蒲生家の御家騒動② 援軍派遣
「左兵衛大夫殿、むしろ御家が大事ならば臣従などしてはなりませぬ。第一、宗智殿や譜代の家臣の反発はそれが原因でござろう? ならば無理に寺倉家に臣従すれば、家臣たちのわだかまりとなって家中に大きな禍根を残しましょうぞ。臣従などせずとも、援軍の要請には相応の対価を以って応じるつもりでございまする故、寺倉家と蒲生家はこれからも対等な盟友同士の関係でいた方がよろしかろう。それに有り体に言えば、面従腹背の家臣ほど厄介なものはござらんし、さらには蒲生家を臣従させたとなれば、他の四家の疑心暗鬼を招いて『近濃尾越六家同盟』に罅が入りかねませぬ故な。これまでも竹中家や浅井家とも西美濃や坂田郡という対価を以って援軍を派遣しておりまする故、安心召されよ」
無理やり蒲生を臣従させたところで、反臣従派の宗智陣営の家臣が面従腹背の名ばかりの家臣となるだけだ。それに加え、同盟する六家の中で臣従関係ができるとなれば、寺倉の国力が突出しすぎて六家のバランスが崩れてしまい、築き上げた円満な関係に亀裂が生じかねない。
それではせっかく六家の国力を250万石以上になるように調整した俺の苦労も水の泡だし、他の四家に反寺倉連合なんて組まれたら再び乱世に戻りかねない。寺倉としてもそれだけは絶対に避けたいのだ。
「重ね重ねかたじけなく存じまする。では、此度の援軍には如何ような対価を用意すれば宜しいのでございまするか?」
俺の言葉に安心したのか、忠秀は先ほどまでの悲壮な表情が随分と和らいだように見える。
「うむ。此度の援軍の対価としては、この秋の佐渡国への侵攻に協力していただきたく存じまするが、いかがですかな?」
俺は頷くと、援軍の対価として忠秀に佐渡侵攻への協力を求めた。
佐渡島は近江から遠く離れた場所にある。突拍子もない話に聞こえたのか、忠秀は眉根を寄せて怪訝そうに首を傾げる。
「佐渡? 佐渡島でございまするか?」
「左様にございまする。先日、上杉殿と話をしましてな。その際に上杉殿の好意で佐渡を譲っていただけることになり申した。佐渡は蝦夷などとの交易での補給拠点になり得まする故な」
本当ならば寺倉がこの秋にでも佐渡に侵攻したいところなのだが、信長との約束で武田との戦いに援軍を送らねばならない。援軍の帰途に海路で佐渡に寄り道するにしても、降雪の時期まで時間がない。
そこで、寺倉の代わりに蒲生に2千ほどの兵を出してもらえれば、佐渡は2万石ほどしかないので、今の蒲生でも大した負担とならずに今年中に佐渡を制圧できるだろうと考えたのだ。
「なるほど、得心がいき申した。では、佐渡侵攻に協力させていただきましょう。ですが、我らは水軍を持ちませぬ故、海を渡るのは難しいかと思われまするが?」
忠秀は納得したように首を縦に振った。御家騒動の援軍の対価としては妥当な線だろう。
「安心召されよ。寺倉家には志摩水軍がおりまする故、越後まで陸路で移動してから、志摩水軍の小早を使って佐渡島まで渡ればよろしかろう。寺倉家の重臣も随行させまする故、共に戦っていただきたいと思うておりまする」
佐渡には前田利蹊も派遣するつもりだ。最近は戦功を挙げる機会も減っていたから、丁度いいタイミングだろう。
「左様でございまするか。ならば、よろしくお頼み申しまする」
「うむ。では、急ぎ援軍を送るとしよう。事態は急を要しまする。此度の内紛をいち早く収めねば、三好がこれ幸いと攻め寄せてくるに違いありませぬ」
「伊賀守殿、誠にかたじけない」
忠秀は再び深く頭を下げると平身低頭のまま部屋から退出し、山城国に帰還していった。
こうして、蒲生家の御家騒動は多くの家臣の支持を得た宗智陣営と、寺倉家の援軍を得た忠秀陣営に分かれ、9月下旬、両者はついに衝突したのであった。
◇◇◇
蒲生宗智軍と蒲生忠秀軍は、京の東・山科で対峙していた。
宗智は蒲生家が持つ兵力の過半を占める5000の兵だったが、忠秀は寺倉家から兵を借りて1万5000もの兵を動員していた。
「左兵衛大夫殿、此度の戦、如何戦うおつもりでございまするか?」
この援軍に寺倉家から派遣された猛将・前田利蹊が陽気な声で訊ねる。
「あの父上のことだ。あらゆる手を駆使して全力で我らを潰しに来るだろう。たとえ兵数に勝るとも、こちらも油断せず一手、二手先を読んだ戦法を取らねばならぬ」
その目には父に対する尊敬の念が込められていた。父を敬うからこそ負けられない。蒲生家の当主として負ける訳にはいかなかった。
利蹊は忠秀の父親を越えんとする熱い決意に感心し、「ほぅ」と息を漏らした。
利蹊がこの援軍に派遣されたのは、佐渡侵攻を見据えた正吉郎の判断によるものである。佐渡でぶっつけ本番で蒲生軍と歩調を合わせて戦うのは些か無理がある。此度の援軍で蒲生軍と連携して戦う予行演習にしようという正吉郎の意図であった。
利蹊としてもこの戦いは絶対に勝たねばならない。正吉郎に1万5千もの大軍を率いる大将を任された以上、その期待に応えることが利蹊の生きる意義となっているからだ。故に、利蹊も並々ならぬ覚悟を胸に秘めていた。
忠秀と利蹊は性格的には対照的とも言える2人であったが、意外にも気が合ったようである。
しかし、その日の夕方、宗智軍は整然と撤退していった。いくら百戦錬磨の宗智と言えども3倍の兵数相手ともなれば、野戦で正面から戦っては太刀打ちなどできない。ならば籠城した方が勝機もあると考えたのだ。
速やかに退却した宗智軍5000は大津城に立て篭もった。大津城は1年前に蒲生家が志賀郡を攻め取ってから半年余りで築いた新しい城である。琵琶湖湖畔に立地し、湖水を水堀として用いる、いわゆる水城であるが、山城ほど防御力が高い城ではなかった。
翌日、忠秀軍は3倍の兵を以って大津城を取り囲んだ。忠秀は身内同士で戦って兵力を徒に損耗すれば、宿敵の三好を喜ばせるだけであると、この戦いの愚かしさを理解していたため、利蹊に城攻めは控えるように頼んだ。
そのため、3日間の戦いは圧倒的な兵数で城を包囲する忠秀軍と、兵力差を堅い守りで補う宗智軍がお互いに牽制し合い、両軍の戦いは小競り合いに留まっていた。
しかし、これ以上時間を掛ければ、背後から三好に攻め込まれる隙を作るだけであり、何としても一刻も早く決着させなければならない。そう判断した忠秀は自ら降伏勧告の使者となって、大津城へ単身乗り込む決意をしたのであった。