第十五話「書状は、出しました」
朝、ライルは手帳を開いた。
昨夜書いた一行がある。
ロイドの出退勤経路を確認する。必要なら同行者をつける。
行動に移す時がきた。
手帳を閉じた。窓の外はまだ薄明かりだった。しばらくして扉が開く音がした。ロイドが入ってきた。いつもと同じ時刻だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
ロイドが帳面を広げた。
農地被害農民への通知書——十五件のうち、残りが六件ある。昨日の続きから始める。
ロイドの動きは、普段と変わらなかった。
ただ、少しだけ早い。
筆を置く位置、封筒を重ねる向き、控え番号を確認する間。どれも昨日までより少し早かった。
焦っているのではない。
仕事を先に進めようとしている人間の動きだった。
下級役人のヴェクが出勤してきた時、ライルは声をかけた。
「ヴェク。今日の夕刻、ロイドが退勤する時に一緒に帰ってください。ロイドの家の近くまで」
ヴェクが少し目を丸くした。
「……承知しました」
ロイドは帳面から顔を上げなかった。
聞こえていないはずはない。
それでも、何も言わなかった。
自分が守られる側に置かれていることを、受け入れにくいのだろう。
だが、今は感情の問題ではない。
書状が走った。
次に狙われるのは、書状を書いた手ではなく、書状を支えた手かもしれない。
---
午前中に通知書が三件仕上がった。
封に印を押し、出立時刻と控え番号を記録して、下級役人が届けに出た。
ロイドは一件ずつ、控えを別の束に移した。宛先、対象地、被害農民名、通知内容。誰が見ても追えるようになっている。
十五件分の土地。
十五件分の名前。
そのうち、今日また三件が「確認中」の公的な記録に入った。
昼過ぎ、ライルは測量記録の受け取りのために外に出た。
用事を終えて戻る前に、路地を一本歩いた。
執務所を出て南へ進む。路地に入り、角を二つ折れると橋の手前に出る。左に曲がって緩い坂を上がったところにロイドの家がある。
ロイドの通勤経路だった。
角を二か所、確かめた。
一か所目は、建物の張り出しが路地の奥を遮っている。二か所目は、袋小路の入り口に面している。どちらも、外からは中が見えない。夕刻になれば人通りが減り、路地は暗くなる。
待つなら、ここだ。
追うなら、その前の橋の手前。
声をかけるなら、角を曲がった直後。
ライルは歩きながら、道の音を聞いた。
石畳の継ぎ目。水路の音。橋の板が鳴る位置。遠くの商店の戸が閉まる音。夕方になれば、これらが少しずつ変わる。
外から来た人間は、地図を持っていても地形を持っていない。
だが、ガルダの者なら知っている。
マルコは、知っている側の人間だった。
執務所に戻ると、ロイドが「午後にもう二件出せます」と言った。
「わかりました」
商会からの動きはない。
書状を出した翌日に、これほど静かなのは初めてだった。
静かな時は、次の手の準備が整ったということだ。
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夕刻の少し前、ヴェクが来た。
「申し訳ありません。明日の資材確認が先方の都合で前倒しになりまして。今から行かないと間に合わないもので」
「どこの先方ですか」
ヴェクは一瞬、答えに詰まった。
「北側の資材置き場です。道具の返却確認を先に済ませたいと」
「誰から」
「……現場の使いの者からです。名前は聞いておりません」
ライルはヴェクを見た。
ヴェクは視線を下げた。
嘘をついている顔ではない。
ただ、言われた通りに動かされている顔だった。
「わかりました。行ってください」
「はい」
ヴェクが頭を下げて出ていった。
扉が閉まった後、ライルは手帳に短く記した。
夕刻、ヴェクの同行予定が資材確認により消える。依頼者名不明。
ロイドがまだ帳面に向かっている。最後の一件の封入が終わっていない。
「ロイド」
「はい」
「今日は一緒に出ましょう」
ロイドが顔を上げた。短い間があった。
「……はい」
封入が終わった。
施錠して、二人で外に出た。空はすでに夕暮れに染まり始めていた。
ライルは外の記録箱の前で立ち止まった。
「先に歩いていてください。外の記録箱に文書を入れてから追います」
ロイドの目が、ほんの少し動いた。
意味を考えたのだろう。
ライルは続けた。
「見える距離で追います」
ロイドは小さく頷いた。
「……はい」
ロイドが一人で歩き始めた。
ライルは文書を入れた。それから少し間を置いて、後を追った。
南の路地に入った。
ロイドの後ろ姿が五間ほど先に見える。
助けるには十分近い。
相手が動くには、十分離れている。
最初の角を曲がった。
その直後だった。
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路地の奥に人がいた。
二人。
一人はマルコだった。第六話で水路現場に来た男だ。ライルが名前を来訪記録に残させた日から、その名前はずっと記録の中にある。昨日の夕刻、執務所前の通りに立っていた男だ。
もう一人は名前を知らない。
だが、外部の用心棒ではなかった。
立ち方が違う。
この路地を知っている人間の立ち方だった。
「少し時間をもらいたい」
マルコが言った。声は穏やかだった。
「書類の件で、確認したいことがある」
ロイドは足を止めた。
逃げなかった。
振り返りもしなかった。
「書状は、もう出しました」
ロイドが言った。
声は静かだった。
震えていなかった。
発注記録の写しを取る時、ロイドの手は震えていた。それでも写しを取った。別帳を写した時も、上位機関への回答文を封入した時も、手は止まらなかった。
あの頃とは違う声だった。
仕事はすでに終えた。
書状は走った。
それだけを、言っていた。
「そういう話ではない」
マルコが一歩踏み込んだ。
「昔みたいに、少し運んでもらえばいいだけだ。難しいことじゃない」
ロイドの肩が、ほんのわずかに動いた。
ライルはそれを見た。
昔みたいに。
その言葉が、ロイドのどこに触れたのか。
今は聞かない。
「書状は、もう出しました」
ロイドはもう一度言った。
今度は、先ほどより少しだけ低い声だった。
「控えも残っています」
マルコの表情が消えた。
もう一人が横に動いた。マルコの手がロイドの腕に向かって伸びた。
ロイドは動かなかった。
ライルは、路地の入り口に立っていた。
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一瞬だった。
二人が地面にいた。
どちらも大きな怪我はない。
マルコの手は、ロイドに触れていなかった。
もう一人は壁際に座り込む形になっている。何が起きたかわからない顔だった。
「申し入れは書面でお願いします」
ライルは言った。
マルコが何かを言いかけた。
声が出なかった。
しばらくして、もう一人を引き起こして路地の奥へ消えた。足音が遠ざかり、夕暮れの路地に静けさが戻った。
ロイドはまだ、同じ場所に立っていた。
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「怪我は」
「……ありません」
ロイドは立ったまま、足元の石畳を見ていた。間があった。
「先に……動いていたんですね」
「そうしました」
「私を、囮にしましたか」
ロイドの声に、責める響きはなかった。
ただ、確認だった。
「いいえ」
ライルは答えた。
「あなたを一人にはしませんでした。見える距離にいました。相手に動かれる前に止められる距離です」
ロイドは顔を上げた。
「ですが、相手が動くのを待っていた」
「はい」
ライルは認めた。
「待たなければ、誰がどう動くか記録できません。ですが、あなたに手が届く前に止めるつもりでした」
ロイドはしばらく黙っていた。
水路の方角から、水音が聞こえた。
ロイドは一度だけ深く息を吸った。
「書状は、出しました」
「はい」
「控えも、残っています」
「はい」
ロイドは足元を見たまま、小さく頷いた。
「なら、よかったです」
それだけだった。
二人で歩き始めた。
ライルが並んだ。
坂を上がりながら、二人はしばらく何も言わなかった。街の明かりが一つ、二つと灯り始めていた。
ロイドが途中で言った。
「以前、私は商会に書類を運んでいました」
「はい」
「中身は、知りませんでした。知ろうともしませんでした」
言葉はそこで止まった。
ライルは続きを待った。
「でも、今ならわかります。知らないまま運んだものも、仕事の一部でした」
「そうですね」
慰める言葉ではなかった。
だが、責める言葉でもなかった。
ロイドは小さく頷いた。
「だから今日は、出したかったんです。自分の手で」
「出せました」
「はい」
坂の上に、ロイドの家が見えた。
扉の前で立ち止まる。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
---
坂を下りながら、橋の上で一度立ち止まった。
水路の音がした。
十三日かけて通した水が、今夜も流れている。上位機関への回答文も、商会への正式通知も、農地被害農民への書面も、全部がすでに走っている。
書状は、もう出した。
それだけで、ロイドは路地に立っていた。
ライルは、橋の欄干に手を置いた。
水は戻った。
書状は走った。
人は、少しずつ自分の場所に戻ろうとしている。
だからこそ、ヴォルツは次の手を打つ。
宿に戻って、手帳を開いた。
ロイドの帰路、今夜同行。
ヴェク同行予定、資材確認前倒しにより消滅。依頼者名不明。
ロイドへ接触、二名。うち一名マルコ。発言、「昔みたいに、少し運んでもらえばいいだけだ」。ロイドは「書状は、もう出しました」「控えも残っています」と回答。
接触前に制止。大きな怪我は与えていない。
今後の経路について検討する。
書き終えた。
商会が使えるものを全て使った。書面で。用心棒で。外部の人員で。ロイドへの接触で。そのどれも機能しなかった。
次は別の手が来る。
これまでのような直接的な実力行使ではない。ヴォルツがそれほど短絡的でないことは、この十四日でわかっている。
では、何が来るか。
ライルは、机の上に置いた控えの目録を見た。
上位機関への回答文。
商会への正式通知。
農地被害農民への通知。
すべて、出た。
止められなかったものを、なかったことにはできない。
なら、次に狙うのは、書状の中身ではない。
書状を受け取る側か。
書状に名前が載った側か。
それとも、書状が届く前に別の物語を走らせるか。
それが次の問いだ。
蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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