表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六芒星が頂に~星天に掲げよ! 二つ剣ノ銀杏紋~  作者: 嶋森航
混迷の天下惑乱

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

203/443

三好家の内乱と六家会談

10月中旬、三好家中が2つに割れた。

1つは三好長逸、三好釣竿斎、岩成友通の三好三人衆を筆頭とする陣営。もう1つは松永久秀の陣営だ。


長慶が死去してから両者の間では何度も対立があったが、日々増長する松永久秀の勢力を警戒した三好三人衆は「永禄の変」を起こした後、ついにその対立を表面化させることとなった。


三好三人衆は自分たちが殺した足利義輝の後釜として、義輝の従弟で堺公方の足利義冬の血統を継ぐ足利義親を将軍に擁立すべく、次期将軍が征夷大将軍に就任する前に就く官位である「従五位下・左馬頭」を近衛前久に要請し、叙任させた。


そして、さらには興福寺の衆徒であり、かつては大和国を治める戦国大名だった筒井藤政を懐柔した。筒井藤政は幼い頃に松永久秀によって国を追われ、放浪生活を送っていた。三好三人衆は藤政を通じて離合集散を繰り返す大和の国人衆を味方に引き入れ、大和を支配する松永久秀に対抗すべく共闘する構えを見せたのである。


これに対して、戦力的に劣勢を悟った松永久秀は、敵の敵は味方とばかりに、捲土重来を果たして河内・和泉・紀伊三国を治める畠山高政と手を組んだことにより、畿内の諸勢力が大きく2つの陣営に分かれ、長期にわたる内乱が勃発したのであった。


そして、この状況を好機と見て最初に動いたのは、南近江の蒲生家だった。


近江三家と呼ばれる他の二家と比べて大きく遅れを取っていることに焦りを感じていたのか、内乱が起こるや否や、まるで内乱が起こるのが分かっていたかのように用意周到な行動を取り、10月下旬、三好が支配していた南近江の志賀郡に攻め込んだのである。


しかし、蒲生の侵攻に対して三好家は一切の沈黙を貫き、援軍の兵を送ることはしなかった。その最大の理由は無論、三好三人衆と松永久秀のどちらの陣営も戦力を徒に損耗したくなかったということであったのだが、それ以外に志賀郡における三好の評判が地に落ちていたからでもあった。


先代の三好長慶は比叡山を焼き討ちし、多くの門徒・僧兵を討ち殺した。それだけでなく、比叡山の門前町たる坂本にも火を放ち、まさに虐殺とも言える所業を躊躇いもなく行った。これには敬虔な仏教徒のみならず、志賀郡の多くの住民も怒り狂った。


坂本の抵抗が激しかったとは言え、領民の住む町に火を放つという残虐非道な仕打ちによって、こと志賀郡においては三好の名は修復不可能なまでに悪化していたのだ。


それ故に、その後の三好は志賀郡の統治もままならず、代官を置いたものの半ば放置という状況になっていた。三好にとって志賀郡は元々あってないような領地であり、今さら失ったところで痛くも痒くもない。


それが三好家中の本音であった。


そのため、志賀郡に攻め込んだ蒲生軍はほとんど抵抗を受けることもなく、あっという間の短期間で諸城を攻め落とした。


こうして、蒲生家は悲願だった志賀郡を呆気なく平定し、ようやく南近江を制圧して37万石の領地となったのであった。




◇◇◇




10月下旬、上杉輝虎からの手紙が届いた。来春雪解け後の3月下旬を目途に上洛する計画だと言う。


輝虎は義輝から偏諱を授かっているし、関東管領の後ろ盾は幕府だからな。将軍が殺されたとあっては、輝虎が激怒して三好を討つと考えるのも当然だなと思って読み進めると、どうやら違うようだ。


今回は三好と戦うつもりはないらしい。さすがに越後から大軍勢を率いて遠征しては、留守にする越後が心配なのだろう。まだ北越の揚北衆は完全には服従していないようだしな。


では、何のためかと言えば、俺に会うためだと言う。手紙には「越後周辺の情勢について相談いたしたく」とある。


なるほど、長政が加賀一向一揆を滅ぼした後は、西越中の一向衆を叩くだろう。そうなれば東越中の上杉と接することになる。

また、もうすぐ半兵衛も信濃の筑摩郡に攻め込むだろう。そうなればやはり北信濃の上杉と接することになる。


だが、どちらも寺倉家とは直接関係のない話なんだが、俺と相談したいということは、「近濃尾四家同盟」を実質的に主導しているのは信長ではなく、俺だと見抜いているのだろうな。さすがは「軍神」上杉謙信だ。


そういえば出家して「不識庵謙信」を名乗るのはいつであっただろうか。史実では確か1569年の「越相同盟」の後に北条家から養子を迎え入れて、自分の初名の「景虎」を与えた後だったはずだ。そうなると、この世界では上杉謙信とは名乗らないかもしれないな。


いずれにしても輝虎は今度の俺との会談を、今後の上杉家の命運を左右する重要な会談だと考えているようだ。そうでもなければ、170万石以上の大大名が自ら遠路遥々近江までやって来る訳がない。それは四家併せて350万石の国力を有する我ら「近濃尾四家同盟」と敵対すれば、上杉と言えども滅亡する危険があると理解しているからだろう。


さてそうなると、一体どうしたものか。

やはり俺が「近濃尾四家同盟」を代表して独断で上杉家と重要な政治判断について合意形成するのは不味いだろうな。少なくとも当事者である浅井と竹中は会談に参加させるべきだろう。


だが、それでは除け者にされた長兄の信長が間違いなくイジけそうだな。仕方ない。「岐阜会談」以来、いや蔵秀丸が誕生した後の正月以来の四家集合とするか。今度はここ統驎城が会場だから「統驎会談」だな。


待てよ。それなら、ついでに蒲生も呼ぶか。蒲生は志賀郡を奪って、今後は畿内に侵攻するから、事前に寺倉や浅井との境界線を決めておきたいところだ。蒲生に「日ノ本平定」という四家の大目標に加わる覚悟があるか確認するには、今度の上杉との会談は丁度いい機会だろう。うん、それがいい。


3日後の定期評定の日、俺は重臣たちに上杉家から会談の申し入れがあったことを説明し、この機会に四家と蒲生も集まって六家の当主会談を開催する案を告げた。


重臣たちは皆賛成し、全会一致であった。光秀は「日ノ本平定に近づく重大な会談となりますな」と呟いていたが、確かに言うなれば先進国首脳会議「サミット」みたいなもので、寺倉は議長国といったところだな。


家中の同意を得た俺は、すぐさま織田、竹中、浅井、蒲生の四家に使者を送った。

そして数日後には、四家に遣わした使者が戻って返書が届き、四家とも六家会談の開催と参加に同意した。日取りは3月下旬、場所は統驎城で四家と上杉、蒲生が一堂に会し、おそらく歴史に残るであろう「統驎会談」の開催が決定したのであった。




◇◇◇




俺は「統驎会談」の開催が決まると、手の空いた時間を使って"あるもの"をコツコツと作り始めた。それは「地球儀」である。


慶松平次郎には博多で入手を命じたが、おそらく無理だろう。なにせ地図は重要な軍事機密だ。たとえ遠く離れた極東の島国であっても本国の位置や勢力圏が分かるような地球儀を渡すはずがない。史実でイエズス会の宣教師が信長に献上したのは、もしかすると国防上の重大犯罪だった可能性が高いのだ。


という訳で、地球儀の球体と支える土台部分を木工職人に作らせると、曖昧な四角い世界地図の記憶を頼りにして、球体部分に丸い世界地図を何度も消しては描いていき、年末までにようやくそれらしい物が出来上がった。


正直、南極大陸やロシアやカナダの北極側なんて覚えていないし、現時点では必要ないので、雲で隠して誤魔化したが、オーストラリア大陸が載っているし、経度も明石が東経135度になるように描いたので、むしろ本物よりもこちらの方が正確かもしれないな。これは絶対に南蛮人に見せる訳にはいかない代物だし、一つ間違えば未来にはオーパーツ扱いされそうだな。


そんな危ない代物ではあるが、この地球儀を作った理由は、「統驎会談」の際に日本と世界の関係を視覚的に理解させて、早く日本を統一しないと外敵の脅威が迫っているという共通認識を持たせるためだ。


とは言っても、信長や半兵衛は"世界が丸い"と理解してくれるだろうが、長政は怪しいし、ましてや輝虎や蒲生宗智が理解できるかどうかは甚だ疑問だ。だが、それでも俺が伝えたい主旨だけは理解してもらえるよう、一所懸命説明しないといけないな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ