但馬・丹波平定④ 浅井三軍の侵攻
5月中旬、丹波国と但馬国は4月までの肌寒さとは裏腹に、さわやかな新緑の薫風が香る柔らかな初夏の陽気に包まれていた。
浅井軍は軍議で決めた作戦どおりに2万の軍勢を3つに分け、中丹波・丹後・北但馬の東北西の3方向から赤井領に向けて出陣する。
5月14日、いち早く出陣した第1陣は垣屋続成が率いる北但馬勢と尼子旧臣を中心とする5千の兵であった。続成は赤井家に簒奪された南但馬を奪回せんと、まずは養父郡の八木城に襲い掛かった。
続成ら将兵の闘志は高く、5百の城兵で守る八木城は抵抗も虚しく3日で落とされる。城主の八木豊信は最後は城から打って出て、敵本陣に突撃を試みるも垣屋軍の槍襖に蜂の巣にされて壮絶な討死を遂げた。
続成は八木城を落とすと、すぐさま南の朝来郡に進軍する。朝来郡の竹田城は太田垣輝延の指揮によって何とか持ち堪えるものの、赤井家からの援軍はなく、落城するのはもはや時間の問題であった。
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5月18日、続いて出陣した第2陣は丹後の一色藤長、稲富直秀の率いる一色家の軍勢5千である。一色軍は丹波との国境である与謝峠を南下し、赤井家の本拠・黒井城のある氷上郡の北に位置する天田郡に攻め入った。
天田郡は弱小国人が割拠する土地であったが、塩見家、金山家といった国人たちは氷上郡北部の国人である足立家や蘆田家と手を組み、総勢1千5百の軍勢で一色軍を和久郷にて迎え撃った。
しかし、氷上郡北部の佐治荘を地盤とする山垣城主の足立基助は、隣接して幾度となく争ってきた小室城主の蘆田国住と険悪な仲だった。それに加えて、天田郡の塩見家当主・塩見頼氏は父・頼勝を足立家と蘆田家が与する赤井家との抗争で亡くしていた。
そのため、外敵である一色軍の侵攻に対して一時的に和睦したものの、国人勢の間に信頼関係があるはずもなく、兵数が少ない上に連携も取れなかった。対照的に結束の固い一色軍の前には烏合の衆でしかなく、結果は惨敗に終わり、天田郡は制圧されるに至った。
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そして、5月20日。3軍の最後に出陣したのは、総大将・浅井長政、副将を内藤貞勝とする1万の浅井軍本隊であった。
本隊が最後に出陣することになった理由は、多紀郡の八上城は黒井城のある氷上郡の東に隣接して距離が近いことから、第1陣と第2陣が黒井城に到達する速度と調整する目的と、第1陣と第2陣を謂わば囮役として黒井城から援軍を誘い出そうという目的からである。
しかし、篠山と氷上を最短距離で結ぶ鐘ケ坂峠越えの山道は行商人がよく通行する道であったが、勾配が急な上に一間半ほどの幅しかない非常に狭い悪路のため、1万もの軍勢が抜けるには細長い行軍を余儀なくされて時間が掛かる。
赤井直正はそれを利用した。朝方から丹波霧が立ち込める煩瑣極まる丹波高地の山中で、浅井軍本隊は赤井家の伏兵から度重なる奇襲を受け、足止めを食らったのである。
丹波には古からより多紀郡村雲荘に根付く村雲党という素破集団がおり、波多野家に仕えていた。波多野家が浅井家の攻城に長い間耐え続けることができたのは、この村雲党の貢献が大きかったためであった。
しかし、その波多野家が滅んだことにより食い扶持を失った村雲党は、浅井家に対して恨みを持ち、浅井家に抗戦する赤井家に仕官した。拾ってもらった恩義から赤井家に忠誠を誓った村雲党は、何よりも丹波の複雑な地形を熟知することにおいては、右に出る者がいないという点こそが最大の武器であった。
狭い山道の中、村雲党は細長くなった隊列に横槍を加える。撒菱を道に敷き詰め、兵の足の裏に怪我を負わせ、兵が足元に気を向けた後に横合いから弓矢を射かけるなど、地味で嫌らしい戦術により浅井軍本隊の先頭部隊の行軍を完璧に抑えることに成功した。
先頭部隊の行軍が滞れば、後ろの部隊は前進することができない。浅井家に仕える鉢屋衆も地の利においては村雲党の後塵を拝し、村雲党の妨害を阻止しようとも、思うほどの成果が挙げられないのが実情であった。
「敵襲だと?! 加賀守様、また先頭部隊に敵襲のようです」
「くっ、やはり敵も流石にすんなりと通してはくれぬか。……上野之助、いかがする?」
「はっ、ここは本隊を2つに分け、1つは囮役としてこの街道に残して敵の伏兵を釘づけにし、残る隊は一旦篠山に戻って南の街道に迂回するのが、兵を無駄に失わずに、結果的に早く氷上に到着する策かと存じます。ただし、敵を引きつけるため囮役にはそれなりの数を残す必要があるかと存じまする」
「確かに、急がば回れと申すな。では、内藤備前守に3千の兵を預けて、我らは篠山に戻り、南に迂回するとしよう」
浅井長政は沼田祐光の献策をすぐに採用し、浅井軍本隊を2つに分けて3千の兵を残すと、7千の兵で篠山に戻り、南の篠山川から加古川沿いに続く街道を通って氷上に向かった。
川沿いのその道は南西に大きく迂回するため、引き返す分も合わせれば距離的には3倍となるルートではあったが、北の街道よりも道幅が広いため行軍速度が増し、兵を損なわずに行軍が可能となるのであった。
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丹波国・黒井城。
5月下旬。赤井直正は徐々に追い詰められつつあった。浅井軍の侵攻に対する抵抗が思った以上に芳しくなかったからである。
養父郡の八木城は10日も保たずに垣屋続成に落とされ、城主の八木豊信は討死する。朝来郡の竹田城も太田垣輝延の奮戦虚しく落城したとの一報が届いていた。
北よりも脅威が押し寄せていた。丹後から一色軍が攻め入ったのだ。氷上郡北部と天田郡の国人が結集して和久郷にて決戦に臨んだが、こちらも惨敗に終わった。
唯一、東から攻め寄せる1万の浅井軍本隊に、村雲党による足止めが功を奏して到着が遅れているのが不幸中の幸いではあったが、多勢に無勢でいずれ浅井軍本隊が氷上に到着するのは防ぎようもないのは明らかだった。
「こうなれば、たとえ堅城の黒井城で籠城したところで後詰もなければ、もはや兵糧攻めにより飢えて滅ぶだけだな。市郎兵衛、そなたは黒井城に残っておるが良い。儂は香良の地で浅井軍を迎え撃つ!」
赤井直正は僅かな守備兵を残して黒井城の北西にある香良の地に布陣し、浅井軍を迎え撃つ決断を下す。当主である甥の忠家には黒井城に残るよう告げた。
「叔父上。私はもう童ではございませぬ故、城に籠ったまま御家存亡を懸けた大事な戦を指を咥えて眺めているつもりなど毛頭ございませぬ。赤井家当主として最後まで立派に戦う覚悟にございますぞ!」
「……左様か。お主は最後まで降伏するつもりはないのだな? 良かろう。ならば、赤井家の血脈を残すため、黒井城には弟の金左衛門(赤井幸家)を残し、もし儂と市郎兵衛が敗れた時には潔く降伏させるとしよう。だが、香良は兄上を亡くすことになった地だ。市郎兵衛も兄上の無念を晴らすよう精一杯戦ってみせるのだな」
赤井軍の兵数は5千。わずか10万石ほどの赤井家にとっては動員可能兵力の倍の数であったが、これは生野銀山による収益を元手に多くの傭兵を雇うことができたためである。
さらには、赤井家の危機を察した南但馬や天田郡の領民が直正の武勇を頼って集まってきたためでもあった。それほどまでに赤井直正の人望は、三丹地域において群を抜いているのだ。
一方、浅井軍は香良の地に陣を敷く赤井軍の元へと向かっていた。しかし、浅井長政率いる本隊の到着は遅れ、北但馬の垣屋軍と丹後の一色軍の計1万弱が先に戦場に到着しようとしていた。
しかし、本隊を欠いても2倍となる軍勢を相手に赤井直正に怯む様子は一切ない。香良の地は蘆田家と足立家との戦いで直正の兄・家清が重傷を負って亡くすことになった場所であり、直正自身も重傷を負った地でもある。だからこそ、雪辱を期した直正の目は不撓不屈の闘志で爛々と燃え盛っていた。