をした。


「まだ、住むと決まっていないのに」


 レオが少し驚いた顔をした。


「挨拶するのに、決まっている必要はないでしょう」


 カイはそれだけ言って会釈し、家路についた。


 ゲオルグも、遠くからその様子を見て、小さく頷いていた。


 夜、ライルは手帳を開いた。


 ——移住希望者レオ、来訪。井戸掘り・水回り修繕を職とする。官倉裏水路継ぎ目の修繕を紹介し、本人の技量を見た上で正式な仕事とするかを判断する。住居は村外れの空き家を本人希望により提供。


 もう一行、書き足した。


 ——監査室・アルノ様より、本日も返信なし。待つことは、何もしないことではない。今日も、それを続けた。


 窓の外、日が長く残っていた。


 水路の水音に混じって、遠くで誰かが石を積み直す音が、かすかに聞こえた気がした。


 まだ、正式な仕事にすらなっていない、一人分の音だった。


 着任した頃、この土地では、人が減っていく話を聞くことの方が多かった。


 今日の記録は、まだ「移住」ではない。


 ただ、「ここで暮らしたい」という相談だった。


 それが、この先も続くかどうかは、まだわからない。


 レオが本当に根を張るかどうかも、何も決まっていない。


 それでも、減る理由だけでなく、来る理由を記録する紙がある。


 一年前にはなかった種類の記録だった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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