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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第二章:水が、戻る

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第十三話「ただ、見ていた」

 水路修繕の九日目だった。


 朝の光が、水路の底に差し込んでいた。


 作業員は二十五人になっていた。前日からさらに二人増えていた。ライルが現場に着いた時、すでに全員が持ち場に入っていた。道具の動かし方に迷いがない。どこを固めて、どこを開けるか、今日は誰も確認しない。


 初日とはまるで違う。


 初日は六人だった。道具を借りるところから始まった。最初の一鍬を入れる前に、ライルが水の流れ方を説明した。出口から開けること。水の逃げ場を先に作ること。抜けない水は恵みではなくなること。


 今は、そういうことが要らない。


 カイが最後の工区の端に立っていた。水路の底を見ていた。


「ここを通せば、終わります」


 報告ではなかった。確認でもなかった。


 ただ、今日終わるということを、声に出した。


 それだけだった。


 ライルは水路の縁を一度歩いた。


 最初の日のことを思い出した。底まで土砂で埋まっていた。どこが水路でどこが地面かもわからないくらいだった。鍬を入れても、乾いた土の下から湿った泥が出てくるだけで、水路というより、忘れられた溝だった。


 今は違う。


 底が見えている。水が走っている。壁が締まっている。土の色が変わっている。


 これはもう、水路だ。


 九日間、二十五人の手が入っていた。記録が積まれていた。朝に来て、昼に来て、日が傾いても来た農民たちの、鍬の跡が残っていた。


 ロイドが記録簿を開いた。二十五名分の欄が、すでに用意されている。


 名前。作業時間。持参道具。支払予定額。確認者。


 最初は、記録されることに戸惑っていた農民たちが、今は自分から名前を言う。道具の数を申告する。隣の家から借りた鍬の持ち主まで伝える。


 この領地では、記録が人を遠ざけてきた。


 今は、記録が人を守り始めている。


「今日も任せます」


「承知しました」


 ロイドは静かに頷いた。


 その横で、カイが鍬を持ち上げた。


---


 水が通ったのは、昼前だった。


 最後の土砂が取り除かれると、水が一気に走った。勢いがあった。三年間ためていたものが流れ出るような勢いだった。


 細かった流れが、底の石に当たり、泥を巻き上げ、白い泡を立てながら先へ進む。


 北側第一工区から、第二工区へ。


 そこからさらに下流へ。


 かつて農民たちの田に水を運んでいた終点まで、水が届いた。


 誰も声を上げなかった。


 ライルも、ロイドも、カイも。


 農民たちも黙っていた。


 ただ、流れる水を見ていた。


 水路の底が白く濡れていく。水の色が変わる。乾いた土が水を吸い、湿った土の匂いが立ち上がる。水が地面に染みていく匂いだった。


 久しく嗅いでいない匂いを、また覚えている鼻がある。


 ここにいる農民の中に、そういう人間がいる。


 水の音だけがあった。


 大きな音ではない。


 だが、その場にいた全員の耳に届く音だった。


---


 ニルスが、水路のある一点で止まっていた。


 北側水路の下流。


 終端に近い場所。


 三年前まで、そこには彼の田んぼがあった。


 今はない。管理委託の書類に署名した日から、彼の土地ではなくなっていた。水路が止まり、麦が枯れ、三ヶ月の管理料を払えないまま、土地の名義が移った。ヴォルツの個人名義に。


 今もそこに田んぼはある。


 ただ、誰かが持っている田んぼだ。


 水が流れていく。


 水路の終端から、かつて自分の田に水が入っていた、その場所の前を、水が音を立てて流れていく。


 ニルスは動かなかった。


 鍬を両手で持ったまま、立っていた。何も言わなかった。


 ただ、鍬を持つ手が、少しだけゆるんでいた。


 三年間ずっと、何かを持ち続けていた手だった。長く持ちすぎていた何かを、ここで少しだけ下ろした手だった。


 やがて、ニルスは腰をかがめた。


 指先を、水に触れさせた。


 すぐに引いた。


 それだけだった。


「通りました」


 カイが後ろから言った。


 ライルは頷いた。


「通りました」


 同じ言葉を返した。


 誰の土地かは、まだ戻っていない。


 だが、水は戻った。


 その事実だけは、もう誰にも消せなかった。


---


 執務所に戻ると、ロイドがすでに記録の欄を開いていた。


「作業記録、全工区の確認が取れています。通水確認も済みました」


「ありがとう」


 日付を記録した。


 北側水路全工区、通水確認完了。


 作業員二十五名。


 九日間。


 確認者印。


 ライルはペンを置いた。


 棚の上に、二つの束が並んでいた。


 一つは、三年分の架空発注記録。商会への支払いが全件ある。だが、作業員名簿はなく、資材受領記録はなく、検収記録はなく、通水確認記録もない。


 もう一つは、今日完成した修繕記録。九日分の作業員名簿。使った道具の数量。進捗確認。今日の通水確認。


 どちらも、水路補修の記録だ。


 だが、一方にはその後ろに人がいる。


 もう一方には、いない。


「上位機関への回答文ですが」


 ロイドが言った。


「今日で揃いましたか」


「揃いました」


 ライルは今日の通水確認記録を、回答文の束に重ねた。


「通水確認記録が入ったことで、比較数字が完成しました」


「では、明日送ります」


「はい」


 ロイドは静かに頷いた。


 以前なら、上位機関という言葉だけで執務所の空気が変わった。今は変わらない。揃っているものが何かを、ロイドは知っている。


 水路修繕記録。


 発注記録。


 支払い記録。


 検収記録の不存在。


 土地台帳の空白。


 別帳。


 管理委託契約書。


 農民の証言。


 それらが、机の上に正しい順番で並んでいる。


 しばらく経って、ロイドが言った。


「今日のことは、よかったと思います」


「何が」


「水路のことです」


 ライルは少し考えた。


「そうですね」


 よかった、という言葉では足りない気がした。


 だが、他の言葉も今はなかった。


 ロイドは窓の外を見た。


「役所が何かを直したところを、久しぶりに見ました」


 その声は小さかった。


 ライルは何も言わなかった。


 ロイドも、それ以上は続けなかった。


---


 夜道を帰った。


 経路を変えながら歩いた。昨日と違う道、一昨日とも違う道。ただ、最後に水路の脇を通る道を選んだ。


 今日通った水の音を、一度聞いておきたかった。


 三名いた。


 一名が正面に立ち、一名が後ろから来た。もう一名が横の路地から出てくる配置だった。連携を知っている動き方だった。昨夜、一昨夜と、ガルダの夜道を歩いていた人間たちだ。


 だが、足音が石畳に残った。


 ガルダの夜道は、石の継ぎ目で音の出方が変わる。どこで音が増え、どこで音が消えるかを、この三人は知らなかった。


 だから、近づいてくる方向がわかった。


 正面の男が立ち止まる。


 背後の足音が、半歩だけ詰まる。


 横の路地から、衣擦れの音がする。


 ライルは水路の音を聞いていた。


 その下に混じる、三つの音を聞いていた。


---


 カイには、何がどうなったかわからなかったと思う。


 カイは水路の縁にいた。


 通水後の夜、水路の音は昼と違う。流れが安定してくると、水の底の音が聞こえる。今日のうちに確かめたかったのかもしれない。それとも、ただ水の音を聞いていたかっただけかもしれない。


 夜道の向こうに、ライルがいた。


 三つの人影があった。


 動き出した。


 次に気づいた時、地面に人がいた。


 三人とも、地面にいた。


 ライルは立っていた。上着が乱れていない。息が上がっていない。


 ただ立っていた。


 夜道の石畳の上に。


 静かに。


 水路の音だけが続いていた。


 カイは動かなかった。


 ただ、見ていた。


---


 二人の視線が合った。


 距離があった。何が起きたかを、正確には見えていなかっただろう。ただ、地面に三人が増えて、ライルがそこに立っていることは見えた。


 沈黙があった。


 カイが先に口を開いた。


「一人で帰るんですか」


「そのつもりでした」


 少しの間があった。


「水路の方を通ります。こっちの方が近い」


 カイは何も聞かなかった。


 驚かなかった。


「これはどういうことか」とも、「大丈夫か」とも言わなかった。


 聞かないことが、カイの答えだった。


 ライルは足元の男たちを見た。


 三人とも、動ける。大きな怪我はない。戦意も、もうない。


「申し入れは書面でお願いします」


 ライルはそう言った。


 倒れていた一人が、かすかに顔を上げた。


 その顔には、怒りよりも困惑があった。


 何をされたのか、まだ理解していない顔だった。


 ライルはもう見なかった。


---


 二人で水路沿いを歩いた。


 水の音が続いた。今日通った水だった。九日間かけて通した水だった。


 夜になると音が低くなる。底の石を水がなでる音が、昼は聞こえない深さで聞こえる。


 言葉はなかった。


 ライルは前を向いて歩いた。


 カイも前を向いて歩いた。


 農民の二十五人が今日掘り進め、水を通した水路の脇を、二人で歩いた。月が出ていた。水路の底が白く見えた。


 しばらくして、カイが言った。


「あの人たちは、商会の人間ですか」


「おそらく」


「そうですか」


 それだけだった。


 また沈黙が戻った。


 少し歩いてから、カイがもう一度言った。


「調整官様は、ああいうこともできるんですね」


「できることは、いくつかあります」


「じゃあ、最初からやればよかったんじゃないですか」


 問い詰める声ではなかった。


 本当に、そう思っただけの声だった。


 ライルは水路を見た。


「力で人を動かすと、力を見ている間しか人は動きません」


 カイは黙っていた。


「水路は、あなたたちが直しました。記録は、ロイドが残しました。話は、ゲオルグさんやニルスさんがしてくれました。私は順番を間違えないようにしただけです」


 カイはしばらく何も言わなかった。


「順番」


「はい」


 水の音が続いた。


 カイはそれ以上聞かなかった。


 分岐に差しかかった。カイの家への道だった。


 カイが立ち止まった。


「明日も来ます」


 振り返らなかった。


 それだけ言って、歩いていった。


 ライルはしばらく、その背中を見ていた。


 言葉が少ない人間だった。


 だが、言葉の少ない人間は、言う時だけ言う。


 「明日も来ます」というのは、今日見たものを知った上で、明日も来るということだ。


---


 宿に入った。


 帳面を開いた。


 日付と時刻を書いた。


 今夜は三名。外部なまりあり。石畳の音の読み方を知らない動き方。接触前に制止。大きな怪我は与えていない。


 ライルはペンを止めた。


 第十一話の夜、手帳には「目撃者なし」と書いた。


 今夜は違う。


 一行を加えた。


 目撃者一名。農民。カイ。


 カイが見た。


 何を見たかを、カイは正確には理解していないかもしれない。だが、カイは何かを見た。そして何も聞かなかった。


 「明日も来ます」と言った。


 それが何を意味するかは、カイが決めることだ。


 ペンを置いた。


 明日、回答文を送る。揃えてきたものを、正しい順番で、公の場に出す。


 水路の水は、今夜も流れている。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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