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石山合戦③ 毛利元就と毛利水軍

安芸国・吉田郡山城。


毛利家当主の輝元の右隣に座る毛利元就は、石山本願寺の使者からの支援要請を聞いて、さも気の毒そうな表情を使者に見せつつも、内心では反対に苦虫を噛み潰していた。


「ほぅ、石山御坊は寺倉軍に包囲され、兵糧攻めに遭っているとな?」


「左様にございまする。陸上だけでなく、寺倉の志摩水軍は巨大な南蛮船を有しており、淀川の河口を封鎖しておりますれば、このままでは後半年で3万の門徒たちが飢え死してしまいまする。毛利陸奥守様にはどうか毛利水軍の力で南蛮船を打ち破り、兵糧を援助していただきたく、お願い申し上げまする」


(くっ、一向宗の坊主が厄介事を持ち込んで来おったか。天下を望まぬ毛利が酒食に溺れる石山御坊の糞坊主どもを援ける義理などあるものか! だが、安芸と備後は一向門徒が多い。もし支援を断れば、顕如が報復として一向一揆を蜂起させる恐れもあるか)


元就は三河一向一揆と長島一向一揆のことを思い浮かべた。現・天下人として確固たる地位を築いている寺倉家が、織田の援軍を持って漸く鎮圧した一向一揆だ。安芸と備後で一向一揆を起こされれば、鎮圧には膨大な時間を要する事は間違いない。一向一揆の鎮圧に苦心している間に大友や浦上に攻め込まれてはたまったものではない。


(それに先日仕官した細川藤孝の話では、寺倉左馬頭ら"六雄"は天下泰平を目指しているという。ならば、いずれは決戦せねばなるまい。ここで石山御坊に恩を売っておくついでに、噂に聞く南蛮船と一度戦っておくのも、一石二鳥で悪くはないか)


毛利元就はさも心配そうな表情を使者に見せつつも、腹の中では全く正反対で石山御坊に毒づきながら、毛利家の利について考えを巡らせていた。さすがは稀代の策謀家である。


「御祖父様、無碍に断るのも忍びないと存じますが、如何いたしますか?」


石山本願寺の支援要請を受けて同情した様子の輝元が、顔を右に向けて元就に判断を仰ぐと、元就は穏やかな声で返事をする。


「ふむ。……摂津は領国からはちと遠く離れてはおるが、安芸と備後は一向門徒の領民が多い故、本山である石山御坊の危難を救うことは、領民を安んじることでもあり、領主としての務めでもあろう。相分かった。無論、援軍の派遣と兵糧の提供には相応の対価はいただくが、今月末あたりには毛利水軍を和泉灘に派遣し、寺倉水軍の南蛮船とやらを打ち払って見せようぞ」


「使者殿、法主殿にはご安心召されよと宜しくお伝えくだされ」


元就が支援要請に応じると、輝元は嬉しそうに使者に声を掛ける。


「おぉ、誠にかたじけなく存じまする。法主・顕如様もさぞやお喜びになりましょう。陸奥守様と少輔太郎様には必ずや御仏のご加護がございましょうぞ!」


(ふん。破戒坊主どもの一向宗に御仏のご加護があるものか! しかし、幸鶴丸は15歳になったと言うのに、中身は未だ童のままで、これでは儂が死んだら毛利の行く末は心配だ。まだまだ死ぬ訳には行かぬな)


元就は笑顔で御礼の口上を述べる使者に対して内心で悪態を吐くと、毛利家当主として心許ない輝元に対しても不満と不安を抱いていた。


こうして、石山本願寺は下間頼廉の期待どおり毛利家の援軍を得ることに成功したのであった。




◇◇◇




瀬戸内海・備讃瀬戸。


6月29日の申の刻(午後4時)、無数の小早と関船からなる700隻もの大船団を率いた毛利水軍は、石山本願寺に対して海上封鎖を行う寺倉水軍を打ち倒すべく、和泉灘の摂津沖に向けて瀬戸内海有数の難所である備讃瀬戸を東へと航海していた。


「ふっふっふ、いよいよ寺倉水軍の南蛮船と戦う時が来たか。久々の大物が相手故に腕が鳴るのぅ」


最も大きい関船の船上で呟いたのは、この毛利水軍の船団の指揮を取り仕切る小早川家の重臣で、小早川水軍の勇将として名高い乃美宗勝であった。宗勝は「厳島の戦い」の際に、自身の血縁関係のある村上水軍を引き入れる交渉役を担い、その村上水軍は陶晴賢を自刃に追い込むという大きな戦功を挙げるに至った。これにより、宗勝はその後の毛利家の躍進に大きく貢献しただけでなく、その優れた武勇においても毛利元就から大きな信頼を受けていた。


南蛮船を有して名実共に「日ノ本最強の水軍」の名を我が物としつつある寺倉水軍の噂は、かねてから「瀬戸内最強の水軍」を自認する毛利水軍の耳にも届いており、"最強の水軍"の座を賭けた寺倉水軍との雌雄を決する対決とあって、宗勝が鼓舞するまでもなく、毛利水軍の将兵たちの士気は十分すぎるほどに高かった。


「おぅよ、兵部丞殿。南蛮船が如何ほど大きかろうが、海の上では愚図でのろまな亀と同じよ。無駄に図体ばかりデカいだけで炮烙玉の恰好の的だ。炎上させて海の藻屑としてくれようぞ。ガッハッハ!」


宗勝の横では、能島村上家当主の村上武吉がむさ苦しい髭面で豪快に笑い飛ばした。村上水軍の面々が得意満面なのは、寺倉水軍が船体の大きい南蛮船を保持し、優れた大砲の威力によって遠くに位置する敵を砲撃する戦法が得意だと聞き及んでいたからである。


対する村上水軍が得意とするのは対照的に、小回りの効く小早を主力とした迅速な行動により大きな船に接近し、焙烙玉や焙烙火矢による火攻めによって船を炎上させる戦法であった。木造船は海上で一度燃えてしまえば沈没か、消火しても航行不能となり、戦いを続行するのはほぼ不可能となる。


したがって、村上武吉にすれば寺倉水軍の主力となる南蛮船は無駄に大きいだけの鈍重な船に過ぎず、毛利水軍の得意とする炮烙玉の格好の餌食であり、相性の良い相手だと踏んでいたため、戦は短時間で決着すると予想していた。


元より毛利水軍の役目は寺倉水軍の海上封鎖を破り、兵糧などの物資を補給することである。毛利水軍の狙いは、石山本願寺に物資を補給してすぐさま帰還すること、ただそれだけであった。




◇◇◇





和泉灘・木津川口。


翌6月30日の巳の刻(午前10時)、前日は淡路島の西岸に停泊した毛利水軍の大船団は、明石海峡を通過して和泉灘に入った。


すると、東の海上に遠目でも寺倉水軍の巨大な南蛮船"3隻"が"光り輝いている"のを視認することができ、毛利水軍の将兵は瞬時に緊迫感に包まれた。


(南蛮船が3隻か。本願寺の使者から聞いた話では2隻とのことであったが、新たに建造したのか。ピカピカと光り輝いているのは何ゆえだ? ん? 予想以上の大きさに飲まれている兵がおるようだ。このまま放っておいてはちと拙いな)


指揮官用の関船に乗る乃美宗勝は力強い眼光で南蛮船を睨みつけながら、将兵の士気が少し下がっているのを察知すると、周囲の小早の将兵にも聞こえるように大声を張り上げて鼓舞する。


「狼狽えるな! あの南蛮船はただ図体が大きいだけの船だ! 我ら毛利水軍の素早さには決して敵うことはない! 皆の者、手筈どおり一斉に襲い掛かって燃やし尽くすのだ!」


――オオオオォォォー!!


毛利水軍の船団は兵糧など物資を積んだ200艘の船を後方に残し、乃美宗勝の檄を受けて意を決した500隻の船は卓越した機動力を以って、寺倉水軍300隻が停泊する木津川口へと舵を切った。


やがて余りの巨大さに近づけば近づくほど迫力を増していく南蛮船に、毛利水軍の将兵はやや気圧されながらもなおも迫って行くと、突然、3隻の南蛮船の船体が火を吹いた。


――ドガーーン! ドガーーン! ドガーーン!


轟音が響き渡ると、数瞬遅れて2隻の関船の船体が木っ端微塵に吹っ飛び、あっという間に沈んでいく。他にも砲弾により海面から大きな水柱が幾つも上がり、その煽りを受けて転覆する小早が何艘も見受けられた。


しかし、毛利水軍の500隻もの船団にすれば僅かな被害である。元より乃美宗勝も寺倉水軍の南蛮船相手に無傷で勝てるなどとは微塵も思ってはいない。船の間隔を空けて艦砲射撃の被害を減らしつつ、弓矢や鉄砲の雨を上手く掻い潜りながら命懸けで南蛮船へと接近していく。


「よし、今だ! やれぇぇぃ!!」


乃美宗勝の号令と同時に、毛利水軍の将兵は一斉に焙烙玉や焙烙火矢を投擲し、南蛮船に火を付けようと襲い掛かった。

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