第七十九話「仮説として、聞いてください」
着任三百七日目、朝。
アルノは、まだガルダに残っていた。
「もう少し、見ていきたい」とだけ言い、宿から執務所へ通う日が続いていた。
その日は、朝から受付の様子を見学することになった。
特別な段取りは組まなかった。
いつも通りの来訪者が、いつも通りに訪れた。
ニルスが土地の件で立ち寄り、ゲオルグが融通記録の確認に来た。
アルノは、隅の椅子に座り、黙って見ていた。
時折、ロイドの帳面の書き方に目を留める程度だった。
カイが集荷の連絡に顔を出し、アルノと目が合うと、少し緊張した様子で頭を下げた。
「弟が、あなたのことを見てみたいと言っていました」
カイが、思い切ったように言った。
「遠くから見るだけにするよう、言われています」
「見に来てもらって、構いません」
アルノは、静かに答えた。
「隠すようなものは、何もありません」
その言葉に、カイは少し驚いた顔をしたが、やがて小さく笑った。
ゲオルグも、融通記録の確認を終えた後、アルノに軽く会釈をした。
「調整官様が、ずいぶん変わった、と村では言われています」
ゲオルグが言った。
「悪い意味では、ありません」
「知っています」
アルノは頷いた。
「変わった、と言われる人間の方が、大抵、信用できます」
ミラが、来訪者の記録をつけながら、時折アルノの視線を意識しているのがわかった。
「緊張しなくて、構いません」
アルノが、ふと言った。
「私は、見に来ただけです。試しに来たのではありません」
「はい」
ミラは、少しだけ肩の力を抜いて答えた。
ヴェクは、いつも通り官倉の帳面と首っ引きで、アルノにはほとんど関心を払わなかった。
その様子に、アルノはむしろ好感を持ったようだった。
「あの方は、態度を変えませんね」
「ヴェクです」
ロイドが答えた。
「誰に対しても、あの調子です」
「良いことです」
アルノは、小さく頷いた。
「資料では、見えないものがありますね」
昼過ぎ、アルノがぽつりと言った。
「何がですか」
ライルが尋ねた。
「間の取り方です」
アルノは言った。
「困っている人の話を、どこで区切って、次の質問に移るか。書式には書けません」
「はい」
「それは、報告書には残せない種類の記録です」
その言葉に、ロイドが、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
夕方、来訪が一段落した頃、ライルはアルノと二人で執務所に残った。
「一つ、伺ってもいいですか」
ライルが言った。
「資料からではなく、あなた自身は、どう考えていますか」
アルノは、しばらく黙っていた。
「仮説として、聞いてください」
やがて、静かにそう言った。
「証拠ではありません。昨日の旧資料と、今までの経緯を並べた、私個人の読み方です」
「はい」
「あの方は、少なくとも記録を残そうとしていた。その後、本人は執務所から消え、記録の一部も失われた」
アルノは言った。
「ここまでは、別々に確認されている事実です」
「因果関係は」
「未確認です」
アルノは首を振った。
「そして現在、ガルダでは、古い記録を消すよう求める者が現れた。これも事実です」
「過去と現在が同じ仕組みだ、というのは」
「まだ仮説です」
アルノは答えた。
「その上で、余白印の古い使い方を考えます」
アルノは、ライルの辞令書の写しを指した。
「この印が着任後に押されたのでない限り、あなたがガルダで何をするかを見てから付けたものではありません」
ライルは、黙って頷いた。
「つまり、昨日私が話した『別の場所にも辞令の痕跡を残す』という使い方が正しいとしても、その判断は、あなたがここで成果を出す前に行われたことになります」
「では、何のために」
「そこが、まだわかりません」
アルノは言った。
「ただ、誰かがこの人事文書を、通常の記録経路だけに預けない方がよいと判断した。そう読む余地はあります」
ライルは、少しの間、その言葉を心の中で反芻した。
これまで積み上げてきた記録は、誰かに見せるためのものではなかった。
だが、その記録の積み方そのものが、遠くの誰かに、何かを気づかせていたのかもしれない。
「私を守るため、でしょうか」
ライルが尋ねた。
「そこまで言えば、言い過ぎです」
アルノは答えた。
「人を守る印だったのか。辞令という記録を守る印だったのか。それも分ける必要があります」
「古い用例で確認できたのは」
「文書を一つの経路だけに依存させないことです」
アルノは言った。
「ですから、今の私が最も少ない仮定で言えるのは——この辞令の存在を、一つの人事台帳だけに預けないためだった可能性がある、までです」
「誰が、その必要を感じたのか」
「わかりません」
「なぜ、この辞令だったのか」
「それも、わかりません」
アルノは、ためらわず答えた。
「発令手続きのどの段階で余白印が加わったのかも、今ある写しだけでは特定できない。まず、そこから照会すべきです」
ライルは、その答えを静かに受け取った。
わからないことが増えたようにも見える。
だが、確認すべき順番は、前よりはっきりした。
誰がライルをガルダへ送ったのか。
誰が余白印を付したのか。
その二つは、同じ問いではなかった。
ライルは、その答えを、静かに受け取った。
答えられない問いを重ねても、意味はない。
ライルは、辞令書の写しを見た。
自分がガルダで何をするかを決めたこと。
誰かが辞令へ余白印を付したこと。
その二つを、同じ「計算」という言葉でまとめるのは早い。
今は、分けておく方が正しかった。
夕刻。
アルノが宿へ戻る前、ダグラスが、ライルとロイドのところへ小さな帳面を持ってきた。
「これを、記録資料として預かっていただきたいんです」
ダグラスが言った。
「フェルンから、自分のためだけに付けていた記憶メモです」
ライルは、すぐには中を開かなかった。
「正式記録へ、そのまま統合はしません」
「はい」
「見た事実、当時の記憶、後から考えたことが混ざっているなら、まずこの帳面自体を一つの資料として受領します。原本は原本のまま残す」
「その上で」
「必要な箇所を一つずつ確認し、正式記録に移せるものだけ、別の追記として残します」
ダグラスは頷いた。
「それでお願いします」
「なぜ、今、これを」
「アルノ様と話して、決めました」
ダグラスは、静かに答えた。
「私だけが持っている記憶を、私だけのものにしておく理由が、もうない気がします」
その言葉に、ロイドが、帳面の最初の頁を開いた。
几帳面な字で、日付ごとに、フェルンでの出来事が書き留められていた。
日付ごとの出来事に加え、その時にダグラスがどう感じたか、後から何を思い出したかも書かれていた。
事実記録とは性質が違う。
だからこそ、元の形のまま保全する意味があった。
「時間をかけて、確認します」
ロイドが言った。
「急ぎません。正しく、分けることの方が大事です」
「はい」
ダグラスは、深く頭を下げた。
その姿を、アルノは少し離れた場所から見ていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
アルノが、ダグラスに尋ねた。
「どうぞ」
「その帳面を、自分の手元だけに置かなくなることは、怖くありませんか」
ダグラスは少し考えた。
「怖いです」
「それでも」
「私だけが持っている方が、今はもっと怖いです」
アルノは、その答えに頷いた。
「なら、受領したこと自体も記録に残してください」
ロイドが答える。
「はい。資料名、頁数、受領時刻、受領者。封をした後は、本人だけでも差し替えられない形にします」
「それでいいと思います」
アルノは、それ以上、自分の過去を重ねなかった。
翌朝。着任三百八日目。
夜明け前、継立場からアルノ宛ての優先書状が宿へ届いた。
随行の一人が、起きていたアルノへそのまま手渡した。
封を切ったアルノは、宿の小卓で最後まで文面を読んだ。
——特別監察案件への管理区分変更について、本局内で再審査の求めあり。
——広域照合へ移る根拠、対象範囲、人員投入の妥当性について説明を求む。
異論が出た。
そこまでは、書面で確認できる。
誰が、どんな意図で求めたのかは書かれていない。
随行が尋ねた。
「ガルダへは」
「朝一番で行く」
アルノは書状を畳んだ。
「このまま滞在を続けるか、戻るか。ライル殿たちへ話す前に決めます」
窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。
前日までの確認で、ガルダに残すべきものは増えた。
同時に、本局へ持ち帰って説明すべきものも増えていた。
アルノは、旧資料の箱へ視線を落とした。
何を残し、何を持ち帰るか。
次に決めるのは、その区分だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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