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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第一章:帳簿は、嘘をつかない

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第七話「登記簿は、覚えていた」

 水路修繕の二日目だった。


 現場に着くと、昨日より人が多かった。カイがいる。昨日「明日も来ます」と言った人夫が来ている。さらに、見覚えのない農民が二人、道具を持って立っていた。


 誰も何も言わなかった。ただ来ていた。


 出口側の水は昨日より少し増えていた。泥の色が薄くなっている。まだ勢いはないが、流れていた。根がまだ残っているが、土の色が変わってきた。


「今日はここを片付けます」


 カイが昨日の続きを指しながら言った。ライルに言ったのではなく、隣の人夫に言ったのだった。


 ライルは現場を一回りした。作業の状態を確認する。どこに詰まりが残っているか、どこから崩れる危険があるか。前世で何度も見た光景だった。水路は、放置した年数だけ手がかかる。


「ロイド、午前中の現場はお任せします」


「承知しました」


 ロイドはもう、不思議な顔をしなかった。


---


 執務所に戻り、ダグラスの部屋を訪ねた。


「ガルダ領の土地台帳を確認させてください。過去五年分で構いません」


 ダグラスの顔が変わった。


 今回は違う顔だった。これまでに見た「計算外の動揺」ではなく、もっと内側に向かって考えている顔だった。何かを計算している。何かを選んでいる。


「翌日以降でよろしければ」


「今日中にお願いします」


「保管場所の確認が——」


「水路補修の発注記録をお願いした時と同じ言葉ですね」


 ライルは静かに言った。


 ダグラスが口を閉じた。


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 ダグラスは窓の方へ視線を向けた。何も見ていない目だった。少しの間があって、こちらへ戻ってきた。


「……承知しました」


 短く言って、出ていった。


 扉が閉まってから、その「承知しました」の重さを、ライルは静かに考えた。


 同じ言葉でも、重さが違った。


---


 台帳を待つ間、机に向かった。


 昨夜のカイの証言を、正式な記録の形に整える。来訪日時、カイの名前と住所、証言の内容。署名欄を作って棚の手前に入れた。


 書かれていないことは、なかったことにできる。


 だから書く。


 廊下からロイドの声が聞こえた。今日も来訪者が続いている。受付を再開してから十日が経っていない。それでも数字は増えている。人は、来ていいとわかれば来る。


---


 午後、ダグラスが台帳を持ってきた。


 束は厚かった。一見、揃っている。


 ライルは一綴りずつ確認した。


 三年前以前の記録がある。直近一年の記録がある。


 だが、三年前から二年前にかけての一区画が入っていなかった。ちょうど水路が止まった時期と重なる綴りだった。


「この部分はいつ提出できますか」


「確認次第、改めて」


「わかりました」


 ライルは帳面を開いた。書いた。


 土地台帳の一部、未提出。三年前〜二年前の区間。再度提出要請済み。


 ダグラスはその手元を見ていた。


 書き終えてから、ライルは顔を上げた。ダグラスはすでに視線を外していた。


「引き続き、よろしくお願いします」


「……はい」


 ダグラスが部屋を出た後、ロイドが小さな声で言った。


「出てこない書類がある、ということですね」


「そうです」


「それが……記録になるのですか」


「なります」


 ロイドは少し間を置いた。


「わかりました」


---


 提出された範囲を、丁寧に確認した。


 三年前以前。土地の所有者は在来農民が多い。ヴォルツの個人名義は、どこにも見当たらない。


 直近一年。移動はほぼない。水路が止まっている間は農地の価値が下がり、買う側も動かせない状態になる。


 そして空白の期間。


 カイが「水が止まった年に、隣の田んぼが買われた」と言った時期だった。


 空白が、答えだった。


 あるはずのものがない。ないことが、そこに何かがあることを示す。


 手帳に書く。「提出された範囲に問題となる移動なし。空白期間の内容が核心」


---


 日が落ちかけた頃、ロイドが来た。


「例の方が来ています」


「通してください」


 少し間があって、扉が開いた。


 ベルクだった。


 大柄な体が、扉の前で止まった。第四話の時の制服ではなく、私服だった。一人だった。


「座ってください」


 ライルは椅子を示した。


 ベルクは少し間を置いてから座った。大きな手を、膝の上に揃えた。


「先日は名前を残しませんでした」


「はい」


「……怖かったので」


 それだけ言った。


 ライルは何も言わなかった。急かさなかった。


 ベルクは窓の方を見た。もう暗い。


「水路が、直り始めていますね」


「はい」


「見に行きました。二日とも」


 ライルはそれを聞いた。何も言わなかった。


「前の調整官は、何もしませんでした。その前の調整官も。私が窓口に立ってから、現場に来た調整官は一人もいなかった」


 ベルクの声は低く、平坦だった。


「何か、言えることがあれば聞かせてください」


 ベルクが膝の上の手を動かした。


「土地の書類が、この執務所を通ったことがあります。三年ほど前です。複数件、まとめて処理されました。私は窓口にいましたが、内容を確認する立場ではありませんでした」


 少し止まった。


「ただ、その書類の束に、調印した人間の名前が一度だけ見えました」


「誰でしたか」


 ベルクが答えた。


 ライルはその名前を手帳の端に書いた。小さく、一行だけ。


「ありがとうございます」


「それだけしか言えません」


「十分です。今日のところは」


 ベルクは立ち上がった。


 扉の前で、また一度だけ振り返った。第四話の時と同じしぐさだったが、今回は何かが違った。あの時は何も言えなかった。今回は——


「水が、動いていました」


 そう言った。


 ライルは「そうです」と答えた。


 扉が閉まった。


---


 蝋燭に火を入れた。


 台帳の空白期間がある。空白の前後に問題となる移動はない。つまり問題の移動は空白の中にある。ベルクが見た書類に調印していた人物。その名前と、台帳の欠損が重なるとすれば。


 まだ証明できていない。


 だが、線は見えてきた。


 手帳の新しい頁を開いて、一行書いた。


 土地を手放した農民を探す。


 台帳が出てこないなら、売った側から確認する。カイの隣だけではないはずだった。水路が止まった時期に土地を手放した農民が、他にもいるはずだった。その人たちの話を聞けば、台帳なしでも線が引ける。


 受付に来る農民の数が増えている。


 話を聞かせてもらえる土台は、少しずつできていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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