第拾參節『帰還』Der dreizehnte Abschnitt : “Rückkehr”
天環暦2109年12月01日。
都に戻ったのは、初冬であった。六月の巡察である。出立の朝には青かった街道の並木が、帰りには裸になっていた。荷馬車の車輪は二度替え、馬は一頭潰した。エルメンガルトは日に焼け、コンラートは三度腹を壊し、るいは痩せた。荷は、増えていた。行きは測定器具と中物の紙五百枚であった。帰りは、記録の綴りが二十七冊。中物の紙は、一枚も残っていない。オストハウプトの城門を潜った時、るいは馬車の窓から都を見た。咒眼に、咒氣の層が視える。厚い。東部で二枚か三枚しかなかった層が、都では数え切れぬほど重なっている。掌を開けば灯が点く。潜行も組める…氷も作れる。
『……戻ってきたな』
半年ぶりに、るいは自分の武器を取り戻した。だが、其れを喜ぶ気持ちは、思ったほど湧かなかった。半年、無力であった。無力であったからこそ、視えたものがある。
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屋敷の門で、アンネゲルトとユリアーネが待っていた。二人とも、るいの顔を見た途端に泣いた。それからエルメンガルトを見て、また泣いた。エルメンガルトは「みっともない」と言いながら、眼鏡の位置を七回直した。その晩は、ユリアーネが半年分の料理を出した。るいは三口で腹が一杯になり、ユリアーネに叱られた。翌朝から、るいは自室に籠った。報告書を書くためである。
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巡察報告書の書式は、決まっている。州ごとに一枚。所在、所長、書記の数、台帳の狀態、咒源の測定値、特記事項。十七州で、十七枚。これが、これまでの巡察報告書であった。咒紋府の書庫に、過去二百年分がある。るいは出立前に全て読んだ。どれも十枚から二十枚ほどで、内容は似通っている。台帳の不備を指摘し、所長の不在を報告し、そして「咒源に異常なし」と結ぶ。異常あり、と書かれた報告書は、二百年で三通しかなかった。いずれも咒源が完全に消えた事例である。
『……当たり前だな』
異常があるかどうかは、比べねば判らぬ。過去の値と比べるし、他の州と比べるし、季節で比べる。──そのいずれもやらねば、目の前の数字が高いのか低いのかすら判らぬ。これまでの巡察は、行って、測って、書いて、帰ってきた。比べていない。比べる材料が無かったからである。今、るいの手元には、材料がある。
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まず、表を作った…横に十七州、縦に年。過去の測定記録から拾えるだけ拾い、格子の中に値を書き込む。空欄だらけであった。十年に一度しか測っていない州が大半である。四十年前と二十年前の二つしか値が無い州もある。フェルゼンハント州に至っては、四十年前、二十年前、そして今回の零、の三つしかない。埋まっているのは、ベルクフォルム州だけである。四十一年分、毎年四回。百六十四の値が、隙間なく並んでいる。るいは、その一列を、暫く眺めていた。
『……この一列が、物差しになる』
他の州は、点でしか値が無い。点だけでは線が引けぬ。だが、ベルクフォルム州には線がある。四十一年分の連続した線がある。その線の形が判れば、他の州の点を、その形に当てはめて推測できる。るいは、ベルクフォルム州の百六十四の値を、方眼の紙に打点し始めた。横軸に年…縦軸に測定値…半日かかった。打ち終えて、るいは紙を持ち上げ、目を細めた。波が、視えた。
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毎年、上下している。夏に上がり、冬に下がる。振れ幅は、およそ二割。その波が、四十一年分、ずっと続いている。そして──波全体が、ゆっくりと下がっている。四十一年で、およそ二割五分。
『……季節の波の上に、長期の下降が乗っている』
これが、この州の咒源の姿であった。毎年上下しながら、少しずつ痩せてゆく。るいは、この形を「基準の形」と決めた。そして、他の十六州の点を、同じ紙に重ねていった。半分は、この形に乗った。乗らぬものが、五州あった。
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その五州は、二種類に分かれた。一つは、フェルゼンハント州である。二十年前まで基準の形に乗っており、そして今、零。途中で、垂直に落ちている。もう一つが、るいを戸惑わせた。残る四州は──下がり方が速い。基準の形は四十一年で二割五分の下降である。この四州は、判っている限りの年数から計算すると、四割から五割の下降になる。しかも、四州とも、フェルゼンハント州の周りにあった。るいは、東部十七州の地図を広げた。そして、五州に印を付けた。中央に、消えた咒源。その周囲を囲むように、下降の速い四州。
『……』
るいは、筆を置いた。部屋が、静かであった。窓の外はもう暗く、蝋燭が一本、机の上で燃えている。
『……近い方が、速い』
距離と、下降の速さに、関係がある。これは、偶然ではない。咒源が一つ死ぬと、その周囲の咒源も痩せる。近いほど強く、遠いほど弱く。るいは、地図を見つめた。
『……繋がっているのか』
咒源は、独立した泉ではない。互いに繋がっている。一つが死ねば、他が引きずられる。通説は、こう説く。咒源は自然に湧く泉であり、涸れることもある。泉が涸れるのと同じ、自然の摂理である。泉は、隣の泉が涸れたからといって、痩せぬ。
『……これは、泉ではない』
るいは、椅子の背に体を預けた。天井を見上げた。そして、常磐塁の頭の中で、ある形が浮かび上がった。繋がっていて、一つが落ちると周りが引きずられ、近いほど影響が強く、そして──全体として、使われると厚くなり、使われぬと痩せる。
『……網だ』
其れは、泉の集まりではない。網である。どこかで、誰かが張った網である。
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報告書は、百八十七枚になった。書式通りの十七枚から始まる。所在、所長、書記の数、台帳の狀態、測定値、特記事項。此処までは前例通りである。問題は、その後であった。十八枚目から、るいは「附」と題した部を付けた。附一、測定手法について。
ヨストの器具を用いた測定の説明。目盛りの癖と、その補正の方法。
同じ器具で測ることの重要性。
附二、季節変動について。
夏に高く冬に低い。振れ幅二割。四十一年分の記録より。
これまでの巡察が季節を揃えていないため、
過去の測定値は相互に比較できぬこと。
附三、長期下降について。
基準の形。四十一年で二割五分の下降。
附四、異常の五州について。
消失した一州と、下降の速い四州。
その位置関係。距離と下降速度の相関。
附五、考察。
咒源は独立した泉ではなく、相互に連関する系である可能性。
そして、方眼の紙に打点した図を、三十枚。るいは、これを描くのに一月かけた。数字を絵にするという発想は、この帝國に無い。書物には表がある。数字を縦横に並べたものである。だが、其れを線にして、形として視るという発想が無い。ゆえに、誰も波に気付かなかった。紙は、また足りなくなった。ブルクマイアから借りた。
*
百八十七枚の報告書は、咒紋府の届け出窓口ではなく、第四座の台帳係を通して提出された。規程上、巡察報告書はそこに出す。台帳係の書記が、束を受け取った時、両手が沈んだ。
「……帝國伯令嬢」
「うむ」
「其の、失礼ながら、これは」
「巡察報告書だ」
「……はい」
「十七州分」
「……はい」
書記は、束の厚みを見た。それから、るいを見た。
「……前回の巡察報告書は、十四枚にございました」
「知っている。読んだ」
「……」
「厚くて済まん。だが、削れなかった」
書記は、受領の判を押した。
*
誰も、読まなかった。これは、るいの予想通りであった。巡察報告書は、台帳係が保管し、必要に応じて関係する座に回付される。関係する座とは、この場合、氣學すなわち第十三座である。第十三座は、るいである。つまり、自分に回付された。書式上、正しい。誰も間違えていない。るいは、届けられた自分の報告書の束を執務室で受け取り、受領の判を押し、書棚に収めた。執務室には、るい一人しか居ない。窓から、冬の光が入っている。
『……まあ、そうなるよな』
これも、覚えがある。誰も読まぬ報告書、誰も来ぬ発表、引用されぬ論文。ヨストと、同じである。いや──ヨストは四十一年やった。るいはまだ一度目である。
『……文句を言える立場か』
*
ところが、事は、そう終わらなかった。三日後、第三座から呼び出しが来た。紋學統括。この帝國に現存する紋の九割が頭の中にあると言われる、四十を少し越えた女である。名をヒルデガルト“Hildegard”と言った。執務室は、るいのものより広く、そして書棚の並びが美しかった。全ての綴りの背が揃い、埃一つ無い。その卓の上に、るいの報告書が広げられていた。三十枚の図が、卓一杯に並べられている。
ヒルデガルト自身も、部屋とよく似ていた。濃色の上衣に装飾は殆ど無く、髪も仕事の邪魔にならぬよう後ろでまとめている。ただし、留め具から逃げた細い一房だけが頬の横に残っていた。香水の匂いはしない。近くまで来て初めて、乾いた紙と革装丁と、消したばかりの蝋燭の匂いが衣服に染みついているのが判る。
「……座って」
少し低く、掠れた声だった。女は、るいを見もせずに言った。そして、図の一枚を指した。
「これは、何」
「ベルクフォルム州の、四十一年分の測定値にございます」
「其れは読んだ。私が訊いているのは、」
女は、初めて顔を上げた。目が、赤い。
「この書き方は、何」
*
るいは、面食らった。
「……図にございますが」
「図」
「はい。横に年を取り、縦に値を取り、其の交わる所に点を打ちます。点を繋げば、線になります」
「其れは見れば判る」
ヒルデガルトは、図の一枚を持ち上げた。
「私が訊いているのは、なぜこの書き方をしようと思ったのかということ」
「……なぜ、と申されますと」
「数字を、形にしている」
女は、図を卓に戻した。そして、指で線をなぞった。線を追う時だけ、指先の動きが妙に遅かった。紙の上の形を、読むというより味わっているようにも見える。
「私は二十年、紋を見てきた。紋とは、形。形には意味がある。同じ形は同じ働きをし、違う形は違う働きをする。其れが紋學」
「はい」
「この線も、形」
ヒルデガルトは、指を止めた。
「……数字には意味が判らなかったものが、形にすると意味が判る。私は昨夜、此れを見て、三刻で四十一年分を理解した。数字の表で読んでいたら、十日かかっても判らなかった」
「……」
「これは、術」
女は、るいを見た。
「何処で覚えたの」
るいは、答えに詰まった。覚えたわけではない。当たり前だったのだ。数字が並んでいれば、絵にする。塁の世界では、子供が学校で習う。だが、此処では違う。
『……そうか。これも、無いのか』
るいは、この半年で二度目に、自分と彼らの間の溝の形を、正確に見た。一度目は、系統をまたぐという発想の欠落であった。二度目が、これである。数字を形にするという、ただ其れだけのことが、この帝國に無い。
「……独學にございます」
「独學」
「はい」
「……そう」
ヒルデガルトは、それ以上訊かなかった。訊く代わりに、図の別の一枚を指した。
「此の五州」
「はい」
「消えた咒源の周りが、痩せている」
「はい」
「其れを、あなたは相互に連関する系だと書いた」
「はい」
「……根拠は」
「距離と、下降の速さに関係がございます。近い州ほど速い」
「四州で」
「四州で」
女は、しばらく黙っていた。それから、率直に言った。
「……足りない」
*
「四州では、足りない。偶然でそうなることもある」
「……仰る通りです」
「其れを判っていて、書いたのね」
「はい」
「なぜ」
「他に説明がつきませんでしたので」
るいは、正直に答えた。
「泉が涸れるという説では、周りが痩せる理由が説明できません。泉は、隣の泉が涸れても痩せませぬ。……ですが、私の説も、四州しか根拠がございません。ゆえに『可能性』と書きました」
「其れで良い」
ヒルデガルトは、頷いた。
「言い切っていたら、私はあなたを馬鹿だと思っていた」
「……」
「可能性、と書いたから、読んだ」
女は、卓の上の図を一枚ずつ集め始めた。手つきが、ひどく丁寧であった。紙を扱う手ではない。紋を扱う手であった。
「……シュタインエック」
「はい」
「東部十七州だけでは、足りない」
「……はい」
「帝國には、四十七州ある」
ヒルデガルトは、集めた図を揃えて、卓の端に置いた。
「残り三十州を測れば、根拠になる」
るいは、顔を上げた。
「……第三座」
「何」
「其れは、六月ではきかぬ旅にございますが」
「知っている」
「紙も、足りませぬ」
「……」
女は、初めて、ほんの僅かに笑った。
「其れは、あなたの問題」
*
その日の夕方、るいは咒紋府の廊下を歩いていた。一階の西の端、届け出窓口の前を通る。高い机の向こうに、ヴィルフリートが座っていた。半年ぶりである。書記は顔を上げ、そして──手を止めた。
「……お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
「……日に、焼けられましたな」
「東は、日が強うございました」
ヴィルフリートは、少し言い淀んだ。それから、机の上を軽く指で叩いた。
「……ベルクフォルムの、爺さんの件でございますが」
るいは、足を止めた。
「……ご存知ですか」
「聞いております」
「誰から」
「……ええ、まあ」
書記は、答えなかった。答えなかったが、其の目は、僅かに笑っていた。
「……三月ほど前から、皆、存じております」
るいは、少し驚いた…巡察の途中である。るいがベルクフォルム州を出たのは四月前だ。都に戻ったのは半月前である。情報が、るいより速く帰ってきていた。
「……早いですね」
「紙は高うございますので」
ヴィルフリートは、静かに言った。
「口は、ただにございます」




