玉座の崩壊
王城へと続く大通りは、不気味なほどの静寂に包まれていた。
氷の馬車を降りた私とルシアンが石畳を歩くたび、周囲の建物に隠れていた王都の民衆たちが、恐る恐る窓や路地裏から顔を出した。
彼らの目に映っているのは、城門を吹き飛ばした恐ろしい「侵略者」の姿ではない。
私の体から自然と溢れ出る水精の浄化の光が、王都を覆っていた薄暗い空気を払い、淀んだ水路のドブ水を透き通るような清流へと変えていく奇跡の光景だった。
「おお……」
「息が、苦しくない。空気が澄んでいる……」
王族に搾取され、瘴気に怯えながら生きてきた平民たちが、次々と通りに出てきて、私の歩く道にひれ伏していく。
恐怖からではない。彼らは直感的に理解したのだ。自分たちを救う本物の「救済」が降臨したのだと。
「まるで凱旋パレードですね、ライラ様」
ルシアンが、ひれ伏す民衆を見下ろしながら冷たい笑みを浮かべた。
「王都の者たちも、誰に跪くべきかようやく理解したようです。……とはいえ、少々目障りですが」
「ルシアン、彼らを威嚇しないでね。彼らも被害者よ」
「あなたがそう仰るなら、この剣は王城の腐敗者のみ振るいましょう」
私たちは立ち止まることなく進み、やがてエルディア王国の心枢、巨大な白亜の王城の前に辿り着いた。
城を警護しているはずの近衛兵たちの姿はない。第一王子アーサーが敗北したという知らせを受け、皆、武器を捨てて逃げ散ったのだろう。
重厚な鋼鉄の正門を、ルシアンが黒い大剣の柄で軽く叩き割る。
バキィィィンッ! という轟音と共に、扉が内側へ吹き飛んだ。
私たちは誰もいない豪奢な廊下を進み、王城の最奥——『玉座の間』へと足を踏み入れた。
「ひ、ひぃぃっ……!! く、来るな! 出会え、出会えぇっ!!」
絢爛豪華な大広間の最奥。
高くそびえる黄金の玉座の上で、豪奢な王衣を纏った老王が、顔を真っ青にして叫び声を上げていた。
その周囲には、王に最後まで付き従った十数名の強硬派の貴族たちと、王家直属の暗殺部隊である「影」の者たちが、震える手で武器を構えて立ち塞がっている。
「殺せ! その魔女の首を刎ねた者には、公爵の地位と領地を与えてやる! やれぇっ!」
王の狂乱した命令に、黒装束の暗殺者たちが一斉に天井や柱の影から飛び出してきた。
——だが。
「ハッ……。公爵の地位だと? そんな紙切れのために、我が主の御前に姿を晒すとは。本当に底の知れた塵芥どもだ」
ルシアンが一歩前に出た、その瞬間。
彼の全身から、物理的な重圧を伴う『ドス黒い殺意の波動』が爆発的に放たれた。
「ガァッ!?」
「あ、ぐぁ……ッ!」
暗殺者たちは、ルシアンに触れることすらできなかった。
空中で不可視の刃で切られたかのように全身の骨を軋ませ、次々と壁や大理石の床に激突して血を吐き、白目を剥いて気絶していく。
剣を振るうまでもない。ただの『威圧』だけで、王の切り札たちは全滅した。
「ば、馬鹿な……。余の精鋭が、一瞥で……」
老王が玉座から転げ落ちそうになりながら、ガチガチと歯の根を鳴らした。
周囲にいた貴族たちも、ルシアンの化け物じみた力と、私から放たれる圧倒的な神気に耐えきれず、次々と膝から崩れ落ちていく。
私は静かな足取りで、玉座へ続く赤い絨毯の階段をゆっくりと登り始めた。
「こ、こっちへ来るなっ! 余は王だぞ! エルディア王国の絶対の支配者だ! 貴様のような身元も知れぬ薄汚い魔女が、余を見下ろすなど許され——」
私が指を鳴らすと、王の頭に載っていた重々しい黄金の王冠が、水圧の弾丸によって弾き飛ばされ、床に転がって乾いた音を立てた。
「ひっ……!」
「静かにしなさい」
私は、尻餅をついて震える老王を見下ろし、氷のように冷たい声で言い放った。
「あなたの口から出る言葉は、どれもこれも自分の保身と権威のことばかり。……十万もの魔物を嗾けられ、死の恐怖に泣き叫んだ民たちへの謝罪の言葉は、ただの一言もないのですね」
「民は王のために死ぬのが当然だ! 王都を守るための尊い犠牲だったのだ!」
「……そう。それが、あなたの答えなのね」
私は深くため息をつき、玉座の間の床にそっと手のひらを当てた。
私の感覚が水精たちを通して、王城の地下深く——王都の基盤となっている巨大な地下空間へと伸びていく。
「さっきから、足元から酷く淀んだ、吐き気を催すような魔力が伝わってくるわ」
私がそう指摘した瞬間、老王と貴族たちの顔から、完全に血の気が引いた。
「王族と一部の特権階級が、城の中で年中温かいお湯に浸かり、冬でも温室で花を育て、長寿の秘薬を作るために使ってきた莫大な魔力。……それはすべて、地下に隠された古代の『神殿』を暴走させて絞り出していたものだった」
私は、地下から伝わってくる醜悪な真実を、静かに読み上げていく。
「そして、その魔力炉を異常な速度で酷使した結果生まれたもの。それこそが……この世界を蝕み、人々を苦しめ、異形を生み出している『瘴気』の正体だったのね」
玉座の間が、凍りついたような静寂に包まれた。
後ろに控えていたルシアンの顔が、怒りで凄惨な夜叉のように歪む。
「……なるほど」
ルシアンの喉の奥から、ギリギリと歯を食いしばる音が漏れた。
「天災などではなかった。この国を滅ぼしかけている猛毒は、王都の贅沢を貪るために垂れ流していた『汚水』だったというわけか。……あまつさえ、その尻拭いを民に押し付けていたと」
「ち、違う! あれは国を豊かにするために必要な——」
「黙れッ!!」
ルシアンが激昂し、階段を蹴り上がって老王の首を片手で鷲掴みにした。
巨体ごと宙に吊り上げられた王が、足をバタバタとさせて苦しげな呻き声を上げる。
「ライラ様、こいつは生かしておく価値すらない。このまま首を引き千切り、王都の広場に晒してやりましょう」
ルシアンの瞳は完全に血に飢えており、指先に少しでも力を込めれば、王の首など簡単に折れてしまうだろう。
「ルシアン、離してあげて」
「しかし!」
「私達が手を下すまでもないわ。彼はもう、『王』ではなくなるのだから」
私が静かに命じると、ルシアンは舌打ちをしながら老王を大理石の床に投げ捨てた。
ゲホッ、ゴホッとむせ返る老王を見下ろし、私は告げた。
「エルディア国王。あなたは、自らの強欲によって国を毒し、その事実を隠蔽した。……その罪は、私ではなく、あなたが切り捨ててきた民自身に裁いてもらいます」
「な、なにを……」
「ルシアン。この男と貴族たちを縛り上げなさい。後で王都の広場に引きずり出し、すべての真実を民衆の前で自白させます」
「御意。……おい愚者ども、少しでも抵抗すれば手足の三、四本は切り落とすぞ」
ルシアンが獰猛に笑いながら、貴族たちを捕縛しに向かう。
私は彼らに背を向け、玉座の後ろにある隠し扉——地下へと続く階段を見据えた。
その奥からは、今もズン……ズン……と、心臓の鼓動のように重く、おぞましい瘴気の脈動が響いてきている。
「ライラ様、地下へ行かれるのですか?」
手早く王たちを拘束したルシアンが、私の隣に戻ってきた。
「ええ。この国を蝕む『毒の心臓』を、この手で完全に止めるわ。王冠を取り上げるだけじゃ足りない。王国の権威の源であるあの魔力炉を破壊するわ」
「……相変わらず尊い、お考えです。お供いたします」
ルシアンは恭しく頭を下げ、私の前に立って隠し扉を蹴り破った。
暗く、瘴気が渦巻く地下への階段。
だが、私にはもう恐怖はなかった。私の背後には神域からの民の祈りが届いており、隣には最強の騎士がいる。
「さあ、終わらせましょう。この腐った国を壊して……真の『聖国』を創り上げるために」
私たちは、王都の最深部——古代の神殿が眠る奈落へと足を踏み入れた。




