EP 1
月を抱く官僚
重厚なマホガニーの円卓に、冷たい静寂が落ちた。
「——以上が、本法案に対する経済効果の『真の』試算です。提出された政府原案には致命的な構造的欠陥が存在します。このまま推し進めれば、五年以内に地方自治体の三割が財政破綻を迎えるでしょう」
凛とした声が、霞が関・内閣府の特別会議室に響き渡る。
日野輝夜。
年齢、二十五歳。
内閣府 政策統括官付 内閣政務官補佐官。
並み居る六十代の老練な官僚や族議員たちが、目の前に突きつけられた分厚いデータ資料を前に、誰一人として反論の口を開けないでいた。
「な、なんだと……っ! 我々が何ヶ月もかけて練り上げた法案を、たかだか二十代の小娘が……!」
一人のベテラン議員が、顔を真っ赤にして立ち上がる。
「小娘の妄想ではありません。数学と統計です」
輝夜は表情一つ変えずに、手元の備前焼のタンブラーに指を這わせた。
ザラリとした土の感触が、彼女の冷徹な思考を支えている。
「感情論で国家予算は動きません。修正案はすでに皆様のタブレットに送信済みです。ご査収ください」
「き、貴様ぁ……!」
議員が机を叩こうと腕を振り上げた、その時だった。
「——そこまでにしとけや、先生方。泣かされるぞ」
ガラリ、と無遠慮に会議室の扉が開く。
その瞬間、室内の空気が一変した。
怒り狂っていた議員たちが、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直し、一斉に頭を下げる。
入ってきたのは、初老の男だった。
仕立ての良さが遠目にもわかるスーツ。しかし、その着こなしにはどこか野獣のような無頼の気配が漂っている。
与党幹事長、若林幸隆。
この国の政治を裏から操る、生きた権力。
若林は悠然と歩み寄ると、無言で一本のタバコを取り出し、火をつけた。
紺色のパッケージ。ピースだ。
深く、重い紫色の煙が、会議室の空気を完全に支配する。
「輝夜。相変わらず、容赦がねえな」
「若林幹事長。数字は嘘をつきませんから」
輝夜は立ち上がり、軽く一礼した。
「ああ、違げえねえ。数字は綺麗だ。だがな、お嬢ちゃん」
若林は紫の煙をふぅと吐き出しながら、輝夜を見下ろした。
その瞳の奥には、どんな政治家も持ち得ない、絶対的な「勝利への執着」が渦巻いている。
「政治ってのは、泥と血で出来てんだ。綺麗な算盤だけじゃ、弾けない世界がある」
「……何が仰りたいのですか」
「お前さんに、とびきり『おもろい現場』を用意してやった」
若林が投げたのは、黒い無地のファイルだった。
極秘(Top Secret)の赤いスタンプ。
「防衛省、統合幕僚監部の地下だ。今日からお前は、そこの政策ブレーンとして出向してもらう」
——ズキリ、と。
輝夜の胸の奥で、古い傷跡が痛んだ。
脳裏にフラッシュバックするのは、幼い頃に見た、故郷の村がダムの底に沈んでいく光景。
誰も救えなかった。誰も、正解を持っていなかった。
心臓が冷たく収縮し、呼吸が浅くなる。
無意識のうちに、輝夜は備前焼のタンブラーを強く握りしめていた。指先が白く変色する。
(私は、もう誰も失わせない。そのために、私が完璧な『月』にならなければいけないのに……軍事? 防衛? そんな暴力の最前線に、何の意味が?)
だが、輝夜はわずかに伏せていた目を、すぐに真っ直ぐに上げ直した。
「わかりました。赴任します」
若林は、ニヤリと肉食獣のように笑った。
「覚悟しとけよ、輝夜。お前はまだ、“地獄”を知らん」
*
数時間後。
市ヶ谷・防衛省地下深く。
案内された作戦会議室の扉を開けた輝夜は、そこに居た「男」の背中を見て、思わず息を呑んだ。
分厚い軍服の上からでもわかる、鋼鉄のような筋肉。
そして何より、その男の背中から放たれる、文字通りの「血の匂い」。
「……アンタが、新しいお守り役か」
男が振り返る。
出雲艦隊打撃軍・総司令官、坂上真一。
彼の低い声は、霞が関のどんな怒号よりも重く、輝夜の鼓膜を震わせた。
「帰れ、お嬢ちゃん。オドレのような綺麗な女が、遊びに来る場所じゃあないんで」
地獄の門番の、容赦のない先制攻撃。
だが、輝夜は怯むことなく、ハイヒールを鳴らして一歩前へ出た。
——月は、どんな暗闇でも迷わない。
「遊びではありません。私は、あなた方の戦術を最適化しに来た、日野輝夜です」
理想(月)と、現実(地獄)。
決して交わるはずのなかった二つの世界が、今、激突した。




