因幡国鎮定
播磨国を平定した蒲生家は、浦上家が大きな権力を持つ備前国に目を向けた。
浦上家は元は播磨国浦上荘を本拠とした豪族で、赤松家配下で守護代を務めたが、下克上により赤松家から独立を果たした戦国大名である。
浦上家当主の浦上宗景は従属下の毛利家から離反し、備前と美作に支配を広げていたが、実際には重臣の宇喜多直家の独立性が強く、浦上家の地盤は決して強固とは言い難かった。
その理由は宗景が浦上家の当主になった経緯にある。兄・政宗が当主であった当時、中国地方で覇権を握り、「八ヶ国守護」と呼ばれていた尼子晴久の侵攻に対する対応で家中の意見は二分した。
当主の政宗は尼子を頼り、弟・宗景は毛利を支持した結果、兄弟で備前の覇権を争う御家騒動が起こり、宇喜多直家の支援を受けた宗景が政宗との政争に勝利し、浦上家の当主となったのである。
当然ながら戦後の家中では宇喜多直家の権力が増大したため、浦上家と宇喜多家は主従関係というよりも、軍事的に従属する半同盟関係で結ばれていた。
しかし、宗景は決して暗愚ではない。宇喜多領の重要な水運拠点に直轄地を設け、代官を配置するなどして直家の領内統治を制限したりもしたが、当主でありながら宇喜多家への介入は躊躇われるという現状であった。
一方、宇喜多直家は下克上の機運を窺っていた。その契機となったのが7月に起きた西備前での松田家の没落である。松田家は浦上政宗に与して宗景と対立したが、毛利家の謀略により松田家随一の勇将であった穝所元常を暗殺され、その後も敗北を喫して邑久郡と上道郡を失うことになった。
そして、6年前に浦上家との和議が成立したが、内容は宇喜多家への従属であった。直家の長女が松田家当主・左近将監元輝の長男に嫁ぎ、重臣の伊賀伊賀守久隆に直家の妹が嫁ぐなど、直家は縁戚関係により松田家を支配した。
しかし、1年前の「明善寺合戦」で松田元輝が出兵しなかったことが直家の不興を買ってしまう。直後に松田家の重臣が『鹿と間違えた』との言い訳で宇喜多家臣に謀殺されると、元輝が宇喜多家との対立を恐れて黙認したため、家臣団との間に亀裂が入る。
これを好機と見た直家は元輝と不仲だった伊賀久隆を調略し、寝返った久隆によって元輝は抗戦虚しく討死した。そして、松田家の領地を奪った宇喜多直家は、浦上家から独立するための行動を画策する。
ところが、宇喜多直家にとって想定外の事態が起こる。直家は播磨を平定した蒲生家に臣従し、浦上家に反旗を翻す腹積りだったのだが、蒲生家に使者を送ると臣従を拒絶されてしまったのだ。
これは忠秀が正吉郎から『宇喜多和泉守は"絶対に"信用するな。謀略や暗殺にもくれぐれも用心すべし』という手紙を受け取ったためである。正吉郎を恩人と崇める忠秀は、謀将との噂の直家を迎え入れた時に獅子身中の虫となると考え、臣従の申し出を一蹴したのである。
「まさか、臣従を拒まれるとは……。くっ、当面は浦上の下で忍従せざるを得ぬか。だが、蒲生に足蹴にされたまま、おめおめと引き下がる訳には行かぬ」
西備前や美作に加えて備中にも影響力を誇る宇喜多家を迎えれば、蒲生家にとって3国の平定が容易となるのは明白であるが故に、臣従の拒絶には驚く他なかった直家だが、蒲生家に報復するための策を弄するのであった。
◇◇◇
一方、5月に丹波と但馬を平定した後、此隅山城に入城した浅井長政は、尼子旧臣や蜂屋衆を使って因幡の諸勢力に対して調略を仕掛けていた。
因幡国は山名家の領国だったが、若狭武田家の庶流の武田刑部少輔高信が反乱を起こして因幡守護だった山名豊数を追放すると、山名祐豊の三弟・山名豊弘を因幡守護に擁立し、実権を握っていた。
強い野心を持った武田高信は毛利家に従って但馬や美作にも攻め入っていたが、高信の地位は決して安泰ではなかった。下剋上により因幡を乗っ取ったために、高信は国人衆から支持が得られずに掌握に苦しんでおり、特に、因幡への進出を狙う美作の草刈家とは、毛利家の傘下同士でありながら対立関係にあった。
一方、因幡守護となった山名豊弘は傀儡であり、実権を高信に握られていることを快く思うはずがなかった。豊弘は草刈家に密書を送ると、因幡侵攻の大義名分を得た草刈家当主の草刈三郎左衛門尉景継はすぐさま武田高信を攻めた。
毛利家の戦に幾度も従軍した景継は、毛利元就から感状を授かるほど貢献していたため、毛利家はどちらにも肩入れせずにいたが、その一方で景継の父で先代当主の加賀守衝継は、景継の因幡侵攻に強硬に反対していた。
草刈家は元は因幡を本拠とする国人であり、山名家の重臣として尼子家と戦うなど数々の戦功を挙げ、浦上家から奪った美作の東北条郡に矢筈城を築いて移り住んでいた。
しかし、主家の山名家は草刈家の武勇を警戒し、恩を仇で返す形で草刈家を討とうとする。山名家から離反した衡継はその武勇を以て山名家に勝利し、因幡の八束郡と岩井郡を勢力下に置いた。
その後、山名家が将軍に泣きつき、足利義輝の調停により和睦したものの、このままでは四面楚歌で孤立は避けられないと危惧した衝継は、毛利家に"仕方なく"従ったのである。
そして今、因幡守護の山名家が臆面もなく草刈家に因幡侵攻を頼んできたことに対して、当然ながら山名家の身勝手に憤慨し、衝継はたとえ元主家であろうとも草刈家を滅ぼそうとした山名家を助けるべきではないと反発した。
衝継と景継の父子間で対立が起きた結果、衝継は60歳を過ぎた老体に鞭打って、山名家臣時代からの譜代家臣を引き連れ、齢11歳の次男・次郎(後の草刈重継)と共に出奔した。衝継が頼った先は浅井家であった。
◇◇◇
6月下旬、浅井長政は草刈衝継らを受け入れると、侵攻の機会を窺っていた因幡に直ちに1万の軍勢を派兵した。
これに対して、武田高信は草刈家との戦で兵の損耗が激しく、劣勢に追い込まれていた。そのため、毛利家から離反して浅井家に臣従するべく使者を送った。
武田高信のように野心が強い者を受け入れれば、寝首を掻かれるのが落ちだと、浅井長政は臣従を即座に拒否した。憤慨した高信は徹底抗戦するものの、援軍を頼んだ毛利家に見放され、援軍も補給もないまま鳥取城に籠城した。
しかし、ついに8月中旬に兵糧が尽きると高信は切腹し、史実の「鳥取城渇え殺し」を招くことなく、鳥取城は降伏開城を迎える。
草刈加賀守を保護している手前、草刈家と敵対するのは好ましくない。保護した草刈衝継を名目として、浅井長政は草刈家に従属するよう勧告した。事ここに至っても、因幡守護の山名豊弘は浅井家の因幡平定を頑として認めなかった。
しかし、草刈景継は父・衝継とこれ以上敵対するのは本意ではなかったため、山名豊弘の身柄を拘束して浅井家に引き渡すと、草刈家は臣従した。これにより浅井家は因幡国を平定したのであった。
「傀儡とは言え、因幡守護の岩井屋形(山名豊弘)は下手に殺すこともできぬ。隠居させた但馬の右衛門督(山名祐豊)と結んで蜂起されても困るな」
「加賀守様。ここは隠岐国を攻め取り、山名一族をまとめて隠岐に流してはいかがでしょうか? さらには隠岐水軍を配下にできるかとも存じまする」
「ふっ、なるほど。山名家を厄介払いして、隠岐水軍も手に入れる一石二鳥という算段か。よし、若狭水軍と但馬で臣従した奈佐日本之介を使って、隠岐を攻めさせるとしよう」
沼田祐光の絶妙な献策に苦笑しながら、浅井長政は隠岐攻めを指示するのだった。