第十二話「金が、動いていた」
水路修繕の七日目だった。
作業員は二十三人になっていた。
前日より二人増えた。増えた二人のうち一人は、ニルスだった。
ニルスは何も言わなかった。鍬を借りて、列の端に入った。カイが一度だけ振り返った。何も言わなかった。それだけだった。
三年前まで自分の田んぼだった場所に、水が戻ろうとしている。その水路を、今は自分の手で直している。何を思っているかは、顔には出なかった。ただ、鍬の動かし方が丁寧だった。
「あと二日で通せます」
カイがライルに言った。報告というより、確認だった。
「わかりました」
水路の底が見えている。水がすでに細く動いている。最後の工区は短い。本当に二日でいける。
ライルは水路の縁を一度歩いた。土の締まり具合を確かめた。
作業員の中の一人が、カイに声をかけるのが聞こえた。
「水が来たら、土地は戻るんか」
カイは答えなかった。
ライルも何も言わなかった。
今はまだ、言える段階ではない。正確には、言えることがある。だが、それを口にできる状態に、まだ書類が追いついていない。
土地が戻るかどうかは、これから決まることだった。
「今日も任せます」
「承知しました」
ロイドは作業記録簿を開いた。
作業員名、作業範囲、作業時間、持参道具、支払予定額。二十三名分の欄が、すでに用意されている。
ニルスの名前も、そこにあった。
ロイドの筆は、もう迷わなかった。
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執務所に戻ると、ロイドがすでに帳簿を三冊広げていた。
「発注記録と支払い記録、それから会計帳簿です」
「ありがとう」
三年分。
発注記録は穀物商会名義で全件揃っている。以前ダグラスに提出させたものだ。支払い記録は執務所の会計帳簿から引き出した。支払先、金額、日付、確認者印。
机の端には、現在進めている水路修繕の作業記録も置いた。
実際に水路を直す時、何が残るのか。
人夫の名前。
作業時間。
使った道具。
資材の数量。
支払予定額。
土の状態。
通水確認の日付。
現場を動かせば、記録は自然に増える。
逆に言えば、工事が本当にあったなら、記録はどこかに残る。
ライルは椅子に座った。
「一件ずつ読み上げてください」
「はい」
ロイドが一件目を読んだ。
発注日。作業名称。発注先、南通り穀物商会。金額。支払い確認の印。
「支払い台帳の対応する記録は」
「こちらです。支払い先、南通り穀物商会。日付と金額は一致します」
「確認者印は」
「ダグラス様の印です」
「検収記録は」
ロイドの手が止まった。
「ありません」
「作業員名簿は」
「ありません」
「資材の受領記録は」
「ありません」
「通水確認記録は」
「ありません」
ライルは頷いた。
「次」
二件目。
三件目。
四件目。
同じパターンが繰り返された。
発注記録はある。
支払い記録もある。
確認者印もある。
だが、作業の中身がない。
人の名前がない。
道具の記録がない。
資材の受領がない。
完了確認がない。
水が通った記録がない。
書類の上では、完璧な仕事だった。
ただし、その仕事をした人間だけが、どこにもいなかった。
十五件目が終わった。
「材料の仕入れ記録を確認します。水路補修に使った資材の購入記録は」
ロイドが少し間を置いた。
「……執務所にある書類の範囲では、水路補修に関する材料の購入記録は一件もありません」
「商会への支払いは、三年分全件ある」
「はい」
「だが、工事の内訳がない」
「はい」
「誰が作業したかもない」
「はい」
「現場を確認した記録もない」
ロイドは返事をしなかった。
ライルはペンを置いた。
水路補修の代金は、三年間すべて商会に渡っていた。商会はその金で何かを買わなければならない。人を雇い、道具を用意し、資材を運び、実際に工事をしなければ、書類の帳尻が合わない。
だが執務所には、その痕跡がなかった。
商会への支払いという一行だけがあって、その先がない。
完工日が発注日より前という矛盾が二件あった。それは、書類が事後に作られたことを意味していた。今、作業内訳も検収記録もないことは、「事後に作られた書類の、さらにその先」がなかったことを意味していた。
工事は存在しない。
代金だけが動いた。
「現在の第一工区と第二工区の作業記録を見せてください」
「はい」
ロイドが別の帳面を開いた。
七日分の作業記録。
作業員名。
作業時間。
賃金。
道具。
資材。
通水確認。
日ごとに記録が増えている。紙はまだ新しい。だが、そこには現場がある。
ライルは過去三年分の水路補修費と、現在の修繕にかかっている実支出を並べた。
単純比較はできない。
だが、あまりにも差が大きかった。
現在の実作業は、農民二十三人を使い、七日かけて、まだ全体の一部だ。それでも支出は、過去に商会へ支払われた一件分の数分の一に過ぎない。
過去の書類では、少人数の記録もなく、資材もなく、検収もなく、それで全工区の補修が完了したことになっている。
数字は嘘をつかない。
嘘をつくのは、数字を置いた人間だ。
「記録してください」
ライルは言った。
「発注記録と支払い記録は一致。商会への支払いは三年分全件あり。一方で、作業員名簿、資材受領記録、検収記録、通水確認記録は確認できず。現在の実修繕記録と比較して、過去の支出額は実態に比して過大と推定」
「……これは」
「記録してください」
ロイドは書いた。
声は出なかった。
筆は止まらなかった。
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昼を過ぎた頃、書面が届いた。
差出人は上位機関の名称だった。
ロイドが受け取った時、顔色が変わった。ライルに差し出す時の手が、わずかに乱れた。
内容を読んだ。
南通り穀物商会が上位機関に申し立てを行ったことへの確認通知だった。調整官の業務について、事実確認の回答を求める。書式は正規のものだった。
「写しを取ってください」
「はい」
ロイドが写しを取り始めた。
途中で、一度だけ筆が止まった。
ほんのわずかだった。
「何か」
「いいえ」
ロイドは続けた。
ライルは何も言わなかった。南通りでの足取りから、ずっとそのままだった。ロイドが「何か」を知っていることを、ライルはずっと知っていた。それが何かは、まだわからない。だが、ロイドが言えないでいる何かが、この書面と関係していることは、今の筆の止まり方でわかった。
時が来れば、ロイドは言う。
今ではないなら、今ではない。
「上位機関への回答は、照合が完了した段階で行います。今手元にある記録を揃えてから出します」
「承知しました」
「上位機関への申し立ては、商会の権利です。照合記録が揃っていれば、こちらには困ることがありません」
しばらく沈黙があった。
「……そうですね」
ロイドの声は、少し落ち着いていた。
「ただし、回答は感情で書きません」
ライルは言った。
「商会が悪い、とは書かない。こちらが確認した事実だけを書く。水路修繕を続けている理由、台帳の未提出、別帳の存在、管理委託契約、発注記録と支払い記録の照合結果。それだけです」
「はい」
「事実を正しい順番で並べれば、読む側が判断します」
ロイドは頷いた。
その顔に、少しだけ血の気が戻っていた。
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午後に外出した。
測量記録の追加確認のためだった。
南通りを通った時、商会の前に見慣れない馬が二頭つながれていた。
ガルダの農耕馬ではない。足が長く、旅をしてきた馬だ。蹄の汚れ方が違う。遠くから来た馬は、石畳の蹄鉄の減り方が違う。
商会の扉の内側から声が聞こえた。
ガルダなまりではなかった。
一つではなかった。
ライルは立ち止まらず、通り過ぎた。
外から来た人間だ。
先日の男が帰って、何かを報告した。あの男が語れることは多くなかったはずだ。「気づいたら地面にいた」では、情報として使えない。だが「一人では足りない」という結論は出せる。そういう報告だったのだろう。
ヴォルツは、外から人を入れることにした。
ガルダの者を使わなかったのは、正しい判断だった。ガルダの者を使えば、その者がどちらに向くかわからない。この一ヶ月で、そういう空気が変わっていた。ヴォルツはそれを知っている。
だから外から来た人間を使う。
それは同時に、ヴォルツがガルダの中で使える手を失いつつあることも意味していた。
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夜道を帰った。
経路を変えながら歩いた。
それでも、足音が増えた。
一人ではなかった。
二人か、三人か。距離を保ちながら動いている。一人が正面を押さえ、別の者が後ろと横を塞ぐ——そういう動き方を知っている人間たちの、間合いの取り方だった。
ただ、ガルダの石畳の継ぎ目を知らない。
暗い路地のどこで音が増幅するか、どこで消えるかを知らない。
外から来た人間は、地図を持っていても地形を持っていない。
今夜はまだ来なかった。
距離を確かめているだけだ。
ライルは宿に入った。
帳面を開いた。
日付と時刻を書いた。
南通り穀物商会に外部からの来訪者複数名。ガルダなまりではない。馬二頭、旅程のある馬。夜間、複数の人員による動きを確認。接触なし、距離を保った追跡のみ。
ペンを置いた。
上位機関への申し立て書面。
外部人員の投入。
書面と実力行使を、同日に動かしてきた。
どちらも、正しい判断だった。書面だけでは時間がかかる。実力行使だけでは先日の通り機能しない。両方を並べて動かすのが、追い詰められた者の合理的な選択だ。
だが、照合はすでに進んでいる。
水路。
土地。
税。
発注記録。
支払い記録。
金が動いていた。
それはもう、記録の中にある。
あとは、使う順番を決めるだけだ。
ライルは蝋燭を消そうとして、手を止めた。
扉の外に、気配があった。
足音はない。
だが、床板の軋みが一度だけ鳴った。
宿の者ではない。
宿の者なら、廊下のどこが鳴るかを知っている。
ライルは蝋燭を消した。
部屋が暗くなる。
外の気配が、ほんのわずかに動いた。
ライルは声を出さなかった。
動かなかった。
しばらくして、気配は廊下の奥へ消えた。
今夜は、まだ来ない。
だが、近づいている。
ライルは暗い部屋の中で、手帳をもう一度開いた。
一行だけ、追記した。
宿周辺にも接触準備の気配あり。明日以降、記録の保管場所を分散する。
それを書いてから、今度こそ蝋燭を完全に消した。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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