お兄ちゃん
薄暗くなり始めた頃、晴希の帰りが遅くて気になった玉紀は、照人に連絡した。
「……うん、そうなの。学校には連絡したんだけど、もう帰ったって。でもまだ晴希、家に帰って来ないのよね……」
「わかったよ。戻ってくるかもしれないから、玉紀は家にいて。俺、これから付近を探しに行くから」
「うん……」
「大丈夫だよ。もし、帰って来たら連絡して」
「わかったわ。お願いね」
照人はすぐに事情を説明し、周りの警察官と共に捜索に出た。
電灯が付き始め、だんだんと日が落ちてくる。見覚えのない道が続き、晴希は益々不安になってきた。見知らぬ男性は古ぼけたアパートの前で立ち止まり、晴希に向き合った。
「さあ、君のお家が見つかるまで、おじさんの家で待っていよう」
晴希はなんか変だなと感じた。
「もういいよ。僕一人で探すから」
「大丈夫だって。おじさんと遊ぼうよ」
男性の手に力が入る。
「離してよ! 僕、帰る!」
「コラ、聞き分けない子だな。来なさい!」
「嫌だ! 離して!」
晴希は必死に抵抗した。
「いいから、来い!」
男性は遂に怒りを露わにし、晴希を力任せに引っ張った。
「おい! 嫌がってるだろ。やめなさい!」
振り返ると一人の警察官が立っていた。その中年男性は、晴希の口を手で覆いながら立ち止まった。
「その子を放しなさい」
「いやー、この子は僕の息子なんですよ。最近、言う事聞かなくて困ってたとこなんです」
「息子ねえ……言う事聞かないのは確かにな」
「そうなんですよねえ。お仕置きしないとわからないようなんで、これで失礼します」
「わかった。じゃあ、その子は預かるよ」
晴希を連れて行こうとした男性を制し、警察官は晴希を強引に奪った。
「ちょっと! 何するんですか?」
「それはこちらのセリフだ。お前こそ、うちの息子になにするつもりだ!」
「お父さん!」
晴希は父を見た。いつも見ている優しい父ではなく、犯人を前に立ち向かう、今まで見た事のない怒りに満ちた顔だった。
「クソッ!」
中年男性は逃走を試みた。しかし、近くで待機していた警察官たちにすぐに取り囲まれ、呆気なく捕らえられた。
照人はホッと胸を撫で下ろした。晴希は照人の服の裾を掴んだまま俯いている。
「晴希、知らない人に付いて行っちゃダメだと言ったろ。心配したんだぞ」
「お父さん……ごめんなさい」
涙ぐむ晴希を、照人は跪いて抱きしめた。
「とにかく無事でよかった……。晴希、あのおじさんに嫌な事されなかったか?」
「うん。僕、帰り道分からなくなって公園にいたら、おじさんが僕の家、一緒に探してくれるって言ったから……」
「そっか。とにかくお母さんも心配してるから、一緒に帰ろう」
「うん……」
照人は晴希と手を繋いで家に向かった。
玉紀は玄関の前で待っていた。照人と晴希の姿が見えると駆け寄り、晴希を抱き締めた。
「晴希ー!! もう、お母さん、心配したんだから!」
「お母さん、ただいま。遅くなってごめんなさい」
「晴希、おかえり。本当によかった……」
玉紀は晴希を抱き締めて泣いている。
「もう大丈夫だよ。犯人は晴希のおかげで捕まえられたからね。俺は仕事が残ってるから片付けてくるよ」
照人は晴希の頭を撫でる。
「晴希、お父さんが帰ってくるまでお母さんをよろしく頼むな」
「わかった!」
照人は微笑みを残して仕事に戻って行った。
星と月が綺麗に瞬く夜、やっと残業を終えて照人は家に着いた。
「ふう、ただいまーっと」
遅くなってしまった照人は、静かにドアを開けて家に入る。もう寝てしまったのか薄明かりだけの居間に、照人は荷物をドサッと下ろした。食卓テーブルを見ると、小分けされた冷めたおかずと空の茶碗だけ置いてあった。
「さてと、風呂入ってから食うかな……」
照人は着替えを持って風呂場へと向かう。湯船に浸かると頭が真っ白になり、父でも警察官でもない自分に一瞬、戻れた気がした。
「はあ、無事でよかった……」
照人が風呂から上がると、電気が点いていて、夕飯の準備が出来ていた。
「お疲れ様ー」
「玉紀、起きてたのか?」
「久しぶりね、名前で呼んでくれるの」
「そうだったか?」
玉紀が寝間着姿のままキッチンに立ち、味噌汁をよそってくれている。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがと」
玉紀がビールを注いでくれた。
「晴希、寝たのか?」
「うん。やっとね。私も少し貰おうかな」
玉紀も小さなグラスにビールを注ぎ、久しぶりに夫婦水入らずでの晩酌が始まった。
「なんだかこうして、二人で飲むのも久しぶりだな」
「そうだねー。晴希が生まれてからは、仕事や育児でバタバタだったもんね」
「なんだかホント、奇跡みたいだよな。俺たちが親になるなんてさ」
「照人がずっとしつこく、私の側に居てくれたおかげだよ」
「だって、ほっとけなかったんだよ。玉紀に出会って、俺はお前を守ることを人生の目標に決めたんだ。それにさ、玉紀なら、きっと乗り越えられるって信じてたしな」
照人は玉紀の手を握り、真っ直ぐに見つめる。
「玉紀、ありがとう」
「どうしたのよ、改まって」
「俺、嬉しいよ。玉紀や晴希と出会えて。夫に父に、家族になれて」
「照人……」
玉紀と照人は見つめ合った。
「お父さん、お母さん、なにしてるの?」
寝ぼけた晴希が目を擦りながら起きてきた。
「は、晴希? な、なにもしてないよなー、なあ、お母さん?」
「そうよ! お父さんとお話ししてただけよ」
「ねえ、お母さん。赤ちゃんってどうやってできるの?」
「えっ?! あ、赤ちゃん??」
照人は飲んでいたビールを吹き出しそうになった。
「クラスのお友だちのところに赤ちゃんが生まれたんだ。僕も弟か妹が欲しいなー」
玉紀と照人はお互いに顔を見合わせた。
「そ、そうだなー。コウノトリさんが運んできてくれるように、お父さんから頼んでおくよ」
「ホント? やったー!」
「ほら、わかったら寝なさい。明日遅刻しちゃうわよ」
「はーい。おやすみなさーい」
「おやすみー」
晴希はウキウキとしながら階段を上がって部屋に戻って行った。
しばらくの沈黙。
「……だって。どうする?」
照人は玉紀の反応を伺った。
「まあ、晴希も小学生だし、手がかからなくなってきたし……」
「えっと、それじゃあ……あの……そろそろ寝ようか?」
「そ、そうねー……」
二人はぎこちなく立ち上がり出した。




