大内輝弘の乱② 高嶺城の攻防戦
少し時を遡り、10月1日の豊後国。
吉岡宗歓から周防奪還のための出陣を促された大内輝弘は、それから僅か数日後には2千の大友兵からなる反乱軍の大将となり、若林鎮興率いる大友水軍の船団に乗り、豊後・丹生島城を出立した。
大内家の血筋以外に大した戦功もない自分は、大内家旧臣を糾合するための旗頭として参陣はしても、精々数多の将の一人であろうと輝弘は高を括っていた。
だが、蓋を開けてみれば、全く予想外の2千もの軍勢を率いることになった事態に内心困惑し、輝弘は伊予灘を渡る船上で武者震いしていた。
その一方で、今回の出陣前の準備があまりにも短期間で用意周到な出陣に、自分が出陣要請を応諾することは端から想定内で事が進められているのを悟り、輝弘は苦笑せざるを得なかった。
(正しく大友家の思惑どおりに掌の上で踊らされている傀儡といったところだな)
だが、既に9月中には吉岡宗歓から今は毛利家に臣従した大内家の旧臣たちに密書が送られており、結果的にこの大内輝弘の反乱軍の迅速な行軍が、毛利家の対応を遅らせることとなる。
大友家の仕掛けた調略により、毛利元就の死と機を一にして衰退が顕著となりつつある毛利家に見切りを付け、たとえ大友家の傀儡であろうとも大内家再興に与しようと内応に応じる者は少なくなかったのだ。
10月3日の早朝、大内輝弘率いる反乱軍は周防国吉敷郡の秋穂浦の白松の海岸に上陸すると、椹野川沿いに北上し、その日の夕方には山口の町に侵攻した。
輝弘は山口の町に入ると、大内家歴代当主の居館であった築山館跡を占拠した。大内家が滅亡する契機となった17年前の「大寧寺の変」で、陶晴賢が大内義隆を襲ったその場所は既に廃墟となっており、輝弘は反乱軍の拠点とする館を突貫工事で築くよう命じた。
翌10月4日には、輝弘の周防上陸に合わせて反旗を翻した秋穂・岐波・白松・藤曲を始めとする大内家恩顧の遺臣たちが馳せ参じ、反乱軍はたちまち6千にまで膨れ上がった。
そして10月5日、輝弘は築山館の詰めの城として西の鴻ノ峰の山上に築かれた高嶺城を包囲し、攻撃を開始したのである。
◇◇◇
周防国・高嶺城。
高嶺城は吉川家一門で山口支配の責任者である市川経好が城主を務める山城だったが、その経好は長門に侵攻した大友軍に対して籠城する勝山城への援軍に出陣し、高嶺城には不在であった。
それどころか、高嶺城に残る家臣は附家老の信常元実を始めとした重臣が市川経好の率いる援軍に従軍したため、主だった重臣は全て出払い、高嶺城は僅か3百の城兵しか詰めていない状況であった。
そのため、城主や重臣不在で突如として6千の反乱軍に包囲された状況に、高嶺城は混乱の渦に巻き込まれた。将兵たちは大軍に囲まれて萎縮し、血色を失って顔を青白く染め、視線を落として黙して語ろうとはしない。
しかし、そこへ高嶺城を守るべく一人の女性が立ち上がった。
「皆の衆は『殿不在の今、6千の兵に囲まれたこの城はもはや死地だ』と、絶望した顔をしておられますな」
本丸の大広間で凛とした声で将兵にそう言葉を投げ掛けたのは、市川家当主・市川伊豆守経好の正妻で、市川局と呼ばれる桐姫であった。
「そ、そのようなことは決して!」
桐姫の言葉を肯定するように大きく頷く附家老の内藤就藤の横で、慌てて歯切れ悪く言葉を返したのは、就藤と共に高嶺城の留守居を任された山県元重である。他にも有馬善兵衛、津守輔直、寺戸対馬守も座しているものの、俯き加減で瞑目して額に冷汗を湿らせるばかりであった。
「所詮、大内なぞ既に滅んだ過去の亡霊に過ぎぬ。勇猛な我ら市川家が一致団結すれば、必ずや押し返せよう」
「桐姫様の申すとおり、我らは負けた訳ではない。何も6千の大軍を討ち果たす必要はないのだ。勝山城の援軍に出向かれた殿が戻って来られるまで、持ち堪えれば良いだけの話だ。必ずや毛利本隊も援軍に駆けつけてくれようぞ」
桐姫に続いて内藤就藤の説得する声に、皆の表情が僅かに和らぐ。
しかし、山城とは言え決して難攻不落とは言えない高嶺城を、僅か3百の兵で6千の大軍相手に数日間守り抜くだけでも至難の技であり、将兵全員が闘志を纏うにはもう一歩、という状況に留まっていた。
その空気を一変させるべく立ち上がったのは、またもや桐姫であった。
「ええい! 大の男が左様な弱気でどうするのだ! お主たちが戦えぬと申すのであれば、女のわらわが甲冑を身に纏い、薙刀を振るって戦おうぞ! 女であろうと市川家を舐めると痛い目に遭うと、大内の弱兵どもに思い知らせてくれようぞ!」
40歳を過ぎたとは言え、か弱い女性に過ぎない桐姫の鬼気迫った怒声に、さすがの将兵たちも怖気づいてはおられず、全員の目に決死の覚悟の鋭い眼光が漲る。
――我らには桐姫様がついておる! 負ける道理なぞない! 殿が戻って来られるまで持ち堪えて見せようぞ!
一気に沸き立った将兵たちは一様に笑顔を浮かべ、すっくと立ち上がったのである。
◇◇◇
周防国・築山館。
10月20日、完成した築山館の当主の間で、大内輝弘は焦燥感に駆られながら呟いていた。
「高嶺城には3百ほどの兵しか詰めておらぬはずであろう? 何故だ。何故落ちぬのだ」
既に周防に上陸してから17日が経過し、当然ながら毛利家には反乱は伝わっているはずだった。一日も早く高嶺城を落として山口の町を制圧しなければ、今日にも毛利本隊が反転して背後から襲ってくる可能性があるという恐怖心が輝弘の脳裏を過ぎっていた。
しかし、大内輝弘も決して暗愚な将ではない。かと言って勇将と呼べるほどでもないが、大友家の客将として、さらには大内家の末裔としての矜持から、兵法には幼い頃から多少なりとも通じており、頭は切れる武将であった。
輝弘は兵を2千ずつ3班に分け、昼夜3交替で攻めさせるように命じた。僅か3百しかいない高嶺城の城兵を休まずに応戦させ、心身を疲弊させようという狙いであった。
この作戦は効果的で、極度の緊張状態で戦闘を続けなければならない高嶺城の城兵たちは、やがてその動きに翳りが見え始める。
しかし、10月25日になっても城が落ちることはなかった。
『女子の桐姫様に甘えてばかりはおられぬ』と、高嶺城の留守居を任された内藤就藤と山県元重が老体に鞭打って、今や西国無双とも呼ぶべき獅子奮迅の奮闘ぶりで配下の将兵を指揮していたのが大きい。
さらには、武勇に優れない理由から留守居役を任された配下の将兵たちも、恐れずに前線に立って鼓舞する桐姫の叱咤激励に応え、20倍もの兵数差を物怖じともせず互角の戦いを繰り広げていた。
「負けるなぁぁ!!! もうじき、もうじき殿の援軍が来る! それまでの辛抱だ! 皆、気張れぇぇ!!!」
女性である桐姫が疾うに限界を超えているであろうというのは、誰の目にも一目瞭然だった。それでも桐姫は力の限り声を振り絞り、将兵を鼓舞し続けた。
女性ではやや大柄と言えども男には格段に劣る体格でありながら、桐姫は決して挫けることなかった。休まず薙刀を振り回す姿は、正に「女修羅」とも言うべき気迫を将兵たちに身を以って示し、既に体力の限界に達していた城兵たちに無限の勇気を与えていた。
桐姫の奮闘と、桐姫に鼓舞されて天をも貫くほど高い将兵たちの士気によって、高嶺城は20日もの間、反乱軍の攻勢を耐え抜いた。しかし、極度の疲労と睡眠不足からもはや力尽きるのも時間の問題という、夕暮れ時の事。
「援軍だぁぁ!! 援軍が来たぞぉぉぉーー!!!」
見張り櫓の兵から高嶺城の城内に向けて、一際大きな声が響き渡った。