三好討伐⑥ 阿波侵攻
伊予国・轟城。
11月20日。阿波との国境に通じる轟城に入城してから10日余りが過ぎた。その間、俺は兵士の休養や轟城の改修と同時に、西阿波の三好家配下の大西家に調略を仕掛けた。
大西家は一時は西阿波から南讃岐、東伊予、北土佐の国境地帯で大きな勢力を誇った有力国人だが、本拠の白地城は阿波屈指の山城であり、三好家にとって阿波防衛の最重要拠点でもある。
なぜなら、西の境目峠を越えると東伊予に通じ、北の薬師峠や猪ノ鼻峠から讃岐に行くこともでき、吉野川の上流を南に遡れば土佐にも出られ、白地城は四国の中央交差点とも言うべき戦略的要衝だからだ。史実でも長宗我部元親が四国統一の拠点としたほどだ。
さらには、白地城を抜かれると吉野川沿いに三好家の本拠である勝瑞城まで一直線に攻め入られかねないため、三好家にとって鬼門である白地城を守る大西家の存在は極めて重要であり、厚遇せずに放置しておくはずがない。
「申し訳ございませぬ。仕掛けは不首尾に終わりました」
案の定と言うべきか、所領安堵を条件に降伏するよう調略を仕掛けたものの、大西家はけんもほろろで靡く気配すら見せなかったようで、植田順蔵が平身低頭している。
大西家当主の大西出雲守頼武は三好長慶の妹を娶っており、三好義興にとっては義理の叔父だ。頼武の嫡男の輝武も三好家の女を娶っており、大西家は三好家の親族衆なのだから当然の結果だ。
「いや、始めから大西が調略に応じるとは思っておらぬ。だが、万に一つでも成功すれば、お互いに無駄な血を流さずに済む故、無理を百も承知で頼んだのだ。ならば、後は戦って決着を付けるしかあるまいな」
順蔵にそう告げると、俺は出陣を指示した。
◇◇◇
11月22日、しばしの休息を経て、俺は安富家と東伊予の軍勢を加えた2万5千の兵を2つに分け、讃岐の軍勢3万と歩調を合わせて阿波に侵攻を開始した。
石川元宅率いる1万は南の堀切峠を越えて金砂川(後の銅山川)沿いを東に進み、白地城の支城で寺野源左衛門武次が守る田尾城を僅か1日で落とすと、同じく支城で東条隠岐守頼高が守る中西城も2日で落とす。
大西頼武も覚悟はしていたのだろう。俺が率いる本隊1万5千が境目峠を越えて東進すると、頼武は妻や嫡男の輝武らを勝瑞城に逃し、白地城で1千5百の兵と共に籠城を決め込んだ。石川元宅の軍と合流し、2万5千の大軍に囲まれても、頼武は易々と降伏しようとはしなかった。
だが、大西家の頼みの綱である三好家からの援軍は期待できない。今頃、三好家は讃岐から4つのルートに分かれて同時に攻め入った寺倉軍3万に応戦するのに手一杯で、白地城に援軍を送るどころか、連戦連敗を喫して四苦八苦しているからだ。
それでも堅固な白地城は2万5千の大軍に攻められても落城しなかったが、11月28日、轟城を追われた後、東山城に移っていた大西備中守元武が、讃岐から攻め入った小笠原長時の5千の部隊に攻められ、討死したとの報せが届く。
東山城を攻め落とした長時は、白地城から3kmしか離れていない東の支城の大西城に攻め寄せた。徐々に悪化していく戦況と三好家の援軍は来ないという現実に、白地城の城兵の士気は減退していく。
そこへ俺は白地城に数十もの矢文をつけた矢を打ち込んだ。矢文には『東山城が落ち、大西城も落城寸前だ』とか、『三好は防衛が精一杯で援軍は来ないぞ』とか、『大西頼武の首と引き換えに城兵の命は助けるぞ』といった城兵たちの精神を蝕むような内容が書いてある。
矢文を読んだ城兵の大半は破り捨てるだろうが、一部の城兵には城主の命を奪ってでも助かりたいと考える不埒者が出てくるものだ。
そして12月8日、城内の不穏な空気に追い詰められた大西頼武は、ついに降伏の使者を俺の元に送ってきた。
「主君、大西出雲守は切腹を条件に、城兵の助命を願っておりまする」
こうして白地城が開城した時点で、既に阿波国18万石の半分は北と西から攻め入った寺倉家の手に落ち、三好家の所領は名東郡、勝浦郡、那東郡、那西郡、海部郡と東土佐の安芸郡、香美郡の10万石余りにまで激減していた。
◇◇◇
阿波国・勝瑞城。
三好家は信濃守護の小笠原家の支流である阿波小笠原氏の末裔であり、鎌倉時代後半には阿波守護であったが、室町時代では阿波守護となった細川家の下で守護代を務めた家柄である。
そして、管領・細川家の下で勢力を徐々に拡大した三好長慶は、下剋上によって一時は『日本の副王』とも呼ばれる"天下人"にまで登り詰めた。そのため長慶の死後、三好家が畿内から撤退に追いやられた今でも、阿波は三好家の影響力が非常に大きい国である。
そんな三好家の意地と矜恃に賭け、三好義興は勝瑞城に阿波と東土佐の2郡から兵を集めた結果、総勢で2万を超えた。これは動員兵力の4倍以上の数であり、亡き父・長慶の時代に受けた恩から戦に加わる老人も多く、子供を除く男の7割が参集した結果だった。
それほどまでに三好長慶は阿波において大きな影響力を持った"巨星"であった。長慶の後を継いだ三好義興も長慶に負けず劣らず父譲りの才知を兼ね備え、元来は天下を治める器に値する人物である。しかし、若年だったばかりに三好三人衆と松永久秀の政治抗争を統制することができず、三好家をかつての栄光へ導くことはできなかった。それは長慶が精神を侵されたために、時間を掛けたスムーズな家督相続ができなかったことが大きな原因であった。
それでも叔父の安宅冬康と重臣の篠原長房の2人が支えることにより、三好家は何とか盤石な体制を構築し、東四国の大大名としての地位を確立していた。しかし、凋落の一途を辿る三好家を"四国の覇者"となるまで雄飛させるには至らなかった。
そして今、圧倒的な兵数を誇り、知勇兼備の勇将が揃った寺倉軍に圧倒される状況となっている。
「思えば山崎で寺倉の軍勢を見た時も、このような心境であったな」
12月13日、三好義興は本丸から独りごちた。倍以上の5万を超える寺倉の軍勢に対しても義興は臆することなく、敵の軍勢を端然とした様子で見据えていた。
天下の覇権を懸けて戦った「山崎の戦い」での天王山。あの戦いで三好家は完膚なきまでに叩きのめされ、"天下人"という立場から引きずり下ろされた。
そして、芥川山城を落とした寺倉軍が飯盛山城に攻め寄せてくると知らされ、初めて恐怖という未知の感情に晒された。あの時はその恐怖心から戦うことなく飯盛山城を捨て、畿内からの撤退を選んだが、今は本拠地の勝瑞城にまで追い込まれている。
正に土俵際という窮地に置かれて、心中から恐怖心は消え去り、沈着冷静さをより加速させた義興は、三好家を背負う当主として既に腹を括っていた。決意はただ一つ。この戦に勝利し、寺倉軍を父祖代々の地である阿波から、そして東四国から追い出すことである。
東四国は三好家の影響力が非常に大きいため、寺倉軍が一度でも大敗を喫しさえすれば、降伏臣従した国人領主の心も自然と離れていくはずだと、義興は冷静に踏んでいた。
「では、出陣するぞぉぉ!!」
平城の勝瑞城は防御力は山城ほど高くはない上に、さすがに2万の軍勢を城内に収容するのは不可能である。さらに兵糧も何か月も籠城するには足らず、三好義興は当然のように勝瑞城から打って出て野戦を選択するしかなかった。
なお、現在の吉野川は江戸時代の洪水により流路が変わり、南の支流だった別宮川が本流となったが、この時代は現在の吉野川の北を激しく蛇行する旧吉野川が本流となっている。
その吉野川を水堀とする形で勝瑞城は築かれており、かくして三好軍2万は勝瑞城の西に布陣し、寺倉軍5万2千は吉野川を挟んで東に布陣し、互いに高い士気を以って対陣したのだった。