軍神の憤懣と隠岐制圧
出羽国・延沢城。
永禄11年(1568年)9月。出羽国では既に秋も深まり、既に収穫が始まっていた。
畿内から遠く離れた奥羽では、既に日ノ本の半分以上が"六雄"の支配下にある現状となったとの噂が商人を介して伝わってはいても、未だ"六雄"の勢威の影響は少なかった。
たとえ足利幕府の権威が色濃く残る奥羽であり、相手が関東管領を名乗る上杉家であっても、血縁関係が複雑に絡み合った奥羽では所詮は"余所者"に過ぎない。そのため、どの大名も国人衆も奥羽で最大勢力だった蘆名家や伊達家が滅んだというのに、自ら進んで上杉家に降伏しようとはしなかった。
その背景には、奥羽がまだ蝦夷と呼ばれていた古の時代から、先祖が先住民のアイヌと戦って土地を奪い、その子孫が長い時間を掛けて未開の地を開拓してきたことから来る、父祖伝来の土地に対する深い愛着と祖先への強い誇りがある。
もちろん一方で、御家を滅亡させるのは御先祖様に申し訳が立たないという想いもあり、滅亡寸前ともなれば御家存続のために降伏臣従を受け入れる者が大半であった。
しかし、戦わずして上杉家の軍門に降るなど武門の恥であり、上杉軍に勝てる可能性など皆無に等しい弱小の国人衆でさえも、敵意を露わにして無謀にも一矢を報いんと激しく抵抗したのだ。
出羽国北部では、安東氏は檜山郡と比内郡を本拠とする下国家と秋田郡の湊家に分裂しており、下国安東家当主の安東愛季は陸奥国北部の南部家と小競り合いを続けていたが、上杉家との対決を見据えて、一時的な協力体制となっていた。
その南の横手盆地を中心とする山本郡、平鹿郡、雄勝郡の山北三郡で大きな勢力を誇った小野寺家は、史実では当主の小野寺景道が「雄勝屋形」と称されて最盛期を迎える前であり、小野寺家もまた安東家や南部家と手を組んでいた。
そして、田沢湖の東の角館を本拠とする戸沢家も小野寺家と安東家に南北を挟まれ、両家とは対立していたが、戸沢家もまた一時休戦という形で上杉家との対立姿勢を露わにしていた。
一方、上杉軍は前年に伊達家と最上家、天童家を始めとする最上八楯を臣従させ、出羽国南部の置賜郡と最上郡を平定すると、今年に入ってからは延沢城を拠点として、新庄盆地を中心とする村山郡に攻め入っていた。
上杉輝虎は新庄盆地の南部を制圧すると、村山郡北部に進出している小野寺家の重臣で鮭延城主の鮭延典膳正貞綱の調略を命じるが、小野寺家は上杉家に臣従した最上家と村山郡の領有を巡って幾度となく戦い、敵対関係にあったため色好い返事は得られなかった。
そのため、上杉軍は難攻不落の鮭延城の攻略に手を焼くこととなり、長い攻城戦が続いた8月も末になってようやく鮭延城を落城させ、村山郡を平定したのである。
だが、小氷河期の奥羽は12月になると豪雪で戦ができなくなるため、雪解け後から短い秋までに少しずつ攻略を進めるしかない。9月に入ると上杉軍は西の庄内地方の田川郡と遊佐郡に勢力を有する大宝寺家に攻め入った。
しかし、そこへ上杉輝虎の元に思いがけない一報が届いた。
「なに!? 北武蔵の国人衆が挙って離反しただと? 小田原城を攻めた時には関東管領に末代まで従うと申しておきながら、北条家が滅びた途端に掌を返すとは、武士の風上にも置けぬ者どもだ!」
『義』の旗印を掲げる輝虎にすれば、北武蔵の国人衆の裏切りは到底許せるものではなかった。
「もはや何の力もない古河公方に味方したところで、烏合の衆なのが分からぬのか! できることなら今すぐ関東に行き、奴らを根切りにしたいところだ!」
普段は物静かな主君が激怒する姿に、重臣たちは触らぬ神に祟りなしと沈黙を守る。
「くっ、これでは葛西と大崎と戦うために竹中家から援軍を借りることもできぬ。奥羽の平定にますます時間が掛かるな」
竹中家とは援軍の対価として北武蔵の譲渡を約束していたが、北武蔵の国人衆の離反により、上杉家は独力で葛西家と大崎家との戦いを強いられることになったのである。
◇◇◇
隠岐国・甲尾城。
隠岐島は古より遠流の地とされた山陰道の離島である。鎌倉時代に「承久の乱」を起こした後鳥羽上皇が配流されて崩御した島であり、「建武の新政」を行った後醍醐天皇も「元弘の乱」で捕縛され、一時配流された島でもある。
鎌倉時代は隠岐地頭として佐々木家が支配したこの地は、室町時代に入ると隠岐守護には佐々木氏一門の京極家が就くが、京極家は隠岐には赴任せず、隠岐守護代となった京極家一族の隠岐家が治めていた。
その後、京極家は没落の一途を辿り、戦国時代に入って京極家一族の尼子家の力が強まったことから隠岐家は尼子家の被官となり、独立を維持してきた経緯があるが、やがて尼子家が次第に毛利家に圧されるようになると、隠岐家の隠岐統治にも危機が訪れる。
隠岐島はその地理的条件から山陰道の覇権に翻弄される定めにあり、毛利家が出雲にまで勢力を伸長させるようになると、隠岐島の在地勢力の中に毛利家に傾斜を深める者が出始めたのである。
その筆頭が村上家であった。村上家は村役人である公文職として隠岐島に配流された後鳥羽上皇の世話をするなど、海士郡の因屋城城主として古くから勢力を誇る実力者であり、強力な隠岐水軍を有していた。
その村上家を始めとして毛利家への恭順を求める声が家中で大勢を占めるようになると、隠岐家当主の隠岐隠岐守為清はその主張を受け入れた。家中の圧力に屈した形だったが、それでも為清は内心では同じ京極家一門である尼子家への忠誠心を褪せることなく持ち続けていた。
しかし、毛利家の傘下に入り、ようやく安堵の息を吐いたのも束の間、今度は毛利家の衰退が始まる。京極家、尼子家、毛利家と主君を鞍替えすることにより、隠岐統治を認められてきた隠岐家だが、浅井水軍が島後沖に現れたとの報せを聞くと、甲尾城内に激震が走った。
「兄上! い、如何いたしますか?」
次弟の隠岐三左衛門清家が焦燥感に駆られた声を発する。為清も額に苦悶の色濃い脂汗が滲んでいた。
「三左衛門、落ち着け。先ずは現状を冷静に把握してから考えるのだ」
「はっ、申し訳ありませぬ」
「右京亮。敵の戦力は如何ほどだ?」
為清は浅井水軍の来襲を報せに来た村上家当主の村上右京亮景宗に訊ねる。
「はっ、配下の報告によれば、浅井水軍の安宅船や小早は200隻以上あり、我ら隠岐水軍の5倍は下りますまい」
さすがに5倍ともなると、隠岐水軍を有する村上家にも手が余る。毛利家からの援軍も期待できない状況だった。
「くっ、それでは浅井に降るしか手はないのか」
選択肢を失った為清は、苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。
やがて、浅井家からの使者として奈佐日本之介が甲尾城に現れ、浅井加賀守からの降伏勧告の書状が読み上げられた。
降伏勧告の条件は、抵抗せずに浅井家に降伏臣従すれば、隠岐家を隠岐代官として隠岐の統治をこれまでどおり認めるという内容であり、為清が家中に意見を募ると、家臣たちは降伏で一致し、早々に降伏勧告を受け入れることを決断した。
為清が奈佐日本之介から浅井家について詳しい話を聞くと、浅井家は尼子家の旧家臣団を受け入れているという事実が判明する。尼子家への忠誠を抱きながら、毛利家に屈せざるを得なかった為清の心中は歓喜で溢れていた。
そして、為清が浅井家に降伏臣従すると、浅井水軍の船に乗船していた因幡守護の山名豊弘や元但馬守護の山名祐豊らが隠岐に島流しされることとなり、隠岐家は隠岐代官として山名一族の監視役も命じられた。
こうして、隠岐国は浅井家の支配下となり、村上景宗が率いる隠岐水軍は浅井水軍に組み込まれる形となるのだった。