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博多派遣の成果①

筑前国・博多。


12月に入ると、鬱蒼とした樹々が葉を悉く散らし、その落ち葉が冷たい北風に舞っていた。志摩の温暖な気候で生まれ育った小浜景隆は、日本海側の冬の冷気に肌を撫でられて露骨に歯をガタガタと震わせていた。


「ふふふ、民部殿。この程度の寒さで震えていてはこの先、寺倉水軍の大将としてやって行けませぬぞ? 猫みたいに身を縮こませた姿を伊賀守様が知ったら何と仰られますかな?」


寺倉家の御用商人で40歳手前の慶松平次郎が、一回り以上若い景隆に穏やかに説教めいた口調で忠言する。


だが、その言葉は親しみを含んだ揶揄に包まれている。伊勢から3ヶ月の長旅とあって、既に二人の仲は非常に親密な関係となっていたためである。


二人は親子ほど歳が離れ、商人と武士という身分の違いはあったが、長旅の中でお互いに同じ任務を与えられた仲間として、家族のような連帯感を抱いていたのだ。


「ああ。そんなこたぁ分かってるさ。ただ、九州だから冬でもてっきり暖かいと思いきや、まさかこんなに寒いとは予想外で、体が少し驚いていただけさ。だが、伊賀守様の耳には絶対に入れないでくれよ。頼んだぜ」


景隆もそんなことは言われずとも分かっているのか、平次郎のいつもの人を小馬鹿にしたような言葉をさらりと受け流したが、正吉郎の名前が出ると少し慌てていた。


景隆にとって正吉郎は、一介の海賊から直臣の武士に取り立ててくれた主君で崇拝しており、決して嫌われたくはない存在だったからである。景隆のみならず、志摩の海賊衆は海賊だからという理由で冷遇されることは一切なく、寧ろ厚遇を受けていることに感激していた。この博多派遣で操船技術を学べるとあって、景隆の手下も忠義とやる気に満ちていたようだ。


一方の平次郎と言えば、元は越前で名を馳せた大商人の名家の出身である。豪雪地帯の越前で生まれ育った平次郎にとって、博多の冬は寧ろ温暖な過ごしやすい気候だと言っても良かった。


「左様でございますか。ならば、これから神屋紹策様の屋敷に伺うのですから、もう少し背筋を伸ばして寺倉家の家臣として恥ずかしくない毅然とした態度でお歩きくだされ」


平次郎はこれから神屋紹策と会うからか、表情を若干強張らせながら言う。


「分かった、分かった」


景隆は左手をヒラヒラとさせながら緊張感のない様子で受け流した。


そんな調子で、二人は他愛もない会話を交わしながら、冬の博多の町を闊歩していた。


8月下旬に伊勢の大河内城で寺倉伊賀守から博多派遣の密命を受けてから、すぐに準備を整えた二人は、小浜真宗から可愛い孫の初仕事だと喜んで貸し出してくれた安宅船で、9月初旬に志摩を出航した。


船は紀伊沖から土佐沖、伊予灘、関門海峡を通って、9月中旬にはここ博多の町に無事到着したのであった。


古代から大陸との外交・交易を担う大宰府の外港であった博多は、「日本三津」に数えられた日本最古の湊町で、日本初の自治都市でもある。


戦国時代の当初は大内家の日明貿易の拠点であったが、大内が陶晴賢に滅ぼされると、博多は大友宗麟によって統治されるようになった。


しかし、5年前に国人衆の筑紫惟門の謀反によって博多の町は焼き払われ、現在の博多はその復興の途上にあった。


一行の責任者でもある平次郎はまずは博多で長く逗留する宿を決めると、復興中の博多の町を歩き回って博多の地理を把握した後、手分けして情報収集に動いた。商人には商人の、海賊には海賊の情報ルートがあり、それらを使って現在の博多の状況や周辺の大名の状況、明や南蛮との交易の状況など、入手可能な情報を収集したのである。


それによって博多の現状を把握した平次郎は昔、父親に同行して訪ねたことのある博多一の豪商・神屋紹策を訪ね、南蛮や明の商人との交易の便宜を頼んだのであった。


無論、お互い商人同士なのでタダではない。対価は最新の畿内情勢の情報との交換であった。博多商人にとって畿内の最新情報は何物にも代えがたい価値があり、今や大大名の寺倉家の御用商人を務める慶松平次郎からの情報ならば、博多の商人にとっては大変高い価値があり、これを少し勿体ぶって話すだけで、平次郎一行は博多での品物入手の便宜を図ってもらえることができたのだ。


その後、神屋紹策から紹介された南蛮商人や明の商人に対して、平次郎は長年の商人の経験による巧みな交渉技術を用いて、正吉郎から仰せつかった奇天烈とも思える品物の調達を行った。


青や赤など色とりどりのギヤマンの器は大変高価で数多くは買えなかったが、割れたギヤマンは屑値で大量に買うことができ、南蛮商人は何に使うのか怪訝な表情をしていた。遠眼鏡や羅針盤も問題なく入手でき、作物や家畜は明の商人から人参、ホウレンソウ、玉ねぎといった野菜と、羊、山羊という毛や乳を採る家畜を数頭ずつ入手することができたのであった。


懸念していた大砲も資金の何割かを出すことで何とか1門購入することができ、南蛮船の操船技術も景隆らの手下を2ヶ月間タダ働きさせることで、無事に習得することができた。


一方、地球儀は入手できなかった。理由は南蛮人の本国の位置を知られたくないとのことであった。その代わりとして、琉球、ルソン、明までの海図を交易用として購入することで手を打った。


しかし、最も重要な南蛮船はやはり都合良く古い壊れかけの出物などあるはずもなく、いくら金を積んでも、南蛮商人は頑なに売ることを拒んだ。船を売れば積荷と日ノ本に来た全員を乗せて帰ることが難しくなるのだ。それに南蛮人にとっては極東の小さな島国だとは言っても、造船技術を盗まれて力をつけられるのを面白く思うはずもない。


地球儀を渡さなかったのもそれに近い理由だろう。本国の位置を知られれば、万が一にも将来本国を攻め込まれる危険性が孕んでくるからである。


景隆は博多湾の沖合に停泊する南蛮船の船底の竜骨を調べさせたが、同行させた船大工の棟梁は、造船する上では絵図面よりはやはり実物が手に入って、船体の構造が分かる方が断然いいと言い、どうやって南蛮船を手に入れるか頭を悩ませていたのであった。


そんな中で12月に入り、今日、懇意にしている神屋紹策に茶会に招かれて屋敷を訪ねると、神屋との話の中で、南蛮人の船は毎年、南風に変わる前の1月頃には、北風に乗って南のマカオに向けて出航するという情報を得たのであった。


宿に戻って平次郎と相談した景隆は、もはや南蛮船を入手するための時間的な猶予は残されていないことに深い溜息を吐いた後、やむを得ず正吉郎から授けられた強硬手段に打って出ることにした。


景隆は正吉郎から借り受けた伊賀衆の素破を用い、夜間に密かに水遁の術で海に潜り、停泊する南蛮船2隻の内1隻の底に穴を開けさせたのである。

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