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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第五章:目が、増えていく

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第三十六話「印を知る者」

 帝都の朝。


 アルノは、書斎で一通の返書を読み返していた。


 差出人は、以前私信を送った古い友人。


 かつて同じ部署にいた男で、今は地方文書巡察官を務めている。


 各地を回り、公文書の保管状況を確認する。


 記録の紛失。


 保存環境。


 原本と写しの区分。


 引き継ぎの状態。


 地味な職務だった。


 だが、多くの土地を訪れても不自然に思われない職務でもある。


 返書には、次の巡察予定地が並んでいた。


 その中に、ガルダの名がある。


 アルノがガルダを加えさせたわけではない。


 古い巡察計画の順番が、偶然、今の時期と重なった。


「都合よく重なるものだ」


 アルノは呟いた。


 侍従が控えている。


「正式な照会を出されますか」


「出さない」


「では、巡察官へ」


「予定どおり職務を行ってもらう」


 アルノは返書を畳んだ。


「ただ、ガルダで目についたものがあれば、私信で教えてくれと頼む」


「公務とは分けるのですね」


「公務の判断へ、私の関心を混ぜるつもりはない」


 命令すれば、命令が残る。


 正式な依頼を出せば、依頼が残る。


 公務の範囲で見たものについて、古い友人が後から私的な感想を返す。


 アルノが求めるのは、そこまでだった。


「特に見てほしいものは」


「指定しない」


「余白の印についても」


「こちらから教えれば、最初から印を探す目になる」


 アルノは窓の外へ目を向けた。


「本人が何を見るかに任せる」


 帝都の通りでは、商人たちが荷を積み始めていた。


 ガルダへ向いている目は増えている。


 だが、その目のすべてが、同じものを見るとは限らない。


---


 着任七十二日目の朝。


 ダグラスが、南通り穀物商会の様子を報告した。


「表向きには、静かです」


「北へ出た荷馬車以外の動きは」


「確認できていません。通常の買い付けと販売だけです」


「使用人の出入りは」


「大きな変化はありません」


 北へ向かった荷馬車から、数日が経っている。


 相手が誰であれ、返答や次の動きが表に出るまでには時間がかかる。


「静かすぎることが、少し気になります」


 ダグラスが言った。


「動いていないのではなく、こちらから見えない場所で動いている可能性があります」


「あります」


 ライルは答えた。


「だからといって、静かであることを動きの証拠にはできません」


「はい」


 見えない。


 それは、動いていないという意味でも、動いているという意味でもない。


 今は、表向きの動きが確認できない。


 記録できるのは、そこまでだった。


---


 昼前。


 執務所へ、一人の男が訪ねてきた。


 旅装は簡素で、荷物も少ない。


 差し出した身分証には、帝国地方文書巡察官とある。


 氏名。


 所属。


 巡察対象。


 公印。


 ロイドが一つずつ確認する。


「公文書の保管状況を確認するため、ガルダへ参りました」


「予定の通知は」


「直前になり申し訳ありません。前の巡察地で日程が早まりまして」


 男は、公文書を出した。


 巡察地域と期間。


 ガルダの名も記されている。


「確認する範囲は」


「主に、保存環境と原本管理です。個別案件の内容を調査する権限はありません」


「承知しました」


 監査室による現地閲覧とは違う。


 この男の役割は、記録の中身を裁くことではなく、記録が保存されている状態を見ることだった。


「原本を出す場合は、閲覧記録を残します」


「もちろんです」


 ロイドとヴェクが準備を始める。


 水路修繕記録。


 官倉台帳。


 土地関連記録については、内容ではなく保管方法を示せる部分だけを出す。


 帳簿総目録。


 受付分類表。


 原本保管場所の一覧。


「主要な原本は、すべて一か所ですか」


「施錠棚と官倉管理箱に分けています」


 ライルが答えた。


「火災や盗難への備えは」


「写しの一部を、別の建物へ保管しています。ただし、すべてではありません」


「写しの作成担当は」


「帳簿総目録に記載しています」


「担当者が不在の場合は」


「代行者を定めています。代行できないものについては、できないと記載しています」


 巡察官は、総目録を丁寧に見た。


「できないことまで書くのですか」


「できると思い込んで任せる方が危険です」


「なるほど」


 男は、受付分類表にも目を通した。


「これは、相談内容ごとに最初に開く帳面を示したものですね」


「はい」


「担当者が変わっても、迷いにくい」


「そのために作りました」


「よく整っています」


 巡察官は言った。


「この規模の執務所では、珍しいほどです」


「まだ途中です」


 ライルは答えた。


「写しの保管場所も十分ではありません。人手も足りていません」


「人手不足は、どこでも聞きます」


 巡察官が言った。


「ただ、足りないことが記録されている執務所は多くありません」


 ロイドが、その言葉も来訪記録へ残した。


 巡察官は、一冊ずつ保管状態を確認した。


 湿気。


 虫害。


 頁の欠落。


 綴じ目。


 閲覧記録。


 原本と写しの区分。


 急ぐ様子はなかった。


 やがて、机の端に置かれた一枚の書類へ目を止めた。


 辞令書の写しだった。


 帳簿総目録に「調整官の権限根拠」として記載するため、ロイドが保管場所を確認していたものだ。


 巡察官の指が止まる。


 視線は、辞令の本文ではない。


 余白に押された、小さな印へ向いていた。


「こちらは」


「私の着任辞令です」


「原本は」


「施錠棚です。これは写しです」


「原本との照合印はありますね」


「はい」


 巡察官は、余白印をしばらく見ていた。


「この印について伺っても」


 ライルが尋ねる。


「私も、詳しい意味は知らされていません。通常より上位の確認印ではないかとだけ」


「誰から聞きましたか」


「正式な説明ではありません。辞令を渡した者から、そう示唆されました」


 巡察官は、すぐには答えなかった。


「この印をご存じですか」


「見たことはあります」


 初めて、明確な答えが返った。


「どこで」


「それは、公務の範囲を超えます」


「意味は」


「私から申し上げることはできません」


 知っている。


 だが、話さない。


 はぐらかしているのではない。


 答えを持った上で、答える権限がないと判断している。


「一つだけ」


 巡察官は言った。


「この印を知っている者は、今も帝都にいます」


「誰かは」


「申し上げられません」


「承知しました」


 ライルはそれ以上追わなかった。


 問い詰めれば、相手が公務上答えられないことまで迫ることになる。


 答えがないのではない。


 答えられない。


 その違いだけでも、十分な情報だった。


 巡察官は話題を帳面へ戻した。


「この管理方法は、ガルダ独自のものですか」


「必要に応じて、こちらで作ったものです」


「他領の手順を参考には」


「前世の経験を直接説明するわけにはいきません」とライルは言いかけて、言葉を止めた。


 この世界で得た知識として答えるべき問いだった。


「過去に見聞きした複数の手順を基に、ガルダの状況へ合わせました」


「同じ仕組みを、他の領地でも使えると思いますか」


「そのまま移すことはできません」


「理由は」


「役人の人数も、扱う産物も、既存の帳面も違います」


「では、参考にならない」


「考え方は使えます」


 ライルは答えた。


「何を記録するか。誰が確認するか。担当者がいない時にどうするか。間違いをどう残すか。それは別の土地でも必要です」


 巡察官は小さく頷いた。


「なるほど」


「他の領地でも、似た問題がありますか」


 今度はライルが尋ねた。


 巡察官は少し考えた。


「記録が整っている土地より、整っていない土地の方が多い。それ以上は、個別の巡察内容になります」


「承知しました」


 視察は、一刻ほどで終わった。


 巡察官は、指摘事項を二つ残した。


 写しの別置き保管を増やすこと。


 施錠棚の鍵を一人だけが持つ状態を見直すこと。


「改善期限は」


「強制ではありません。今回の巡察は、保存状態の確認です」


「それでも、記録へ残します」


「それがよいでしょう」


 巡察官は礼を言い、執務所を出ていった。


---


 男が去った後。


「印をご存じでしたね」


 ヴェクが言った。


「はい」


「もう少し尋ねられたのでは」


「答える権限がないと明言していました」


 ロイドが辞令書の写しを施錠棚へ戻す。


「それ以上迫れば、答えではなく、拒絶だけが残ります」


「この印を知っている者は、帝都にいる」


 ヴェクが繰り返した。


「少なくとも、過去の印ではないということです」


 ライルは言った。


「今も、この印の意味を知る者がいる」


「誰かは、まだわからない」


「はい」


 ロイドは、巡察記録をまとめながら手を止めた。


「もう一つ、気になりました」


「他領でも使えるか、という質問ですか」


「はい」


「文書巡察官としては、自然な問いでもあります」


「そう思います。ただ」


 ロイドは少し考えた。


「記録が整っていない土地の方が多い、と言いました」


「言いましたね」


「ガルダだけの問題ではない」


 ライルは、すぐには答えなかった。


 前世で見た地方の衰退。


 人が減る。


 記録が引き継がれない。


 問題が見えなくなる。


 見えなくなった問題が、さらに人を遠ざける。


 ガルダだけに起きる構造ではない。


「その可能性はあります」


 ライルは答えた。


「ただし、他領の状況を見ていない今、帝国全体の問題だとは断定できません」


「はい」


「可能性として記録してください」


「承知しました」


---


 夕刻。


 帝国内政調整局監査室から、追加の書状が届いた。


 現地閲覧を、来月上旬に行いたい。


 日程調整のため、ガルダ側の都合のよい日を三日提示してほしい。


「先方も、現地へ来ますね」


 ロイドが言った。


「動いています」


「原本を動かさない条件は」


「変えません」


「候補日は」


「私かロイドが立ち会える日を三つ選んでください」


「二人とも必要ですか」


「基本は一名で構いません。ただし、土地関連記録と証言記録を同時に見る場合は二名にします」


「人手を考えて」


「必要以上の人数を固定しません」


 立会いを厳しくすることと、全件へ最大人数を割くことは違う。


 閲覧範囲に応じて必要な人数を決める。


「明日までに候補日を出します」


「お願いします」


 巡察官。


 監査室。


 北西の貴族家。


 南通り穀物商会の荷馬車。


 それぞれ別の場所から届いた動きが、少しずつ近づいている。


 まだ、一つの線とは言えない。


 だが、辞令書の余白印だけは、初めて別の人間の記憶へつながった。


---


 夜。


 ライルは手帳を開いた。


 着任七十二日目。


 南通り穀物商会。


 表向きの新たな動き、確認できず。


 帝国地方文書巡察官、来訪。


 身分証、公文書、確認済み。


 巡察範囲。


 保存環境。


 原本管理。


 写し。


 引き継ぎ。


 帳簿総目録、受付分類表を評価。


 指摘。


 写しの別置き保管を増やす。


 施錠棚の鍵を一人だけが持つ状態を見直す。


 辞令書余白印。


 巡察官、見たことがあると明言。


 意味、関係者については回答権限なし。


 この印を知る者は、今も帝都にいる。


 他領。


 記録が整っていない土地の方が多いとの発言。


 帝国全体の問題である可能性。


 現時点では断定せず。


 監査室。


 来月上旬の現地閲覧を希望。


 候補日三日を提示予定。


 ペンを止めた。


 余白に押された印。


 着任の日から、意味のわからないまま残っていた。


 今日、初めて、その印を見たことがある者と会った。


 意味は、まだわからない。


 押した者もわからない。


 だが、知っている者が今も帝都にいる。


 何もなかった場所に、一つの点が置かれた。


 ガルダだけの問題ではないかもしれないという、別の点もある。


 まだ、二つをつなぐ線はない。


 線がないものを、つながったことにはしない。


 それでも、点が増えれば、いつか形が見える。


 ライルは最後に一行だけ書いた。


 印を知る者は、まだいる。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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