EP 8
音速の取り立て屋
大国の経済中枢を完全に麻痺させた歓喜は、わずか三分で吹き飛ばされた。
「……敵の軍事ネットワークが、完全に独立した予備システムに切り替わった!」
蘭が、キーボードを叩く指を止めることなく叫ぶ。
「サイバー空間から物理的に切り離された(エアギャップ)、低軌道上の軍事通信衛星群。……最悪。敵の潜水艦とステルス爆撃機に、日本の主要都市への『物理的なミサイル攻撃』の座標データを送信しようとしてる!」
管制室の空気が凍りついた。
経済で首を絞められた大国が、死に体で振り回した最期の、そして最大の暴力。
座標データの送信が完了すれば、日本に無数の雨が降り注ぐ。
「送信完了まで、あと四分」
蘭の声が震えていた。
「ハッキングは不可能。物理的に衛星を破壊するか、通信モジュールを焼き切るしかない。でも、高度二万メートルの成層圏ギリギリを飛ぶ衛星に、今からミサイルを撃っても……間に合わない!」
「いや。一つだけ、方法がある」
重い声で応じたのは、坂上真一だった。
「迎撃ミサイルを積んだ戦闘機を、衛星の真下、機体の限界高度まで垂直上昇させる。そこから音速の勢いを乗せてミサイルを撃ち放てば、ギリギリ届く。……だが」
坂上は奥歯を噛み締めた。
「F35bは本来、そんな高高度での急上昇を前提とした機体じゃあない。エンジンがストール(失速)すれば、機体は鉄屑になって墜落する。パイロットにかかるG(重力加速度)も、人間の限界を超えるぞ」
「やりますよ、俺が」
通信機から、ノイズ混じりの軽い声が響いた。
すでにスクランブル発進し、上空を哨戒していた平上雪之丞一等空尉だ。
『ちょうど今、ターゲットの軌道下にいる。……高度二万メートルからのスナイプっスね。面白え』
「平上クン、死ぬよ。あなたの普段の出撃データから計算する生存確率は、限りなくゼロに近い」
蘭が、早口で警告する。
『そりゃそうだ。俺、いつも六〇パーセントしか力出してねえからな』
雪之丞は、高度一万メートルを飛行するF35bのコクピットの中で、酸素マスク越しにニヤリと笑った。
『なぁ、姫君。聞こえてるんだろ』
マイクを握った輝夜が、冷や汗を流しながら応答する。
「……聞こえています、平上一尉」
『あんた、俺の出撃ノルマを「一〇〇パーセント」にするって言ったよな。悪いが、今回は一二〇パーセントだ。……機体も、俺の体も、完全に「使い潰す」ことになるぜ。許可をくれ』
輝夜の心臓が、早鐘を打った。
パイロットに死を覚悟した特攻紛いの真似をしろと、自分から命じなければならない。
だが、昨日までの「誰も犠牲にしない」と泣いていた脆弱な少女は、もうここにいない。
泥を被り、血に塗れると決めたのだ。彼らの覚悟を、絶対に無駄にはしない。
「……平上雪之丞一等空尉」
輝夜の声は、研ぎ澄まされた刃のように冷たく、そして絶対の信頼を帯びていた。
「目標の通信衛星を物理的に沈黙させてください。あなたの命を含め、すべての責任は私が持ちます。……必ず、生きて帰ってきなさい」
『了解。……借金取りの仕事、キッチリ終わらせてくるぜ』
通信が切れた。
雪之丞は、操縦桿を強く握りしめ、スロットルを限界まで押し込んだ。
ゴアァァァァァァッ!!
F35bのエンジンが悲鳴を上げ、青白いアフターバーナーの炎を噴き出す。
機体は垂直に近い角度で上を向き、そのまま音速の壁を突破した。
ドムッ、という衝撃とともに、世界から音が消える。
強烈なG(重力)が、雪之丞の全身をシートに押し付けた。
内臓が背骨に張り付くような激痛。視界の端が黒く染まり始める(ブラックアウト)。
警告音が、コクピット内にけたたましく鳴り響いている。
【WARNING: ENGINE STALL RISK(警告:エンジン失速の危険)】
【WARNING: ALTITUDE LIMIT EXCEEDED(警告:高度制限超過)】
「……うるせえ、ポンコツが。俺が……飛べっつったら、飛べッ!!」
雪之丞の鼻の穴から、ツーッとツーッと赤い血が流れ落ち、酸素マスクを汚す。
毛細血管が悲鳴を上げている。脳内の酸素が急速に失われ、意識が遠のいていく。
女好きで、借金まみれで、常に手を抜いて生きてきた。
本気を出して、誰かの期待を背負うのが怖かったからだ。
だが、あの無垢で不器用な姫君が、自分を使い潰してでも世界を救うと覚悟を決めたのだ。なら、大人が本気を見せてやらなくてどうする。
高度、一万八千。
一万九千。
二万——!
真っ暗な成層圏。
眼下には、青く丸い地球の輪郭が見えた。
そして頭上には、微かに光を反射する、敵の軍事通信衛星の機影。
「……見えたぜ。チェック、メイトだ」
雪之丞は、血に染まった歯を剥き出しにして笑い、ミサイルの発射ボタンを力強く押し込んだ。
轟音とともに、機体から切り離された対空ミサイルが、残された最後の距離を音速で喰い破っていく。
直後、F35bのエンジンが限界を迎え、プツン、という音とともに完全に停止した。
コントロールを失った機体が、重力に引かれてキリモミ状態で真っ逆さまに落ちていく。
遠ざかる視界の先で。
敵の通信衛星が、音のない強烈な閃光を放ち、木っ端微塵に四散した。
*
市ヶ谷・防衛省地下。
「……敵通信衛星のシグナル、完全ロスト(消失)!!」
蘭が、バンッと机を叩いて立ち上がった。
「座標データの送信は未完了! ミサイル攻撃の脅威は去ったわ!」
「やったっ……!」
輝夜が、思わず机の上のナイフを強く握りしめる。
だが、安堵の時間はなかった。
「平上の機体シグナルが、急速に高度を落としとる! エンジンストールじゃ!」
坂上が、血相を変えて通信機に怒鳴る。
「雪之丞! 雪之丞、応答しろ! ベイルアウト(緊急脱出)じゃ! レバーを引けェッ!」
スピーカーからは、不気味なノイズだけが響く。
輝夜の顔から、すーっと血の気が引いた。
彼を使い潰した。自分が、殺した。
冷たい泥が、再び輝夜の足元を覆い尽くそうとした、その時だった。
『……あー、うるせえな親父。今、無理やり再点火かけてんだよ』
ひどく掠れた、だが確かに聞き覚えのある軽薄な声が、ノイズの奥から聞こえた。
同時に、レーダー上のF35bのシグナルが、高度三千メートルの位置でふわりと水平飛行に戻る。
『……っぶねえ。寿命が十年縮んだぜ』
「平上、一尉……!」
輝夜の声が、堪えきれずに震えた。
そんな彼女に、通信機越しの雪之丞は、ハァハァと荒い息を吐きながら、いつもの調子で笑いかけた。
『なぁ、姫君。俺、今回の出撃で一二〇パーセント働いたよな?』
「……はい。完璧以上の、仕事でした」
『じゃあさ、同僚に借りてる借金、総額三〇〇万。……あんたの権力で、チャラにしてくれねえ?』
極限の死地から生還して、第一声がそれか。
管制室にいた全員が、呆れ果てて肩の力を抜いた。
輝夜は、ふっと息を吹き出し、それから、涙目のまま小さく吹き出した。
「……無事に着陸できたら、私のポケットマネーから貸してあげます。利子付きで」
『鬼かよ! やっぱりあんた、魔女だぜ!』
大国の放った最後の見えない弾丸は、借金まみれの天才パイロットによって完全に叩き折られた。
いよいよ、大国の心臓に突き立てた「ブラック・スワン」が、その本性を現す時が来た。
泥に塗れた月が、ついに世界を照らし尽くす。




