竹中家の信濃侵攻と久秀の慟哭
「正吉郎様、竹中家が筑摩郡を攻め落としたとの由にございまする」
11月上旬、俺は信濃国に攻め入っていた竹中半兵衛が筑摩郡を制圧したと、植田順蔵から報告を受けていた。
筑摩郡は木曽から深志、現代の松本までの広い地域だが、筑摩平(松本盆地)以外は山間部のため石高は5万石しかない。
だが、史実では武田信玄が甲斐から北信濃や飛騨、越中に侵攻する上で要衝となる重要な地であり、今は「武田四天王」の馬場信春が深志城、すなわち現代の国宝・松本城を居城として深志を治めていたはずだ。
小笠原長時の時代の居城は山城の林城であり、平城の深志城は支城の一つに過ぎなかった。しかし、深志の統治を任された馬場信春は、統治に便利なこの深志城を居城として改修し、国宝の天守閣も出来上がったようだ。
竹中軍8000は恵那郡から木曽谷に侵攻し、福島城の「信濃四大将」の木曾義康と義昌父子を降伏臣従させると、そのまま筑摩平に北進し、馬場信春の篭る深志城を包囲したそうだ。
当然、武田信玄は援軍を送ったと思いきや、武田は駿河で大井川を挟んで織田と緊張状態となっているため、信濃に援軍を送ることができなかったようだ。
「そうか。さすがは半兵衛だ。機を読んで相手の弱味につけ込み、軽微な被害で『武田四天王』たる馬場信春を降伏に追い込むとはな」
俺は感心しながら素直に褒め称える。だが、天才軍師と称された半兵衛のことだ。この程度の戦略は朝飯前のことだろう。
武田の置かれた状況から信玄の心中を読み切った上での信濃侵攻だ。
しかし、南信濃や駿河の動向を逐一監視していたからこそ、ここまで兵の損耗を抑えて制圧できたはずなのだ。並大抵の備えではなかっただろうな。
半兵衛は美濃国主になってから少し性格が変わったように思える。以前は病弱な半兵衛をそのまま表すかのように弱気な態度が目立ったが、今は二国の国主としての自覚が生まれたからか、悠然と腰を据えて事に当たっているように見える。半兵衛が背後にいるだけでここまで安心感が違うとは思っても見なかった。今更ながら、あの半兵衛と背中を預けあっていると思うと胸が踊る。
そんな半兵衛が率いる8000の大軍に対して、馬場信春もさすがに援軍なしでは籠城は無理だと悟ったらしく、城兵の命と引き換えに潔く切腹して降伏開城したと言う。ここで馬場信春という重臣を失ったのは武田信玄にとって痛手も痛手だろう。竹中軍はほとんど無傷で筑摩郡を制圧して、領地は49万石に拡大したそうだ。
竹中家単独では強力な武田軍と正面から戦うのは敗北必至だが、義兄弟の信長が武田を引きつけてくれている隙を狙って、今の内に南信濃を西から確実に攻め取っていくべきだろうな。
信玄も駿河と信濃では南北で距離が離れているため両面作戦は不可能であり、山間部が大部分を占める筑摩郡を取られるよりも、膠着する織田との戦線を崩す方がリスクが高いと考えたのだろう。
それに何よりも駿河には海がある。その点からどちらを優先するかは考えるまでもなかったのである。筑摩郡と馬場信春を見捨てたのは信玄にとって苦渋の選択だったろうな。
ところで、松本の地名は、史実で1582年に長時の三男・貞慶が旧領を回復した際に「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述懐し、「待つ本懐」が「松本」と略されたのが由来だそうだ。だから、竹中が治めることになった深志は松本と呼ばれることはないだろうな。
それと、木曽谷は軍馬となる「木曽馬」の産地だ。半兵衛に長時を使者に送って、木曽馬を安く譲ってもらえるように頼むとしよう。長時もきっと里帰りができて喜ぶことだろう。
◇◇◇
大和国・信貴山城。
「なに、長頼が……?」
11月下旬、大和国で三好三人衆の暴走への対応に奔走していた松永久秀は、久秀が最も大きな信頼を寄せていた弟・松永長頼の訃報に接した。
(ふふ、長慶様と同じように弟を失うとはな……。正に因果応報とはこのことか。これまでやってきた己の所業を思い返せば、この程度の報いは当然のことであろう)
長頼は誠実で武勇にも長けた優秀な武将であり、謀略を駆使して悪名高い久秀とは真逆の性格といっても過言ではなかった。だからこそ、久秀は丹波国の統治を任せるなど、長頼に対して全幅の信頼を置いていたのである。
2年前、三好が畠山に連敗を喫したことは、長頼が治める丹波の国人衆に反乱の機運を高めさせ、さらには「永禄の変」で将軍を殺害したことが三好家の悪名を天下に轟かせてしまった。この事件が引き金となり、丹波の国人衆は三好家の支配からの脱却を求めて一斉に蜂起したのであった。
この反乱を鎮めるべく長頼は居城の八木城を出陣したが、「丹波の赤鬼」と名高い赤井直正の居城・黒井城攻めの際に討死したという。これによって丹波の松永軍は瓦解して丹波から撤退し、三好家は丹波の支配権を完全に失ってしまったのである。
謀略で様々な人間を貶めてきた久秀にとっても、肉親の死は精神的に耐え難いものがあった。それが寵愛する肉親となれば尚更だ。外見では努めて冷静さを保っていたものの、心中では愛する弟の死への痛切な悲哀の感情は消え去ることはなかった。
その証とも言うべきか、久秀の掌は自らの血で濡れていた。無念の感情に胸を侵された久秀は、爪が掌を傷つけても痛みを感じないほどに強く拳を握り締めていたのである。
だが、久秀は止まれない。止まることは許されないのだ。数多の屍を越えて畿内で亡き主君・三好長慶に匹敵するほどの大きな権力を得た久秀に、長慶のように精神を侵され、病によって歩みを止めることは許されないのであった。
「だが、今日くらいは御仏も悲嘆に暮れるのを許されるであろう」
久秀はそう言って、既に太陽が半分ほど生駒山地の稜線に沈みつつある暁の空を、涙に潤んだ瞳で見つめた。
神仏という不明確な存在など全く信じていない久秀であったが、仏を信じる者の気持ちは分かっていた。
それでも仏に救いを求めるかのような久秀らしからぬ呟きが漏れ出たのは、何かの許しを得なければ一筋の涙を頰に零すことすら許されないという心境に、無意識に慈悲を求めていたからこそなのだろう。
史実でも久秀は足利義昭を奉じて上洛した織田信長と交渉を行い、キリスト教徒のためにクリスマス休戦を設けたことで有名だ。神仏を信じずとも、その信仰心は理解ができたのである。そして弟を失くした久秀は、民衆たちがなぜ神仏に縋るのか、それを改めて強く実感したのであった。
「兄上、早く戦乱を収めて泰平な世にしたいものですな」
酒を飲み交わすと口癖のようにそう言う長頼の笑顔が久秀の瞼に浮かんだ。
久秀も人の子である。幼き頃より共に歩んできた最愛の弟の死を悲しまぬ訳がない。
幸いにも部屋の中には誰の姿もなく、啜り泣く久秀の姿を見た者はついぞいなかったのであった。




