表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第三章:声が、届く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/62

第十六話「噂が、走る」

 水路の音が聞こえた。


 窓を開けなくても、朝になると聞こえる。十三日かけて通した水が、今日も流れている。


 書状が走ってから、三日が経った。


 上位機関への回答文。


 南通り穀物商会への正式通知。


 農地被害農民への通知。


 それぞれ違う場所へ向かった書状が、同じ領地の空気を少しずつ変えている。


 水は戻った。


 記録は揃った。


 書状も出た。


 だが、人の心は水路のようには流れない。


 どこで詰まり、どこで淀み、どこから濁るかは、紙の上だけではわからない。


---


 ロイドが出勤してきた。


 いつもより少しだけ遅かった。


「おはようございます」


「おはようございます」


 帳面を広げる前に、一度止まった。


「昨日、市場の帰りに……少し聞いた話があります」


 ライルは手を止めた。


「全部言ってください」


 ロイドは机の上を見たまま、話し始めた。


「商会を潰しに来たらしい、という話が出ています」


 そこで一度、息を置いた。


「土地の名義を、調整官様が勝手に動かしているとも。農民に期待させているが、駄目だった時に誰が責任を取るのか、という話も」


「他には」


「商会がなくなれば、麦を買う者がいなくなる、と。帝都から来た貴族には、辺境の暮らしがわかっていない、とも」


 言い終えてから、ロイドは短く言った。


「信じているわけでは、ありません。ただ、昨日だけで三人から聞きました」


「昨日だけで」


「はい」


 ライルは手帳を出した。


「聞いた場所と時刻、相手の人数、言い回しを記録してください」


 ロイドが少しだけ目を上げた。


「噂を、ですか」


「はい」


「ですが、事実とは限りません」


「だからこそ、噂として記録します」


 ライルは静かに言った。


「事実としてではありません。どこで、いつ、どんな言葉が流れたか。その流れを記録します」


 ロイドはしばらく考えた。


 それから、新しい頁を開いた。


 日付。


 場所。


 聞いた者。


 内容。


 発言の形。


 確認状況。


 項目を作りながら、ロイドは言った。


「こういう帳面も、必要なのですね」


「必要になる時があります」


 ライルは答えた。


「水にも流れがあります。噂にも流れがあります」


---


 午前中、ニルスが来た。


 農地被害の通知書が届いた件で、確認したいことがあるということだった。


 だが、扉を開けた時の顔が、用件だけを持って来た人間の顔ではなかった。


「座ってください。お茶を出します」


 ニルスが腰を下ろした。


 用件の前に、ニルスは言った。


「市場で話が出ています。調整官は商会を潰しに来ただけで、農民のことなど考えていない、という話です」


 声に感情はなかった。


 淡々としていた。


 淡々としている分だけ、重かった。


「土地の名義を動かしているのは商会ではなく調整官の方だ、という話もあります」


「あなたは、どう聞きましたか」


「俺は信じていません」


 ニルスはすぐに言った。


「ここが俺の土地のことを動いてくれているのは、知っています。書類も見ました。俺の話も、記録してもらった」


 そこで、言葉が一度止まった。


「ですが」


「はい」


「水路は直りました。書状も出していただいた。それでも、土地はまだ戻っていない」


 ライルは頷いた。


「そうです」


「戻らないかもしれない、という話が出てくると——信じていなくても、引っかかります」


 責めているのではなかった。


 ただ、事実を言っていた。


 三年前まで自分の土地だった場所に水が戻った。


 だが、その土地はまだ自分のものではない。


 水の音が戻ったからこそ、失ったものの形がはっきり見える。希望があるからこそ、裏切られた時の痛みも想像できる。


 噂は、そこを突いていた。


「聞かせてくれてありがとうございます」


 ライルは言った。


「その話を最初に聞いたのは、いつ、どこでしたか」


 ニルスが答えた。


 ロイドが記録した。


 市場南側の井戸近く。


 朝。


 話していた者は二名。


 片方は顔を知らない。


 もう片方は、南通りの荷運びをしている男。


 ロイドの筆が、そこで一瞬だけ止まった。


 ライルは見ていたが、何も言わなかった。


 その後、通知書の件を確認した。


「この通知は、土地がすぐ戻るという約束ではありません」


 ライルは言った。


「はい」


「ただし、あなたの土地移動が現在確認中であることを、公の記録に置くものです。今後、手続きを進めるための入口になります」


 ニルスは紙を見た。


「入口」


「はい。戻るまでには、まだ道があります」


「……そうですか」


 ニルスは通知書を両手で持った。


 帰る時、ライルは言った。


「少し時間がかかります。ただ、止まってはいません」


 ニルスは頷いて、扉を出た。


---


 昼過ぎ、ライルは外に出た。


 別件の用事を済ませた帰り、市場を一本通った。


 止まらなかった。


 歩きながら、耳を開いた。


「……書類がどうとか」


「商会の人間が言っていたが……」


「水路は戻ったって言ってもな」


「土地が戻るなんて、そんなうまい話があるか」


「商会がなくなったら、麦は誰が買うんだ」


 断片だった。


 だが、向いている方向が揃っていた。


 外から来た者が投げ込んだ噂は、広がり方が均一にならない。言葉が強すぎたり、土地の名前を間違えたり、聞く者の生活に触れない場所で止まる。


 だが、この土地を知っている者が種を蒔けば、水路の流れ方に似た広がり方をする。


 低いところへ流れる。


 不安の深いところへ流れる。


 今この町で、不安が一番深い場所はどこか。


 土地がまだ戻っていない人々のところだ。


 麦を売る先を失うことを恐れている家だ。


 商会に借りがある者だ。


 前の仕組みが腐っていたとわかっても、その仕組みに生活の一部を預けていた者だ。


 ヴォルツは、それを知っている。


 だから、嘘だけを流していない。


 真実の近くに、別の向きを与えている。


 ライルは市場を通り抜けた。


 露店の端で、二人の男が話を止めた。


 ライルが通り過ぎると、また小さく話し始めた。


 それも、記録に残すべき情報だった。


---


 執務所に戻ると、ロイドが「午前中にさらに二件、似た話を聞いた者が来ました」と報告した。


「記録しました。ですが……」


 ロイドが止まった。


「事実ではないかもしれないものを、記録してよいのでしょうか」


 少し間を置いてから、続けた。


「私はこれまで、確かめられた事実だけを記録してきました。それが記録の意味だと、思っていました」


「噂の中身は、事実としては記録できません」


 ライルは言った。


「何が事実で何が違うか、記録だけでは証明できない。その判断は正しいです」


「それでも、記録するのですか」


「場所を記録します。時刻を記録します。誰から聞いたか、どういう言い方だったか。断定したのか、誰かから聞いたと言ったのか。名前を出したのか、出さなかったのか」


 ロイドは少し考えてから言った。


「同じ噂が、同じ時期に、別々の場所で出た——それが記録になる、ということですか」


「発信源が見えてくることがあります」


「……なるほど」


 ロイドは帳面を引き寄せた。


「こういう記録は、したことがありませんでした」


 今日の日付を書き始めた。


「帳面の名前は」


 ロイドが聞いた。


 ライルは少し考えた。


「風聞記録」


「風聞記録」


「はい。事実ではなく、風聞として扱う。後で事実と混ぜないためにも、帳面を分けます」


 ロイドは表紙に、ゆっくりと書いた。


 風聞記録。


 その字は、少し硬かった。


 だが、逃げてはいなかった。


---


 夕刻、ゲオルグが来た。


「調整官に伝えようと思って」


「座ってください」


 ゲオルグは座って、少し間を置いてから言った。


「市場で話が広まっています。水路を直してもらって、書状を出してもらって、それでもなんで、という顔をしている人がいます」


「信じているのですか」


「信じているというより……わからなくなっている、という感じです」


 少し考えてから続けた。


「水が戻ったのは見ています。でも土地はまだ戻っていない。書状が出たとして、それで何かが変わるのか——そこがわからない、という人が多いと思います」


「迷っているのであって、諦めているわけではない」


「そうです。だから、困っています」


 ゲオルグは膝の上で手を組んだ。


 農作業で固くなった手だった。


「人は、一度諦めると楽になります。期待しない方が、傷つかずに済みます。ここでは長く、そうやってきました」


 ライルは黙って聞いた。


「でも、水が戻った。だから、また期待してしまった。期待したから、今度は怖くなっている」


 ゲオルグは顔を上げた。


「そういう顔です」


 ライルは言った。


「ゲオルグさんはどう思いますか」


 ゲオルグが少し驚いた顔をした。


 それから、少し考えた。


「私は……変わると思っています。水が戻ったあの時、最初はこんなに早くとは思いませんでした。だから土地も、時間がかかるかもしれないが、変わると思っています」


「ありがとうございます」


「ただ」


 ゲオルグは続けた。


「皆が皆、私のように思えるわけではありません。見せてもらわなければ、わからない者もいます。聞かせてもらわなければ、待てない者もいます」


「説明が必要、ということですね」


 ゲオルグは小さく頷いた。


「誰かの家の中で、こそこそ聞く話ではなく。みんなの前で、何がどこまで進んでいるのかを」


 ライルは手帳を開いた。


 一行書いた。


 公の説明の場を設ける。


 ゲオルグはその筆先を見ていた。


「できるだけ早く準備します」


「はい」


 ゲオルグが帰った後、ライルは風聞記録をもう一度開いた。


---


 夜、橋の上で一度立ち止まった。


 水路の音がした。


 十三日かけて通した水が、今夜も流れている。


 書状は走った。


 噂も走った。


 二つが今、同じ時間の中にある。


 紙に乗った事実は、使者便で進む。


 人の口に乗った不安は、市場を回る。


 どちらも、止めることはできない。


 ならば、流れを読むしかない。


 宿に戻って手帳を開いた。


 一つだけ、気になることがある。


 土地の名義を勝手に動かしている。


 これは逆だ。


 事実の逆を噂にするには、事実を知っている者が必要だ。この町でその事実を知っているのは、限られた人間だけだ。


 ヴォルツ。


 ダグラス。


 商会の一部。


 執務所の一部。


 そして、書状に触れた者。


 発信源は、この逆転を計算した。


 上位機関への申し立ては、すでに出ている。使者は何を聞いてからここへ来るか。


 上位機関の使者が着く頃には、ガルダには二つの物語がある。


 一つは、記録に残った物語。


 もう一つは、人の口で流れる物語。


 どちらを先に聞かせるかで、見え方は変わる。


 それが狙いなら、次に必要なのは噂を消すことではない。


 人前で、事実を置くことだ。


 ライルは手帳に一行を加えた。


 説明会。水路前、または執務所前。農民、商会、役人、誰が聞いてもよい場にする。


 ペンを置いた。


 蝋燭を消す前に、もう一つだけ思い出した。


 前世でも、手遅れになってから数字が揃ったことがあった。


 報告書は完璧だった。


 原因も、責任の所在も、再発防止策も、すべて書けた。


 だが、その時にはもう、現場にいた人は戻らなかった。


 だから今度は、数字が揃うのを待っているだけではいけない。


 迷っている人間がいるなら、迷っているうちに届かなければならない。


 ライルは蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ