第弐拾弐節『休息』 Der zweiundzwanzigste Abschnitt : “Atem”
天環暦2110年07月04日。
月に二度、るいはダニエラの屋敷に通う。三日と、十八日。エルメンガルトが定めた日である。午前に処置、午後は禁書庫。翌日は診立てのために、また通う。処置は、地味であった。劇的なことは、何も起こらぬ。るいはクラーラの寝台の脇に椅子を置き、咒眼で内部を視ながら、牽の紋で骨を動かす。一度に動かすのは、髪一筋ほどである。それ以上動かせば、周囲の組織が付いてこられぬ。靱帯が裂け、血管が切れ、神経が引き伸ばされる。
ゆえに、髪一筋。二刻かけて、脊柱の全体を、髪一筋分だけ捻り戻す。そして、動かした位置に留めるための処置を施す。骨の周りの組織を、新しい位置に合わせて作り替えてゆく。其れをやらねば、翌日には元に戻る。二刻…月に二度…一年で、二十四回。二十四回の髪一筋が、脊柱の弯曲を、漸く目に見える程度に改める。
*
痛みは、完全には遮断できなかった。自分の時は、『電気パルス』の咒紋式で痛覚の中枢に直接干渉した。意識を明瞭に保ちながら、痛みだけを切った。他人には、できぬ。自分の脳であれば、何処に何があるかが判る。自分の感覚として、干渉の結果が即座に返ってくる。手応えがある。他人の脳には、手応えが無い。深く干渉すれば、意識に触れる。触れれば、何が起こるか判らぬ。記憶が損なわれるかもしれぬ。人格が変わるかもしれぬ。其れは、るいが最も知っている事態であった。ゆえに、浅くしか干渉しない。
痛みは、半分ほどしか消えぬ。
「……クラーラ樣」
「はい」
「痛みますか」
「……少し」
娘は、いつもそう答えた。少し、と。だが、るいには咒眼がある。処置の間、クラーラの筋がどう緊張しているかが視える。少し、ではなかった。
*
三度目の処置の後、るいは椅子を寝台の脇に寄せた。
「クラーラ樣」
「はい」
「嘘は、おやめください」
娘は、少し目を見開いた。
「……嘘、でございますか」
「痛みの度合いにございます。私には、視えております」
クラーラは、暫く天井を見ていた。それから、少し笑った。
「……お姉樣に、聞こえますので」
るいは、扉の方を見た。処置の間、ダニエラは部屋に入らぬ。るいが集中を要するからである。だが、扉の外に居る…二刻、ずっと居る。
「……お姉樣は、私が痛いと申しますと、其の晩に眠れませぬ」
「……」
「私は、痛いだけにございます。お姉樣は、其れをどうにもできませぬ。……どちらが辛いかと申せば、私は、自分の方が楽だと存じます」
るいは、返す言葉が無かった。十四である。この娘は十四で、寝台から出られず、二年しか無いと言われている。そして、姉の眠りの心配をしている。
「……クラーラ樣」
「はい」
「私には、仰ってください」
「……」
「私は、其れを聞いて眠れなくなる者ではございませぬ。且つ、痛みの度合いが判らねば、処置の加減ができませぬ」
るいは、下物の紙を出した。
「其れから、之をお使いください」
紙には、線が一本引いてある。左端に零、右端に十。等間隔に目盛りが刻まれている。
「痛みの強さを、数でお答えください。零が痛みなし、十が耐えられぬ痛み」
クラーラは、紙を見た。そして、暫く見ていた。
「……之は」
「痛みの物差しにございます」
*
娘は、紙を手に取った。そして、指で目盛りをなぞった。
「……数で」
「はい」
「痛い、を、数で」
「はい」
クラーラは、顔を上げた。目が、妙に明るかった。
「……できるのですか。其のようなことが」
「できます」
「痛いは、言葉でございましょ」
るいは、少し笑った。
「言葉では、比べられませぬ」
「……」
「先月の痛みと今月の痛み、どちらが強かったか。……『少し痛い』と『少し痛い』では、判りませぬ。ですが、『四』と『六』であれば、判ります」
「では、同じ四でも、刺すようなものと、締め付けるようなものでは」
るいは、一度止まった。
「……種類を、別に記した方が宜しゅうございますな」
「数字だけでは、足りませぬのですね」
「左樣です。数字は、言葉を捨てるためのものではございませぬ」
「分かりました」
娘は、紙を胸に抱えた。そして、暫く動かなかった。
「……シュタインエック樣」
「はい」
「私は、十四にございます」
「はい」
「四つの頃から、醫者に『痛いか』と訊かれてまいりました。十年にございます」
クラーラは、紙を見た。
「十年、『少し』としか答えられませんでした」
*
その日から、クラーラは数で答えるようになった。しかも、極めて正確に。処置の最中、るいが「今は」と訊けば、「三」「五」「七」と即座に返る。るいが咒眼で視た筋の緊張と、殆ど一致した。そして、三度目には、娘の方から言い始めた。
「シュタインエック樣」
「はい」
「先ほどの箇所、二でした」
「……二」
「はい。先月の同じ箇所は、五にございました」
るいは、手を止めた。
「……覚えておられるのですか」
「書いております」
娘は、寝台の脇の卓を指した。紙が、積んである。るいが渡した目盛りの紙が、月ごとに。そこには、日付と、箇所と、数が書き込まれていた。しかも、るいの教えていない書き方であった。箇所ごとに縦に並べ、月ごとに横に並べてある。表になっている。
「……クラーラ樣」
「はい」
「之は、どなたが」
「私にございます」
娘は、少し得意そうな顔をした。
「……数を並べておりますと、どうにも見にくうございましたので。……箇所ごとに分けて、月ごとに並べましたら、見易うなりました」
るいは、其の紙を手に取った。そして、暫く見ていた。
『……この娘』
誰にも教わらず、表を作った。この帝國の書物には、表がある。だが、痛みを表にする者は居らぬ。痛みは数ではないからである。この娘は、るいが数にしたものを、自分で並べ替えた。
「……クラーラ樣」
「はい」
「之を、図にできます」
*
教えるのに、半刻もかからなかった。横軸に月、縦軸に痛みの数。点を打ち、線で繋ぐ。クラーラは、其の場で自分の記録を図にした。そして、二人で、其れを見た。線が、下がっていた。箇所によって速さは違うが、いずれも右下がりである。脊柱の下の方が特に速く、上の方は緩やかであった。
「……下がっております」
「はい」
「之は、」
娘は、線を指でなぞった。
「之は、良くなっているということでございますか」
るいは、慎重に答えた。
「痛みが減っておるということにございます。……骨の位置が、在るべき所に近づいておりますので、周囲の組織の張りが取れております」
「では、」
「はい」
「良くなっておりますね」
クラーラは、図を胸に抱えた。そして、其のまま、暫く動かなかった。
「……クラーラ樣」
「……申し訳ございません」
娘の声が、震えていた。
「……十年、良くなったと言われたことが、一度もございませんでした」
*
処置を終えて部屋を出ると、ダニエラが廊下に立っていた。二刻、ずっと立っていたのである。
「……いかがでございましたか」
「順調にございます」
「其れは、」
女は、少し言い淀んだ。
「其れは、家族を安心させるための『順調』でございますか。其れとも、数字の上での」
「図が下がっております」
るいは、そう答えた。ダニエラは、意味が判らぬ顔をした。
「妹君に、お訊きください」
「……は」
「妹君が、図をお作りになりました。私が教えたのは書き方だけにございます。|記録は、妹君が三か月、《・・・・・・・・・・・》お一人で取られました」
女は、扉を見た。そして、其のまま、暫く動かなかった。
*
一年目の後半に入って、処置は次の段階に移った。骨を動かすだけでは、足りぬのである。脊柱を捻り戻すと、其れに引かれて肋骨の位置が変わる。肋骨が動けば、胸郭の形が変わる。胸郭が変われば、内側の臓器が動く。そして、臓器は、押された形のまま育っている。右の肺は、十四年、狭い場所に押し込められてきた。今更空間ができても、其の形のままである。膨らむべき方向に、膨らむ癖が無い。心臓は、ずれた位置で血を送る形に、周囲の血管ごと出来上がっている。位置を戻せば、血管が引っ張られる。
『……これは、骨より厄介だな』
骨は硬い。硬いものは、動かせば動く。柔らかいものは、動かしても戻る。そして、育ってしまったものは、作り直さねばならぬ。
*
自分の時は、其れをやらずに済んだ。十五年、歪んだ骨格で育ってはいたが、臓器が押し潰されるほどではなかった。骨を直せば、内臓は自力で収まった。クラーラは、違う。肺そのものを、膨らむ形に作り替えねばならぬ。
『……組織を、作るのか』
るいは、自室の卓で、幾晩も考えた。骨は、削って移せた。自分の体の中に、余っている骨があったからである。歯を抜き、顎骨を削り、其れを足りぬ場所に潜行で送った。自家移植である…肺は、余っていない。クラーラの右肺を膨らませるには、足りない分の肺を、何処かから持ってこねばならぬ。他人の肺を移せば、其れは他人の肺である。るいには、他人の体がなぜ拒むのかまでは判らぬが、拒むことは知っていた。塁の世界の医学が、そう教えていた。ならば、本人のものでなければならぬ。本人のもので、本人の体内に無いもの。
『……』
るいは、筆を止めた…窓の外は、暗い。塁の記憶の底から、何かが浮かび上がってきていた。二十年近く前、大学の一般教養で聞いた講義である。専門ではない。生物学の入門で、教授が余談として話したことであった。体の中には、何にでもなれる細胞がある。正確には、何にでもなれた細胞、である。
人の体は、一つの細胞から始まる。其の一つが分かれ、分かれ、分かれてゆくうちに、何になるかが決まってゆく。骨になるもの、肺になるもの、神経になるもの。決まってしまえば、後戻りはせぬ。だが。決まる前の段階のものが、ごく初期には存在する。
『……それを、取り出せるのか』
塁の世界では、其れができた。彼が学生の頃には既に、それは技術として確立していた。どうやって取り出したかは、覚えていない。専門ではないゆえ。だが、何処にあるかは、覚えている。
*
三日後、るいは自分の体を『透視』した。自室である。人払いをし、封印結界を張った。咒眼を絞り、下腹部を視る。十六歳の女の体である。其処に、卵巣がある。中に、無数の小さな袋が詰まっていた。塁の記憶が、其れが何であるかを教えた。卵胞である。人の女は、生まれた時に持っている数が決まっており、以後、増えることは無い。増えぬ…使えば減る。
『……数は、どれほどだったか』
思い出せなかった。数十万、という数字が浮かんだが、確証は無い。いずれにせよ、有限である。るいは、暫く其れを視ていた。そして、考えた。卵は、何にでもなるものの元である。人一人が、其こから始まる。ならば、卵から始まった極めて初期のものは、まだ何にもなっていない。骨にも、肺にも、神経にもなっていない。其れを取り出して、肺になれと命じられるか。命じられるとすれば、何が命じるのか。
塁の世界では、周囲の環境が命じた。適切な条件下に置けば、細胞は自分で分化した。人が命じるのではない。場が命じる。そして、此の世界には。咒紋がある。
『……』
るいは、掌を見た。咒紋式は、周囲の空間を一時的に演算場に変える技である。条件を与え、結果を物理として現す。ならば、細胞に条件を与えることも、できるのではないか。
『……できるかもしれん』
そして、其の瞬間、るいは自分が笑っていることに気付いた。久しぶりの感覚であった。塁が実験室で、新しい手順を思いついた時の顔である。誰も居ない実験室で、一人で笑っていた、あの顔。
*
着想から実行までに、五か月かかった。その五か月、るいは毎晩、自室に籠った。まず、自分の卵を一つ、潜行で取り出した。次に、其れを隣接亜空間に保持したまま、条件を与える咒紋式を組んだ。最初の三十回は、何も起こらなかった。次の二十回は、卵が壊れた。五十一回目に、分かれた。一つが二つに、二つが四つに。るいは、其れを咒眼で視ながら、暫く息を止めていた。そして、其の先を、止めた。止めねばならなかった。このまま分かれ続ければ、其れは人になる。人になったものを、材料として使うことは、るいには出来ぬ。
『……この段階で、止める』
分かれ始めたごく初期。まだ何にもなっていない段階。其こで止めて、取り出す。取り出したものが、何にでもなれる細胞である。試みに、其れに条件を与えてみた。骨になれ、と。三日後、隣接亜空間の中で、ごく小さな骨組織が出来ていた。だが、その骨は使わない。るいの細胞だからである。クラーラの体に入れれば、他人の組織になる。ここまで自分で書いてきた理屈を、自分で破ることになる。
『……成功したのは、材料ではない。手順だ』
るいは、そう書いた。次の処置の前に、クラーラとダニエラに説明した。何にでもなれる細胞を作ること。そのために、クラーラ自身の卵を一つ使うこと。作るのは人ではなく、必要な組織だけであること。クラーラは暫く考えた後、頷いた。るいは、クラーラ自身の卵を一つ、潜行で取り出した。今度は試行錯誤をしない。自分の体で五十一回かけて作った手順を、そのまま移す。分かれ始めたところで止める。まだ何にもなっていない細胞だけを取り出す。増やす。必要な時に、必要な組織に分ける。クラーラの体に戻すものは、クラーラ自身のものだけ。それで、ようやく使える。
*
その夜、るいは自室の卓に向かい、記録を付けた。誰にも見せぬ記録である。届け出は、しなかった。いや。正確には、半分だけ届け出た。クラーラの治療に必要な部分。すなわち「組織を移植し、新しい位置で定着させる咒紋式」については、書式に従って咒紋府に届け出た。受理された。だが、其の組織を何処から得るかについては、書かなかった。書式には、材料の出所を記す欄が無い。無いのだから、書かなくても不備ではない。
『……』
るいは、筆を置いた。欄が無いから書かぬ、というのは、届け出ていないのと同じである。そしてるいは、其れを判っていた。一年半前、八十九件を届け出た時、彼女は決めたはずであった。囲えば秘術、広めれば技術。広まった方が、後で使いやすい。全部渡した。惜しいとは思わなかった。今度は、渡していない。理由を、るいは自分に問うた。答えは、幾つか浮かんだ。まだ確立していない。危険が判っていない。前例が無い。届け出れば、審査で潰される。どれも、事実である。だが、其れは八十九件の時も同じであった。
『……』
るいは、蝋燭を見た…そして、認めた。
『……手放したくないのだ』
理由は、其れだけであった。十七年、彼は論文を書いてきた。全部公開してきた。囲ったことは一度も無い。その男が、初めて、囲っている。なぜかは、判らぬ…いや。判っているが、言葉にしたくない。るいは、ふと、ヘッドギアを冠って椅子に座っていた日のことを思い出した。起動一覧の中程に、二行あった。安全機構、バイパス済。倫理審査、未申請。あの二行を視界の外に追いやるために、彼は表示設定を三度書き換えた。通らぬと判っているものは、出さぬ。十七年、同じことをやってきた。
*
翌月の処置の後、クラーラが訊いた。るいが新しい処置を、初めて施した日である。組織を作って移植する処置であった。
「シュタインエック樣」
「はい」
「先ほどのは、新しい術にございますか」
「……はい」
「痛みが、之まで無かった種類にございました。……熱いような、痒いような」
娘は、目盛りの紙を手に取った。
「数では、三にございます。ですが、三と書くと、之までの三と混ざります」
るいは、思わず笑った。
「……仰る通りにございます。別の欄を立ててください」
「はい」
クラーラは、紙に新しい列を作った。そして、書き込みながら、訊いた。
「……シュタインエック樣」
「はい」
「之は、私を治すためのものにございますか」
るいの手が、止まった。娘は、紙を見たまま言っていた。顔は上げていない。なぜ其れを訊いたのか、るいには判らなかった。ただ…この娘は、賢い。十年、寝台の上で本を読み続けてきた十四歳である。痛みを数にし、数を表にし、教わらぬうちに図を作った娘である。そして、るいが新しい術を思いついた夜の顔を、この娘は幾度も見ている。処置の合間に、るいは自分の思いつきを話してきた。話す相手が、他に居らぬからである。ヒルデガルトには紋の話しかできぬ。エルメンガルトには判らぬ。クラーラだけが、るいの話を面白がった。
「……そうです」
るいは、答えた。
「貴女樣を治すためのものにございます」
嘘では、無かった。この術は、クラーラの肺を作るために組んだものである。他の目的で組んだのではない。嘘ではない…まだ。クラーラは、顔を上げた。そして、微笑んだ。
「……有難うございます」




