名前のない仕事
「さすがフェリクス様です。半年で、領内の輸送費をこれほど削減なさるとは」
領政会議室に拍手が起きた。
中央に座るフェリクス・カルステンが、少し照れたように笑う。
「皆の協力があってこそです。私一人でできたことではありません」
その一席後ろで、リディア・カルステンは手元の報告書を閉じた。
確かに、フェリクス一人でできた仕事ではない。
三か所に分かれていた中継倉庫を二か所へまとめ、北へ商品を運んだあと空で戻っていた荷馬車へ木材と羊毛を積ませた。商会ごとにばらばらだった出発日を揃え、護衛契約まで組み直した。
最初に数字の無駄へ気づいたのはリディアだった。
地図では半日と書かれている道を実際に馬車で走り、一日近くかかると確かめたのも、値下げを嫌がった商会へ別の帰り荷を提案したのも彼女だ。
報告書の表紙には、
『フェリクス・カルステン卿による領内物流改革』
と書かれている。
「次は南部街道の契約整理です」
会計官が新しい資料を開いた。
フェリクスも表情を仕事へ戻す。
「これ、まだ残っているのか」
彼が指したのは、南回りの小さな運送業者との契約だった。
北の主要街道を使うより二日遅い。ここ半年、実際に使った荷車は数えるほどしかない。
「月に十台分の最低契約です」
会計官が答える。
「使っていないなら切っていいんじゃないか? 年間ならそれなりの額になる」
「最低十台だけは残してください」
リディアが言った。
フェリクスが振り返る。
「十台?」
「はい」
「使う予定があるの?」
「今のところはありません」
「じゃあ、何で」
リディアは契約書の日付を確認した。
「十台だけで結構です」
答えになっていない、とフェリクスの顔に書いてある。
向かいの会計官も同じ顔をしていた。
父のゲオルクだけが、少し考えてから言った。
「残せ」
「父上まで?」
「リディアが十台と言うなら十台だ。今すぐ切るほどの額でもない」
フェリクスは肩をすくめた。
「分かりましたよ。姉上は昔から、妙なところだけ細かいな」
「そうかしら」
「そうだよ。皆がもういいと思ってるものを、最後に一個だけ残したがる」
悪口ではないらしい。笑っている。
リディアもそれ以上説明しなかった。
会議は次の議題へ進んだ。
最後に商会長の一人が、改めてフェリクスへ頭を下げた。
「この物流網なら、来年は西部との取引も広げられましょう。若いうちからこれほどの改革をなさるとは、次代のカルステン家も安泰ですな」
「ありがとうございます」
フェリクスは堂々と受けた。
リディアはその横で、次回までに必要な数字を手帳へ書いた。
会議が終わり、人が減ってから、フェリクスが机の端へ腰を預ける。
「姉上」
「何?」
「さっきの、腹立たないの?」
リディアは顔を上げた。
「南の十台?」
「違うよ」
フェリクスは苦笑した。
「俺が褒められてたこと。あの改革、ほとんど姉上がやっただろ」
「あなたが次期当主でしょう」
「それはそうだけど」
「領地の利益が増えれば、誰の名前でも結果は同じよ」
リディアは本気でそう思っていた。
いずれ自分はコンラート・ヴァインベルクと結婚して、この家を出る。
カルステン家を継ぐのはフェリクスだ。
なら、今から後継者として実績を積ませる父の考えにも理屈はある。
フェリクスはしばらく姉の顔を見ていたが、やがて笑った。
「助かるよ。姉上が嫁いだら、俺が全部やらなきゃいけなくなるんだから」
「今から覚えておいた方がいいわね」
「覚えてるって。何年横で見てると思ってるんだ」
軽く胸を叩く。
「仕組みはもうできたんだろ?だったら、あとは回せる」
リディアは返事をする前に少し考えた。
仕組みは、同じ条件が続く限り回る。
けれど、その一言を今ここで言うほどでもない。
「分からないことがあったら聞いて」
「ほら、結局それだ」
フェリクスは笑いながら出ていった。
昼前、リディアは父の執務室へ呼ばれた。
ゲオルクは窓際の机に相場表を広げている。
「北部産の鉄が上がり始めた」
「見ました」
「理由が分からん」
四日前から、少しずつ上がっている。
急騰ではない。
産出量が突然落ちた時の動きとは違う。
「軍需の買い付けは?」
「増えていない。保存食も薬も平常だ」
リディアは相場表へ目を落とした。
戦争ではなさそうだ。
「北部の鉱山で事故の報告は?」
「ない」
「輸送障害は」
「それも聞いていない」
ゲオルクが椅子にもたれる。
「だからお前を呼んだ」
リディアは紙を一枚取った。
まだ材料が足りない。
そこへ扉が叩かれた。
「お茶をお持ちしました」
若いメイドのエナが入ってくる。
「ありがとう」
茶器を置いたエナが、リディアの顔を見て「あ」と声を漏らした。
「そうでした。お嬢様、この前お尋ねになった王宮の客間の話、姉から返事が来ました」
ゲオルクが眉を寄せる。
「王宮?」
「洗濯場で働いているお姉さんね」
リディアが促すと、エナは嬉しそうに頷いた。
「南側の客間、やっぱり使ってるそうです。三日前から毎日シーツを替えてるって。でも表門から使節団が入った話はないそうですよ」
「何人くらい?」
「そこまでは分からないって。ただ、厨房にも注文が増えたみたいです」
エナは少し考えて付け足した。
「あと、貝が出なくなったって料理人が文句を言ってたそうです。せっかく良いのが入ったのに、南客間へ出す日は献立から外せって」
「ありがとう。十分よ」
「こんなので?」
「ええ」
エナは釈然としない顔で出ていった。
ゲオルクは娘を見る。
「お前は使用人に何を聞いているんだ」
「気になったことを少し」
「南客間と鉄に何の関係がある」
「まだ分かりません」
嘘ではない。
まだ一つ足りない。
リディアは茶へ手を伸ばしかけた。
また扉が鳴る。
今度は会計官だった。
「閣下。今朝の追加注文です。赤晶砂を通常の倍、押さえたいという商会が三つ」
リディアの指が止まった。
「どこへ売る予定です?」
会計官が書類を確かめる。
「二件が北部、一件が中部です」
「軍需工房ですか?」
「いいえ。生活魔具と精錬用ですね」
鉄。
赤晶砂。
王宮南客間。
正式な使節ではない客。
貝を避ける食事。
リディアの視線が一度止まった。
「税関から、最近何か変わった依頼は来ていませんか?」
会計官が戸惑う。
「税関、ですか?」
「はい。古い記録の照会でも、人員の応援でも」
「そういえば」
男が記憶を探すように天井を見る。
「南の税関から、古い荷の記録を出すので臨時の書記を二人貸してほしいと。昨日、総務へ来ていたはずです」
「何年前の記録です?」
「そこまでは……」
「十年ほど前ではありませんか?」
会計官が目を瞬いた。
「確認してきます」
「お願いします」
男が出ていく。
ゲオルクは黙っていた。
リディアは鉄の相場表と赤晶砂の注文書を並べた。
数分もしないうちに、会計官が戻った。
「十年前です」
今度はゲオルクの指が止まった。
リディアは父を見る。
「北方との関税協定が改定された年ですね」
「……そうだ」
「来月、また変わりますか?」
会計官が固まる。
ゲオルクの顔から、さきほどまでの苛立ちが消えた。
「誰から聞いた」
「誰からも」
「なら、なぜ来月だ」
「税関が十年前の記録を今さら出しています。北部の鉄と、魔具材料に使う赤晶砂だけが先に動いた。でも戦争に伴う物資は動いていません」
リディアは南客間の方角を意識して窓を見る。
「王宮には、表向き使節ではない客が三日滞在している。食事まで北方の習慣に合わせているなら、身分の低い商人ではないでしょう」
会計官が息を止めて聞いている。
「交易条件の非公開交渉です。鉄と魔具素材が主な対象。まだ合意前ですが、まとまる見込みが立ったので一部の商人が動き始めた。正式発表は、おそらく来月です」
「おそらく?」
ゲオルクが聞く。
「今ある情報だけなら、かなり可能性が高いという意味です」
「どの程度だ」
「八割ほど」
父はしばらく娘を見た。
それから机の引き出しを開け、封を切ったばかりの書簡を取り出した。
王家の印。
会計官の顔色が変わる。
「今朝届いた」
ゲオルクが言った。
「北方二国の代表が、非公式に王都へ入っている。鉄材と一部魔具素材の関税見直しだ。侯爵家には市場を荒らすなという注意も来ている」
会計官がリディアを見た。
何か言おうとして、やめた。
代わりに、もう一度赤晶砂の注文書を見る。
「最初に聞いたのは……客間の話でしたよね」
「鉄の値段も見ていました」
「いや、そういう問題では」
男はそこで黙った。
ゲオルクは慣れているのか、もう次へ進んでいた。
「どれだけ買う」
「鉄と対象になりそうな魔具素材を三か月分まで。通常備蓄の範囲を少し広げる程度にしてください」
「半年買えばもっと利益が出る」
「やめた方がいいです」
「なぜだ」
「正式発表前です」
リディアは父の手元の王家の書簡を見る。
「お父様は今日、交渉の存在を知りました。ここから急に半年分を買えば、王家から得た非公開情報を利用したように見えます」
「だが、お前は自力で気づいた」
「それを後から証明するために、監察官と何日話すおつもりです?」
ゲオルクが黙った。
会計官が口元を押さえた。笑ったらしい。
「三か月なら?」
「過去の価格変動時にも行った範囲です。鉄は工房拡張の予定もありますから説明できます。発表後に価格が落ちる可能性もあるので、利益だけ見ても半年は危険です」
「分かった」
ゲオルクは即座に決めた。
「今日中に買付案を作れ」
「はい」
「明日の会議にはフェリクスに出させる」
リディアは一拍遅れて父を見る。
「わたくしではなく?」
「またその話か」
まだ一度しかしていない。
けれど、父の中では既に結論が決まっているのだろう。
「お前はいずれヴァインベルク家へ嫁ぐ。領地に残るのはフェリクスだ。外から見て、次期当主に実績がない方が困る」
「ですが、案を作ったのは」
「お前だと私は知っている」
迷いなく言われた。
それは認められているという意味でもあった。
だから、リディアは反論を止めた。
「……分かりました」
翌日の領政会議で、フェリクスは買付案を説明した。
三か月分まで。
対象は鉄と一部の魔具素材。
一社へまとめず、既存の取引量に応じて分散。
半年分を買わない理由まで、昨夜リディアがまとめた通りに話した。
「まだ公表されていない値動きへ過剰に乗れば、かえって信用を失います。利益より、普段の取引の延長に見える範囲で押さえるべきです」
商会長たちが感心して頷く。
「若いのに欲をかかれませんな」
「先を読むだけでなく、引き際まで分かっておられる」
「さすがフェリクス様だ」
拍手までは起きなかった。
それでも、十分な称賛だった。
フェリクスが一度だけリディアを見る。
少し居心地が悪そうな顔をしたあと、すぐ正面へ戻った。
会議後、彼は廊下で追いついてきた。
「姉上」
「何?」
「悪い」
「何が?」
「今日のあれ」
珍しく素直だった。
「でも父上が言う通り、俺が継ぐんだから、俺もこういうのをできるようにならないと」
「そうね」
「次は俺が先に気づくよ」
「楽しみにしてる」
リディアが答えると、フェリクスは少しむっとした。
「本気で言ってる?」
「もちろん」
本気だった。
弟ができるようになるなら、その方がいい。
夕方、リディアの机には、今度は誰も拍手しない仕事が積まれていた。
輸送日程の変更。
倉庫の空き確認。
荷車の修理。
護衛人数の調整。
一枚ずつ処理していく。
第七中継倉庫からの申請で手が止まった。
低級魔石十二箱。
生活魔具用の基礎触媒七箱。
合計十九箱。
翌朝出発予定。
「一番車の車軸に亀裂が見つかりました」
輸送担当者が立ったまま報告する。
「今日中に別の荷車へ載せ替えれば、予定通り出せます」
「到着期限は?」
「三日後の夕刻です」
「天候は?」
「二日は晴れ予報です」
「なら、無理に載せ替えなくて結構です。修理を優先して、出発を明朝へ」
「一日ずれても間に合いますか?」
「ルーンベルクで予定している二時間の荷待ちをなくせば十分です。先方には今日中に変更を伝えてください」
「承知しました」
担当者が書類を差し出す。
輸送経路。
中継倉庫。
貨物番号。
封印確認済み。
重量確認済み。
どこにも異常はない。
リディアが変更欄へ署名する。
リディア・カルステン。
午後の会議で称賛された買付案には、自分の名前はなかった。
荷車を一日ずらすだけの紙には、きちんとある。
少し妙だと思った。
それだけだった。
十二日後。
カルステン侯爵家の正門へ、黒い馬車が四台入った。
紋章を飾らない実務用の馬車だった。
先頭から降りた男たちは、王国監察局の身分証を持っていた。
その後ろには魔環大廷の調査官もいる。
執事がリディアの執務室へ駆け込んできた。
普段、人前では走らない男だった。
「リディア様。旦那様が、すぐ応接室へと」
「何があったの?」
「管理対象の魔術素材が、違法に流通していたと」
リディアはペンを置いた。
「カルステン家の荷から?」
執事は答えなかった。
それで十分だった。
応接室には父とフェリクス、家令がいた。
反対側に、監察官と魔環大廷の調査官。
卓上へ何枚もの輸送記録が並んでいる。
主任らしい監察官が一枚をこちらへ向けた。
「リディア・カルステン嬢ですね」
「はい」
「十二日前、第七中継倉庫から出たこの貨物について伺います」
見覚えがある。
十九箱。
車軸の亀裂。
一日ずらした出発。
そして、一番下。
自分の署名。
「この貨物は王都南西の検問所で確認されました。申告されていた低級魔石と基礎触媒のうち十箱が、高純度魔石と登録されていない触媒へ置き換えられていました」
「中身が違います」
「出庫時の記録では正常です」
「封印は?」
「そこも調査中です」
監察官は次の紙を出した。
「輸送経路を設計したのは?」
「わたくしです」
「第七中継倉庫を利用するよう決めたのも?」
「はい」
「出発日を変更したのは?」
「わたくしです」
隣でゲオルクが口を開いた。
「領内の物流実務は、娘のリディアに任せておりました」
リディアは父を見る。
朝まで、物流改革はフェリクスの功績だった。
関税改定を読んだ買付案も、フェリクスの判断になった。
けれど、問題のある十九箱について問われた瞬間だけ、仕事は自分へ戻ってきた。
主任監察官は筆を取り直した。
「では、リディア嬢」
成功した時には、一度も必要とされなかった名前だった。
「詳しくお話を伺えますか」
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