呼び方
この書類は財務へ持っていくもの、こちらは王太子殿下へ、それから……これで最後だ。
「ヴィレット様、書類の整理が終わりました。こちらの書類には、ご確認の上サインをお願いいたします。」
「ありがとうございます。」
表面上はいつも通りのやり取りだが、何やら視線が刺さる。無言の圧が怖い。
この視線の原因はわかっている。恐らく、先日ヴィレット様から“名前で呼んでほしい”と言われたものの、未だに私が“ヴィレット様”と呼んでいるからだろう。
オリヴィエ様からも婚約者らしく呼び方を改めるよう指摘されたが、まさかこんなに早く、それも本人から言われるとは思ってもみなかった。
つい先日までただの上司と部下だったのだし、今でも上司と部下の関係は変わっていない。婚約者になったからといって、急に気安く振舞うのもいかがなものだろうか。政略結婚なのだし、そこそこ距離感を保ったままでも問題ないのではないだろうか?
「ああそうだ、ジュリア様。食事会の件ですが、今週末の土曜日でいかがでしょう?」
今週末…その日は特に予定はなかったはずだ。
「ええ、大丈夫ですわ。」
「それはよかった。では家の者にも、そのように伝えておきますね。皆楽しみにしているようですよ。」
「はい。私も楽しみですわ。」
そう、食事会。この時までには名前で呼ぶようにしてほしいと、ヴィレット様から言われているのだ。いや、ハッキリとそう明言されたわけではないが、恐らくそういうことなのだろう。
その期日が今週末になってしまった以上、いつまでも逃げてはいられない。相手が上司だろうと公爵様だろうと、今では私の婚約者でもあるのだ。
「そろそろ休憩になさいますか?……レイモンド、さま。」
ヴィ…レイモンド様がこちらを見て固まっている。人が意を決してようやく名前を口にできたというのに、その反応はいかがなものだろうか。
「やっと呼んでくださいましたね…ええ、そろそろ休憩にしましょうか。お茶をお願いしても?」
「もちろんですわ。」
やはり呼び方を気にしていたらしい。
お茶を用意してソファに掛けると、ヴィレッ…レイモンド様も私の隣に掛ける。婚約してからというものの、なぜか隣に座るようになった。少しでも打ち解けようという、彼なりの気遣いなのだろうか。
「ところで…」
いつも通りお茶を飲んでいると、レイモンド様が遠慮がちに切り出した。
「どうかなさいましたの?」
「これを機に私も呼び方を改めようと思ったのですが…リア、とお呼びしても?」
リア…ジュリアだから、リアなのか。いやそうではなくて。え、まさかの愛称ですか?なんというか、こう、むず痒いと言いますか。世の恋人同士や婚約者同士の方たちは皆様このようなやりとりをしていらっしゃるのでしょうか…尊敬いたします。
「えっと…それは……」
「嫌、でしょうか?」
レイモンド様のアイスブルーの瞳がスッと微かに細くなり、声が低くなる。気分を害してしまったらしいのだが、慌てて否定する。
「い、嫌というわけではないのです。」
そう、嫌とか不快だとかそういうわけではない。
「ただ、正式な婚約者とはいえ、上司と部下という立場もあります。他の方にも示しがつきませんので…王宮内ではその呼び方は如何なものかと。」
「わかりました。それでは、王宮内では“ジュリア”と呼ばせていただきます。それで構いませんね?」
なぜだろう。疑問形のはずなのに拒否権がないように感じる。それに“王宮内では”というのはどういう意味だろうか……聞いては駄目な気がする。
「ええ、それでしたら。」
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