第六話「水が、動く」
夜明けまえ、まだ空が暗いうちに執務所を出た。
北の水路まで、歩いて半刻ほどだった。田んぼの縁を通る細い道を、ロイドと二人で歩いた。霜は降りていなかったが、草が湿っていた。足元が冷たかった。
ロイドは帳面を一冊、胸に抱えていた。
昨日のうちに作った作業記録簿だった。作業員名、作業時間、支払予定額、道具の貸出、資材の購入先。まだほとんど空欄だが、項目は揃っている。
この領地では、記録が消されてきた。
ならば、まず消えない記録を作る。
途中、一本の木の下を通った。枝に鳥がいた。ライルとロイドが通ると、音もなく飛び立った。
ロイドは黙って歩いていた。ライルも黙って歩いた。
現場に着くと、人夫たちはすでに揃っていた。
六名。全員が農民の顔だった。鍬と鋤を持ち、低い声で何か話し合っていたが、ライルが来ると静かになった。顔を伏せたわけではなかった。だが視線の向け方が、上司に向けるそれではなかった。
まだ、どんな人間かわかっていないという顔だった。
「おはようございます」
ライルが言うと、全員が少し驚いたような顔をした。
おはようございます、と返した声は、ぎこちなかった。
空の端が、白み始めていた。
「始める前に、名前と作業範囲を記録します」
ロイドが一歩前に出た。
「今日の作業は、北側第一工区の水路浚渫と出口側の通水確認です。作業時間と賃金は、こちらの帳面に残します。道具を持参された方は、その分も記録します」
人夫たちが顔を見合わせた。
賃金を出すと言われることより、記録に残すと言われることの方に驚いているようだった。
ロイドの声は少し硬かったが、最後まで止まらなかった。
ライルはそれを横で聞いていた。
昨日のロイドなら、ここまで前に出なかった。
「始めましょう」
---
水路は、見るよりひどかった。
三年分の枯れ草と土砂が積み重なっていた。かつての水路の形は残っているが、底が上がりきっていて、水の通る余裕が半分以下になっている。ところどころ、根の張った草が土を抱え込んでいた。
人夫の一人が「これは春どころか夏になる」と呟いた。
誰も笑わなかった。
作業は入口側から始まった。鍬を入れると、表面は乾いて固く、一尺ほど掘ると湿っていた。人夫たちは黙々と進めた。土の扱い方がうまかった。長年、この土地を触ってきた人間の動き方だった。
ライルはしばらく、その動きを見ていた。
人の動きにも、土地の記憶が出る。
誰が本当に畑を知っているか。誰が言われた通りに動くだけか。誰が水の流れを頭に入れているか。
帳簿とは別の情報が、そこにあった。
日が上がりはじめた頃、周辺の農民が遠巻きに見に来ていた。
最初は二人だった。いつの間にか四人、六人と増えていた。誰も声をかけなかった。腕を組んで見ていたり、畦道にしゃがんでいたりした。何かを期待しているのか、ただ確かめにきたのか、判断できなかった。
ゲオルグがいた。
少し離れたところに立って、水路を見ていた。着古した服に、農作業で固くなった手。ライルと目が合うと、小さく頷いた。
それだけだった。
その頷きだけで、昨日までより少し、人が近づいた気がした。
---
入口側の詰まりを半分ほど取ったところで、人夫の一人が言った。
「ここを通してしまった方が早い。入口が開けば、あとは下の分岐まで一気にいけます」
悪い判断ではなかった。
見た目の通りの判断だった。
ライルは首を振った。
「先に出口側を開けます」
人夫が手を止めて顔を上げた。
「入口を通しても、出口が詰まっていれば水の逃げ場がない。圧が逆にかかって、ここまで開けた壁が崩れます。出口から取り掛かって、水の通り道を先に確保する」
「……水の逃げ場、ですか」
「はい」
ライルは水路の先を指した。
「田んぼの水は、入れることより抜くことを先に考えます。抜けない水は、恵みではなくなります」
人夫たちは黙った。
そのうち一人が、低く笑った。
「若い調整官様が、水の抜け道を知ってるとは思わなかった」
馬鹿にした笑いではなかった。
少しだけ、面白がる声だった。
「前に、田んぼを見ていました」
ライルはそれだけ答えた。
それ以上は言わなかった。
異論はなかった。人夫たちは出口側へ移動した。ライルも鍬を持って向かった。
「調整官様が持たなくても」
ロイドが言いかけた。
「確認するには、触った方が早い」
ライルは鍬を土に入れた。
湿った土が、重く刃に絡んだ。
---
出口側での作業が始まってしばらくして、一人の若者が入ってきた。
見物している側ではなかった。別の方向から来た。手に鋤を持っていた。黙って人夫の列に加わり、掘り始めた。
ロイドが気づいて近づいた。
「あの……」
「この水路の先に田んぼがあります」
若者が言った。ロイドを見ず、鋤を動かしながら言った。
「うちの田んぼです。自分でやります」
ライルが近づいた。
十代後半か、二十代のはじめだった。日焼けした肌に、肩幅が広い。動き方に迷いがない。道具の持ち方を見ればわかる。土を触ってきた人間の手つきだった。
「名前を聞いていいですか」
「カイ」
それだけ言って、また鋤を動かした。
「賃金記録に入れます」
「いりません」
即答だった。
周囲の人夫が一瞬、手を止めた。
ライルはカイを見た。
「受け取ってください」
カイの手が止まった。
「自分の田んぼのためです」
「それでも、領地の水路を直す仕事です。仕事には対価を払います。払わなければ、次に誰かが無償で働くのを当然にします」
カイは黙った。
ライルは続けた。
「あなたの田んぼを守ることと、あなたの働きを記録することは、両立します」
カイは少しだけ眉を寄せた。
納得した顔ではなかった。
だが、拒み続ける顔でもなかった。
「……好きにしてください」
「そうします」
ライルはロイドに視線を送った。
ロイドは作業記録簿を開き、カイの名前を書いた。
カイは何も言わなかった。
ただ、鋤の動きが少しだけ速くなった。
---
昼を過ぎた頃、見知らぬ男が現場にやってきた。
農民ではなかった。服が違う。手が違う。南通りで一度見た、商会の使用人に似た歩き方だった。
「こちら、執務所の通常予算での着工とのことですが、承認記録はございますか」
声に棘はなかった。
愛想よく言った。
作業の手は、自然に遅くなった。
ライルは鍬を置いた。
「あります。必要であれば執務所から写しを出します」
「ありがとうございます。念のため、確認させていただきます」
「お名前を伺っても?」
男の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「南通り穀物商会の者です」
「お名前を」
ライルは同じ調子で言った。
男はわずかに目を細めた。
「マルコと申します」
「ロイド」
「はい」
「来訪記録に残してください。南通り穀物商会、マルコ氏。北側第一工区の着工承認記録を確認に来訪。写しの交付を希望、と」
ロイドが帳面に書いた。
マルコはそれを見ていた。
「そこまでしていただかなくとも」
「通常業務です」
ライルは静かに答えた。
「確認に来られた方の記録を残すだけですから」
男は笑った。
だが、その笑みは先ほどより少し薄かった。
「では、改めて執務所へ伺います」
「お待ちしています」
男は礼をして立ち去った。
人夫たちは手を止めなかった。カイも止めなかった。ロイドだけが男の後ろ姿を見ていた。
確認しに来たのではない。
確認されたことを、こちらに知らせに来た。
それだけのことだった。
だが、その来訪もまた記録に残った。
ライルは鍬を持ち直して、作業に戻った。
---
日が傾きはじめた頃、出口側の詰まりが抜けた。
最初、変化はわずかだった。
土が湿り方を変えた。次に、底に光が見えた。
水だった。
細く、遅く、泥混じりで動いた。
それでも、動いた。
人夫たちが手を止めた。
誰も声を上げなかった。
一人が膝をついて水路の底を覗き込んだ。カイが鋤を地面に立てて、流れを見ていた。見物していた農民たちが、自然に水路の縁に集まってきた。
水は、細い線のように進んだ。
詰まっていた泥の間を抜け、石に当たり、少し濁りながらも先へ行く。
田んぼの方へ。
誰も何も言わなかった。
ゲオルグが水路の縁に来ていた。流れる水を見ながら、黙っていた。ライルの横に、いつの間にか立っていた。
しばらくして、ゲオルグが言った。
「三年ぶりですね」
「そうですね」
「水の音を、忘れるところでした」
それは独り言のようだった。
ライルは水路を見た。
前世で見た田んぼにも、同じ音があった。水が動き始める時の音。大きくはない。歓声にもならない。けれど、その音がするだけで、人は少しだけ先の季節を考えられる。
ゲオルグが腰をかがめ、指先で水に触れた。
それから、何も言わずに手を引いた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
三年の間に何があったかを、この場にいる全員が知っていた。
「明日は、もう少し先まで開けます」
ライルが言うと、人夫の一人が顔を上げた。
「明日もやるんですか」
「水が田んぼまで届くまでは」
人夫たちは互いに顔を見合わせた。
やがて、誰かが小さく頷いた。
「なら、明日も来ます」
別の一人が言った。
「俺も」
カイは何も言わなかった。
だが、鋤を肩に担いだまま、明日の作業場所を見ていた。
---
執務所に戻ると、ロイドが待っていた。
いや、正確には、ロイドはライルと一緒に戻ったあと、すぐに受付補助簿を取りに走り、改めて机の前に立った。
「今日の来訪記録です」
ライルは帳面を受け取った。
十名。
昨日より二名増えていた。受領証を出した者が七名、相談だけで帰った者が三名。三名の欄にも、次回持参するものが丁寧に書かれていた。
さらに別の欄に、現場来訪者の記録が追記されている。
南通り穀物商会、マルコ。
北側第一工区の着工承認記録確認。
「お疲れさまでした」
ロイドが少し間を置いた。
「調整官様、今日——執務所にも、商会の方が来ました」
「現場に来た人間とは別に?」
「はい。別の者です。調整官様に直接お話ししたいことがある、と。名前は残していきませんでした。改めて参ります、と言って」
ロイドの目が、一瞬だけ動いた。
何かを言いかけて、止めた顔だった。
「その者の特徴は記録しましたか」
「はい。服装、背格好、来訪時刻、用件は残しています。ただ、名前は名乗らなかったため、不明としました」
「十分です」
ロイドは少しだけ目を見開いた。
褒められると思っていなかった顔だった。
「来たら通してください」
「承知しました」
ロイドは帳面を整えて、部屋を出ようとした。
扉の前で、足を止めた。
「調整官様」
「はい」
「今日、水が動いた時、人夫たちの顔が変わりました」
ライルはロイドを見た。
「そうですね」
「私も、少し……忘れていました」
ロイドは言葉を探した。
「役所の仕事が、何のためにあるのか」
それだけ言って、頭を下げた。
扉が閉まった。
ライルはしばらく、その扉を見ていた。
---
蝋燭に火を入れた。
外はもう暗かった。
手帳を開いて、一行書いた。
農地の登記記録を確認する。
水路に水が戻った。水が動けば、土地の価値が変わる。土地の価値が変われば、誰かが動く。
ヴォルツが「個人名義」で引き取った土地が、どれだけあるか。いつ取得したか。農民が手放したのはいつか。水路が止まったのと、同じ時期か。
順番がある。
水が止まる。
農地が枯れる。
農民が追い詰められる。
土地を手放す。
その土地が誰かのものになる。
今日、水路に水が戻った。
それを、誰が、どう受け取るか。
机の端に、ロイドの作業記録簿が置かれていた。
カイの名前が増えている。
マルコの名前も増えている。
水が動けば、人も動く。
その時、記録があれば、流れの向きが見える。
蝋燭の火が、小さく揺れた。
扉を叩く音がした。
夜にしては、遅い。
「入ってください」
扉が開いた。
立っていたのは、カイだった。
昼間と同じ服のまま、手には泥が残っている。だが、その顔は作業中とは違っていた。
「調整官様」
「どうしましたか」
カイは一度だけ、廊下の方を見た。
誰もいないことを確かめてから、低い声で言った。
「水が止まった年に、うちの隣の田んぼを買った人間を知っています」
ライルはペンを取った。
「聞かせてください」
カイは小さく頷いた。
「南通りの商会主です。ヴォルツの、個人名義で」
蝋燭の火が、また揺れた。
水は、今日動いた。
人もまた、動き始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




