第弐拾參節『手順』 Der dreiundzwanzigste Abschnitt : “Reihenfolge”
天環暦2110年07月11日。
皇女の講義は、四日と十九日である。午前に二刻。エルメンガルトが定めた日程では、そう決まっていた。最初の日、るいは紙を一枚だけ持って参内した。ブリュンヒルトは、卓の向こうで待っていた。三年ぶりに講義を受ける皇女は、明らかに身構えていた。背筋が伸びすぎている。手が卓の上で組まれ、指に力が入っている。そして、机の上に紋帖が三冊、積んであった。初等の教本である。三年前に、るいが渡したものであった。
『……取ってあったのか』
「殿下」
「……何だ」
「その紋帖は、しまってくださいませ」
皇女の顔が、強張った。
「……余に、學ばせぬ心算か」
「いいえ」
るいは、持ってきた紙を卓に置いた。白紙である。
「本日は、紋を扱いませぬ」
*
「殿下。咒紋式とは、何にございましょう」
「……紋を組み合わせたものであろう」
「その通りにございます。では、組み合わせ方に、順序はございますか」
ブリュンヒルトは、答えなかった。答えられぬのである。
「ございます」
るいは、筆を執った。そして、白紙に丸を三つ描いた。
「例えば、之を三つの紋といたします。之を組んで一つの式にする際、どの順に繋ぐかで、成立するかどうかが変わります」
「……」
「順序を誤れば、どれほど正しい紋を並べても、式は成立いたしませぬ」
皇女は、丸を見ていた。
「……余は、それを知らぬ」
「はい」
「學院では、教えるのか」
「教えます。二年かけて」
るいは、丸の間に線を引いた。
「初等課程の一年目と二年目は、殆ど順序の練習にございます。紋を覚えるのは、その後にございます」
「……」
「殿下は、順序を習わぬまま、紋帖をお渡しされました」
るいは、筆を置いた。
「私が、渡しました」
*
ブリュンヒルトは、しばらく黙っていた。それから、卓の上の紋帖を、指で押しやった。
「……では、之は要らぬのだな」
「今は、要りませぬ」
「それは、」
皇女の声が、少し震えた。
「それは、余が悪かったのではない、と申すか」
「はい」
「先日も、其う申した」
「はい」
「……くどい」
皇女は、顔を背けた。だが、紋帖は片付けた。自分の手で、卓の端に寄せた。そして、白紙の方に向き直った。
「……で、順序とは何だ」
*
順序の講義は、四回で終わった。基となる紋を定める。補助の紋を添える…収束の紋で閉じる…この三段である。三段のそれぞれに、置いてよい紋と置いてはならぬ紋がある。學院では、これを二年かけて体に叩き込む。六歳から八歳まで、毎日である。だが、それは六歳の子供に教える場合の年月であった。十七の皇女には、理屈で説明できる。
「……では、収束の紋を先に置くと、どうなる」
「式が閉じてしまいます。閉じた式には、後から何も足せませぬ」
「では、収束の紋を二つ置いたら」
「二つ目は、働きませぬ。既に閉じておりますので」
「……無駄になるのか」
「いえ」
るいは、少し考えた。
「無駄にはなりませぬが、咒力を食います。……閉じた戸に、もう一度鍵を掛けるようなものにございます。手間は掛かり、何も変わりませぬ」
皇女は、少し笑った。
「……宮中に、そのような者が幾らでも居るぞ」
るいは、思わず吹き出した。ブリュンヒルトが、驚いた顔をした。
「……何を笑う」
「失礼致しました。……ですが、言い得て妙にございます」
皇女は、暫くるいを見ていた。それから、少し得意そうに顎を上げた。
*
五回目から、実際に紋を組ませた。最も単純な式である。熾の三番一つを、基となる紋として置き、収束の紋で閉じる。ただ火を点すだけの、子供が最初に習う式であった。ブリュンヒルトは、三度失敗した。四度目に、皇女の掌の上に、小さな灯が点った。それきり、皇女は動かなかった。灯を見つめたまま、口を半分開けて、瞬きもせずに。やがて、灯が消えた。咒力の供給が止まったのである。
「……」
「殿下」
「……もう一度」
二度目は、一度で点いた。三度目も。四度目に、皇女は灯を維持したまま、るいを見た。目が、赤かった。
「……シュタインエック」
「はい」
「余は、」
声が、掠れていた。
「……余は、咒紋が使えるのか」
「はい」
「……三日かけて解けなんだ、あの課題は」
「之を、五つ組み合わせるものにございます」
るいは、正直に答えた。
「順序を知らねば、絶対に解けませぬ」
*
その日から、皇女は変わった。まず、痩せ始めた。美食に対する興味が、明らかに落ちたのである。るいが来ぬ日も、皇女は一人で紋を組んでいるらしい。女官長が、それを心配してるいに相談してきた。
「……殿下が、お食事を残されます」
「それは、いけませぬな」
「はい。近頃は、日に二刻も三刻も紋をお組みになっておられまして……」
るいは、少し考えた。
「女官長殿」
「はい」
「咒力を使いますと、腹が減ります」
「……は」
「体の力を使うのと同じにございます。三刻も組めば、走り回ったのと変わりませぬ。……お食事を残されるのは、恐らく、疲れすぎておられるからにございます」
「……」
「量を減らして、回数を増やしてくださいませ。且つ、甘いものを少し」
女官長は、驚いた顔をした。
「甘いもの、でございますか」
「はい。咒力を使った後は、甘いものが効きます」
これは、塁の知識であった。脳が糖を食う。それだけの話である。だがこの世界では、咒紋司が疲れた時に何を食うべきかを、誰も体系立てて考えていなかった。
*
二つ目の変化は、侍女であった。三年前、皇女の周りには侍女が五人居た。取り巻きである。皇女に何を言われても「その通りでございます」と唱和する者たちであった。講義が再開して二月ほど経った頃、彼女らが戻ってきた。皇女が紋を使えると聞きつけたのである。その日、るいが参内すると、皇女の私室には五人が居た。そして皇女は、五人の前で紋を組み、灯を点した。侍女たちは歓声を上げ、口々に讃えた。素晴らしゅうございます、流石は殿下、才がおありでいらっしゃる、と。ブリュンヒルトは、それを暫く聞いていた。それから、灯を消した。
「……下がれ」
部屋が、静まった。
「……殿下」
「下がれと申した」
皇女の声は、低かった。
「余は、之を四度失敗した。四度目に点いた。……お前たちは、それを見ておらぬ」
「……」
「見ておらぬ者に、讃えられる筋合いはない」
五人は、蒼白になって退出した。扉が閉まってから、るいは口を開いた。
「……殿下」
「何だ」
「些か、厳しゅうございました」
「厳しいか」
「はい」
皇女は、卓の上の白紙を見ていた。
「……余は、三年前、お前に厳しくされた」
「……はい」
「あの時、余は思うた。正しいことを言われるのが、之ほど腹立たしいものか、と」
皇女は、顔を上げた。
「今のは、それと同じか」
るいは、答えに詰まった。同じである。正しいことを、逃げ道を残さずに、複数の前で言った。
『……この娘は』
「……はい。同じにございます」
「其うか」
ブリュンヒルトは、少し眉を寄せた。
「……では、謝らねばならぬのか」
「殿下が、其うお思いになるのであれば」
「思わぬ」
皇女は、はっきりと言った。
「あれらは、余が紋を使えぬ間、一度も来なんだ。……余が使えると聞いて、戻ってきた。それは、余を讃えに来たのではない。余の傍に居たいだけだ」
「……」
「余は、それが判るようになった」
皇女は、卓の上で指を組んだ。
「……三年前は、判らなんだ」
*
三つ目の変化が、るいには最も意外であった。皇女が、宮中の話をするようになったのである。講義の合間である。るいが紋の説明をしている最中に、皇女が唐突に言い出す。
「シュタインエック」
「はい」
「咒紋府の第一座は、その方の上役であろう」
「はい」
「あれは、難しい男か」
るいは、筆を止めた。
「……と、申されますと」
「先月、父上が第一座を召された」
皇女は、何気ない口調で言った。
「二刻ほど話しておられた。何を話したかは知らぬ。だが、第一座が退出した後、父上は不機嫌であった。……三日、政務を執られなんだ」
るいは、暫く黙っていた。
『……皇帝が、第一座と話して、不機嫌になった』
皇帝は、咒紋を使えぬ。現皇統は古代咒術帝圀から直系で続いているが、皇族専用の〈皇帝石〉は帝圀末期の退避と大陸との最終切断に限界まで用いられ、その後〈沈黙〉した。以来、継承装具として機能しておらず、ゆえに宮廷咒紋司十三座を置いて代行させている。それは、ルイーゼの記憶にもある事実であった。宮廷に居る者は、皆知っている。知っているが、誰も口にせぬ。だが。咒紋府は、皇帝に残された唯一の実権である。諸侯がどれほど強大でも、領内の咒紋司は皇帝の台帳に載っている。免許を剥奪されれば式を組めなくなる。その咒紋府の長と、皇帝が二刻話し、そして皇帝が不機嫌になった。
『……何を話した』
「……殿下」
「何だ」
「そのようなことを、私にお話しになって宜しいのですか」
ブリュンヒルトは、少し首を傾げた。
「なぜ」
「宮中のことにございます」
「余は、皇女ぞ」
皇女は、当然のように言った。
「余が話してよいと思うたことは、話してよい」
*
その日から、るいは皇女の話を注意深く聞くようになった。皇女は、宮中の情報を持っていた。しかも、恐らく本人が思っている以上に持っていた。皇族である。誰も皇女の前で警戒せぬ。侍女は喋り、女官は喋り、大臣は皇帝の機嫌を伺いに来る。皇女は美食と観劇に耽っている娘だと思われている。ゆえに、誰も口を閉じぬ。そして皇女は、それを全部覚えていた。誰が誰を訪ねたか…誰が幾ら借りたか。誰が誰の悪口を言ったか。二年間、彼女は宮中で退屈しながら、それを聞き続けていたのである。るいは、ある日、思い切って訊いてみた。
「殿下。咒紋府の第十二座が、先頃、免ぜられました」
「知っておる」
「……ご存知でしたか」
「後任が決まっておらぬのであろう。父上が渋っておられる」
るいは、筆を置いた。
「……皇帝陛下が」
「うむ」
皇女は、紋を組みながら答えた。
「第十二座は教会連絡ぞ。あそこに誰を置くかで、三環主との折衝が変わる。……父上は、環主どもを好かぬ」
灯が点り、皇女は満足そうにそれを見た。
「文書に署名を貰わねばならぬからな。父上が何か決めるたび、貴き都まで使いを出す。往復で二十日じゃ。……余が父上でも、腹が立つ」
るいは、皇女を見ていた。
『……この娘』
誰も教えていない。誰も皇女に政を教えていない。第十三座が付けられたのは咒紋の家庭教師としてであり、政のためではない。だがこの娘は、二年間、宮中に座って、勝手に覚えていた。
*
半年目の最後の講義は、冬であった。約束の期間である。その日、ブリュンヒルトは初等課程の最終課題を組んだ。三年前、三日かけて解けなかった、あの課題である。紋を五つ。基となる紋、補助を三つ、収束を一つ。皇女は、四半刻で組み上げた。組み上げて、暫く動かなかった。
「……できた」
「はい」
「……四半刻で」
「はい」
皇女は、組み上がった式を咒眼で視ていた。それから、静かに崩した。
「シュタインエック」
「はい」
「半年であった」
「はい」
「約束の期間ぞ」
「……はい」
るいは、頭を下げた。
「之にて、講義は終わりにございます」
部屋が、静かになった。ブリュンヒルトは、卓の上を見ていた。やがて、口を開いた。
「……余は、その方に礼を言わねばならぬのか」
「それは、殿下がお決めくださいませ」
「うむ」
皇女は、少し考えた。
「……言わぬ」
「承知致しました」
「その代わり、」
ブリュンヒルトは、顔を上げた。
「続けよ」
*
「……殿下」
「初等が終わったのであろう。次があるはずぞ」
「中等課程にございます。ですが、」
「それを教えよ」
「……殿下」
るいは、慎重に言葉を選んだ。
「私は、他に用がございます。……治療を引き受けており、且つ、咒紋府の職務がございます」
「知っておる」
「ご存知で」
「その方、六日に一度しか休まぬそうではないか」
るいは、暫く黙った。
「……何処でお聞きに」
「宮中の話は、宮中に集まる」
皇女は、当然のように言った。
「その方は、休みの日にも咒紋府に行くと聞いた。……あれは、休みではあるまい」
「……」
「余が言うのも何だが、その方、倒れるぞ」
るいは、返す言葉が無かった。エルメンガルトと、同じことを言っている。そして、皇女は続けた。
「ゆえに、講義は月に一度でよい」
「……月に一度」
「うむ。余は、その間に自分で進む。判らぬ所を溜めておく。その方は、月に一度来て、溜まった分だけ答えよ」
るいは、目を瞬いた。
『……それは』
それは、研究室のやり方である。教授が学生に付きっきりで教えるのではない。学生が自分で進み、詰まった所を溜めておいて、週に一度の面談で訊く。塁が十七年やってきた形であった。
「……殿下」
「何だ」
「それは、どなたのお考えにございますか」
ブリュンヒルトは、少し不思議そうな顔をした。
「余のじゃ」
「……」
「その方が来ぬ日、余は一人で紋を組んでおる。組んでおると、判らぬ所が出る。それを紙に書いておく。……次にその方が来た時に訊く。其うしておった」
皇女は、卓の抽斗を開けた。紙が、束になっていた。るいは、それを手に取った。質問が、書き連ねてある。日付と共に、順に。そして、そのうちの半分ほどに、自分で答えが書き込まれていた。後から判ったのである。訊かずに済んだのである。
『……』
るいは、束を卓に戻した。
「……殿下」
「何だ」
「月に一度、参内致します」
*
帰り道、るいは皇宮の中庭を横切った。冬の日が、石畳に淡く落ちている。半年で、あの皇女は初等課程を終えた。學院の児童が二年かけるものを、である。そして、自分で學ぶ形を、自分で見つけた。るいは、それを教えていない。
『……あの娘は、伸びるな』
思いながら、るいは歩いた。そして、歩きながら、少し落ち着かぬ気分になった。なぜかは、すぐに判った。るいは、皇女を駒として見ていたのである。半年前、講義の再開を承知した時、頭にあったのは三つであった。約束を守ること。三年前の失敗を償うこと。そして、皇女は皇帝家に直接繋がる線であること。三つ目を、るいは否定できぬ。実際、皇女の話す宮中の情報は、極めて有用であった。第一座と皇帝が二刻話したこと。第十二座の後任が決まらぬこと。皇帝が三環主を好かぬこと。
全部、るいには手に入らぬ情報である。そして皇女は、それを何の警戒も無く話す。
『……』
るいは、中庭の噴水の前で足を止めた。あの娘は、るいを何だと思っているのか。家庭教師である。三年前に自分を辱めた者であり、三年後に床に膝を突いて謝った者である。そして、月に一度来て、溜まった質問に答える者。
『……いや』
るいは、水面を見た。あの娘は、るいが休みの日にも咒紋府に行くことを知っていた。誰かに訊いたのである。訊かねば、判らぬことである。
『……』
るいは、しばらく噴水を見ていた。そして、その考えを、押しやった。考えることは、他に幾らでもある。




