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六雄の勢力拡大② 丹波の国人衆

5月上旬、蒲生家は播磨へ侵攻を開始した。


播磨守護の赤松家は、赤松宗家と分家の龍野赤松家に事実上分裂しており、龍野赤松家の赤松政秀が播磨に介入していた備前の浦上政宗を暗殺したことにより、浦上家は兄弟の抗争に終止符が打たれ、後を継いだ弟の浦上宗景は備中から美作に進出を企む三村家や元主家の毛利家との対決に全力を以って当たっており、播磨に目を向ける余裕はなかった。


こうして浦上家との対立状況が解消され、西への脅威を減らした赤松政秀は、東から侵攻してくる蒲生家に対して東播八郡を治める別所安治と協力しながら対抗姿勢を示しており、別所・龍野赤松連合は東播磨の別所領に戦力を集結して、蒲生家を迎え撃つ構えを示していた。


一方、勢力範囲を西播磨の一部だけに減らして没落した赤松宗家の赤松義祐は、主家を上回る勢力を有する有力重臣の小寺政職を頼っている状況であり、その小寺家は小寺官兵衛が仕官することによって蒲生家に臣従することとなり、播磨を巡る戦いは別所・龍野赤松連合と蒲生・小寺・赤松宗家の勢力が対立する構図となっていた。


赤松家の庶流でありながら、今や本家を凌ぐ勢力を有する別所家当主の別所安治は、父・就治に負けず劣らずの勇将であり、蒲生軍は兵数では別所を上回る2万の兵力を擁して、別所家の居城である三木城を取り囲んだものの、士気の高い別所の城兵によって三木城は固く守られ、苦戦を強いられた。


三木城は加古川の支流である美嚢川の南岸の湯山街道沿いの台地に建つ平山城であり、小寺家の御着城、三木家の英賀城と並んで「播磨三大城」と称された名城である。その三木城に立て籠った別所軍は、さすがは三好や尼子といった大大名の攻勢を撃退し、独立を守り通してきた別所家の底力と言うべき戦いぶりであり、苦戦を余儀なくされた蒲生軍は三木城を落とすのに長い時間を要することになる。



◇◇◇


そして5月中旬、浅井家も若狭から丹波へ侵攻した。


丹波は、数年前までは三好家の後ろ盾による強大な武力により、内藤家の前当主で松永久秀の実弟である内藤宗勝(松永長頼)が丹波一国を支配していたが、3年前に内藤宗勝が赤井直正との「和久郷の決戦」で戦死したことによって内藤家の勢威は大きく衰え、丹波は三好の支配下から脱することになった。


宗勝の死後の内藤家は、松永とは血縁のない内藤貞勝が当主となったため、三好の傘下という意識は最早消えていた。それと共に三好の庇護を受けられなくなった内藤貞勝はそれ以降、波多野元秀や赤井直正という有力国人の攻勢に対して劣勢に立たされ、徐々に領地を侵食されつつあった。


そして、現状の丹波は、船井郡の八木城を居城とする東丹波の内藤家、多紀郡の八上城に本拠を構える中丹波の波多野家、そして西丹波の氷上郡に立地する黒井城の赤井家、という「丹波三強」と呼ばれる三家を始めとする国人領主が群雄割拠しており、「丹波三強」の居城である八木城、八上城、黒井城は「丹波三大山城」と呼ばれていた。


こうした状況において、昨年秋に若狭・大飯郡の逸見昌経が浅井家に降伏臣従した後に、浅井家から送られた使者から臣従を促された内藤貞勝は、年明け早々に浅井家への臣従を決め、波多野・赤井への対抗姿勢を鮮明にしたのである。


浅井長政は3万の大軍を率いて内藤家の本拠の八木城に入ると、まずは東丹波の国人領主の制圧に入った。


浅井家に恭順しない国人領主の中でも特に、八木城の北の山間部にあった禁裏領の山国荘を押領して勢力を拡大した宇津家は、朝廷からの再々の勅命や三好長慶の命令をも無視して押領を続けていた。山国荘からの材木、米、鮎、餅といった貢納物は朝廷にとって貴重な収入源であり、これを横領されたことは朝廷の経済的困窮の主因ともなっていた。


その宇津家当主の宇津頼重は波多野家と軍事同盟を結んで内藤家との抗争を続け、着実に領地を拡大しつつあった。そこへ浅井家に横槍を入れられた形となった宇津頼重は、当然ながら浅井家の降伏勧告に応じるはずもなく、同盟関係にある美山の川勝家の川勝広継や波多野家の援軍を借りて、宇津城に篭って徹底抗戦に出た。


しかし、防御に優れた山城の宇津城ではあったが、所詮は弱小国人の小城であり、浅井軍3万の兵と新たに軍師に召し抱えられた沼田祐光の戦術もあって宇津城は3日で陥落し、宇津頼重は捕らえられた。


「宇津頼重は畏れ多くも禁裏領を横領し続けた悪党である。帝から朝敵とされた大罪人である故、武士として切腹する名誉など断じて認める訳には行かぬ!」


後ろ手に捕縛されて浅井長政の前に引っ立てられた宇津頼重は降伏どころか切腹すらも認められず、罪人として一族郎党とも磔刑とされたのである。


後日、宇津頼重の首と共に、横領されていた禁裏領の山国荘が朝廷に返還されると、朝廷から浅井長政に恩賞と御礼の勅使が遣わされたのであった。


そして、宇津頼重の処刑を目にした川勝家当主の川勝広継は、宇津家への援軍によって多くの兵を失い、もはや抵抗する力は残っていないことから浅井軍に降伏を申し出た。


「川勝彦治郎、お主は降伏勧告を無視し、大罪人の宇津頼重に味方したな。であれば、お主も罪人である故、易々と降伏を認める訳には行かぬ!」


「ううっ、……ですが、どうか御家だけは存続させていただけますよう、伏してお願い申し上げまする」


予想されたとは言え、長政の厳しい言葉に絶句した川勝広継は、平伏して御家存続を頼み込んだ。


「ふむ。……確かに、川勝家は禁裏領を横領した訳ではない故、ここは特別の温情によりお主の切腹を以って罪一等を許し、川勝家の降伏と臣従を認めるとしよう。如何するか?」


広継も「嫌だ」と答えれば一族郎党、打首となるのは分かっており、そう訊ねられて「嫌だ」と答えられるはずもない。


「ご温情、誠にかたじけなく存じまする。では某が腹を召し、嫡男の大膳亮継氏に家督を継がせまする。今後、川勝家は浅井家に子々孫々忠誠を尽くすとお約束いたしまする故、何卒良しなにお願い申し上げまする」


こう言って川勝広継は潔く切腹し、川勝家は川勝継氏が継ぐことになった。


実は、浅井長政も宇津頼重の処刑は当初から念頭に置いていたが、川勝家については全くの白紙であった。しかし、軍師の沼田祐光から今後、独立心の旺盛な丹波の国人衆を臣従させて、浅井家に忠誠を誓わせるためには、川勝家に飴と鞭の処分を施して利用すべきだという進言があり、長政は心を鬼にして川勝広継に切腹を命じた。


そして、この川勝家を処分した策は沼田祐光の狙いどおり、この後の丹波の国人衆に対して大きな効果を発揮することになる。


こうして桑田郡、船井郡の東丹波8万石の制圧が成ると、浅井家は中丹波の波多野家、西丹波の赤井家に圧力を強めていくのであった。



◇◇◇



一方、3月に三河一向一揆を鎮圧して後顧の憂いを断った織田信長は、常備兵の傷が癒えるのを待って、遠江、甲斐、西駿河から集めた兵を加えて1万5千を超える軍勢を率いて、6月中旬に東駿河の北条領へと侵攻した。


この地は、かつて武田家が三国同盟を破棄して駿河に侵攻した際に、北条家が今川家に援軍を送らない代わりに譲り受けた、富士川から黄瀬川までの富士郡と駿東郡一帯のいわゆる「河東」と呼ばれる地である。


対する北条家は、当主の北条氏政の三弟で伊豆・韮山城主の北条氏規が「河東」の地を死守すべく、伊豆の全軍を率いて富士郡にある善徳寺城に入城した。


善徳寺城は元は「善徳寺の会盟」の舞台となった臨済宗の寺院であるが、城郭でもあった。今川家の政治・軍事的拠点として重要な役目を果たした城であり、武田家の駿河侵攻で焼け落ちていたものの、後に北条家が「河東」を守る最前線の防衛拠点として堀や城壁を整備して再建させた城であった。


しかし、伊豆は一国でわずか7万石の石高しかない国であり、5万石ほどの「河東」の兵と合わせても3千程度しかなく、平城の善徳寺城では1万5千を超えようかという織田軍の包囲の前には為す術もなかった。


「4倍の軍勢を相手に、この城では守り通すのは無理だな。今夜、某は城を出る故、残った兵たちは無理に戦って命を落とす必要はない。明日、降伏開城するが良い」


北条氏規は城兵たちにこう言い残すとその夜、わずかな兵と共に善徳寺城を脱出して韮山城に退却した。翌朝、善徳寺城は降伏し、わずか3日で落城した。


その後、織田軍は富士郡と駿東郡の「河東」5万石を制圧すると、さらに伊豆国へと侵攻するのであった。

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