一
さて、ライゼはこの数日間で、自らがリュイと名付けたこの少年がいままでずっと、とんでもなく分厚い仮面を被っていたことを思い知った。
目の前にいるのが、半年以上ほとんど口を利かず表情も変えなかった少年であると、人に話したところで信じてはもらえないだろう。
アクイラ大河の川岸で馬に水を飲ませているその少年、リュイは、ライゼの視線に気付くと笑みを浮かべ元気に手を振ってくる。
ライゼがそれに返すように軽く手を挙げると、小さく笑い声を上げて川の流れに向き直った。
きょろきょろと水面を覗き込み、時折何かに気付いたようにそこを注視している。
魚を探しているのだ。
といっても、リュイはシリュース川での一件からあまり魚を好まないようになってしまったようなので、夕飯のおかずを探しているというわけではない。
愛らしい横顔が水中の魚影を捉えると、獲物を狙う猫のようにそれを目で追いかける。
ぱしゃんっと、水飛沫を上げて大きな魚が跳ねた。
「ライゼ! あれは!?」
「あれは……嘴鯉だな」
嬉々として振り返るリュイ。近くの岩場に腰掛けたライゼが教えてやると、目を輝かせながら走り寄ってきた。
「嘴鯉?」
「そう。口が鳥の嘴みたいになっていただろ? アクイラ大河にしか棲んでいない珍しい鯉だ」
「へぇ……ここにしかいないんだ」
リュイはライゼの説明を咀嚼するように何度も頷くと、感心したような顔をして嘴鯉の消えていったほうを眺める。
先程休憩がてら川辺に寄ったついでにたまたま目の前を泳いでいた魚の名前を教えてやってからというもの、ずっとこんな調子だった。
「何でも名前があるんだね」
あれはリュウレンソウ、あれはクモゴケ、道すがらに教えたひとつひとつを思い出すように指差し呼びながらリュイはぽつりと口走る。
その言葉は当たり前にしてとても子供らしくありながら、知るという権利を剥奪されていた獣人にとって重たい意味を含んだ言葉。
ライゼは思わず、リュイの髪をくしゃくしゃと撫でた。
だから。ライゼは、自分の持てる知識を全てリュイに差し出すつもりでいた。
そのせいで旅の足が止まることも厭いはしない。
何も急ぐ旅ではないのだ。あても無ければ目的も無い。あるとするならば、リュイの成長を見守り援けること。
帰る家は無く、旅から旅への生活。いつ体を壊し動けなくなってしまうかはわからないし、獣人の少年を脅かすこの環境は何一つ変化していない。
しかしリュイがライゼと共に歩むことを望む限り、ライゼは何があってもリュイを守り続けると決めたのだ。
この手でリュイを守ってみせる。周囲の全てがリュイを拒んでも、俺だけはリュイの居場所であり続ける。
「ライゼ」
リュイが困ったようにライゼを見上げた。
「ん?」
「僕、そんなに子供じゃないよ」
どうやら幼い子供のような扱いが不服だったらしい。思わず苦笑するライゼにリュイはむくれて顔を背ける。
「ごめんごめん」
「これでも一応、えーと……十四歳だよ」
「じゃあ俺の十個も下か。子供には違いないな」
「違いなくない!」
それでも今暫く、この平穏な時間が続くといい。ライゼは願わずにはいられなかった。
「フルーヴェル……っていう町まではあとどれくらいなの?」
ようやく川辺を出発して数時間。大分傾いてきた陽を背中に馬を進めながらリュイが尋ねる。
「そうだな、この調子だとあと二、三日ってところだな」
「そしたら、海?」
期待の眼差しを向けるリュイにライゼは肩を竦めて首を横に振る。
「まだまだ。フルーヴェルでようやく半分だ」
「なーんだ、まだそんなにあるんだ」
「そんなに焦らなくても海は逃げないよ」
ライゼが暢気に笑って言うとリュイはそうだけど、と口を尖らせた。
エルピスからアクイラ大河に沿うようにして東へ向かう二人。目指しているのは海だ。
廃墟の町を発つ際、本当にあての無かったライゼがリュイに尋ねたところ、海を見てみたいと返ってきたからだった。
「ライゼは海、見たことある?」
「ああ」
「海ってどんなの?」
そうだな、ライゼは小首を傾げて以前見たことのあるフェルニア大海を思い浮かべる。
「見た目はアクイラ大河みたいだな。本当に広くて、何処までも青く広がっていた。でも西から東へ流れているんじゃなく、沖から海岸に向かって白い波が寄せたり引いたりしているんだ。夏は水平線の向こうに大きな雲が覗いていて、それが無いと何処からが海で何処からが空なのかわからない」
「……?」
ライゼの言葉にリュイは想像を膨らませているようだったが、どうも上手くいかないらしい。
唸るような声をあげて小難しい顔を向けてくるので、ライゼはどうしたものかと苦笑する。
「ああそれと、船がたくさん浮かんでいたな」
「船って、あの?」
リュイが指差すのはアクイラ大河の真ん中辺り。ぽつりぽつりと何かが流れていくのが見える。
岸の近くよりも流れの速いそこを行くのはレインホルト三都市同盟やニエベ火山からの荷を積んだ交易の舟だ。
「そう。あれくらいの魚を獲るための船とか、それよりももっと大きい、外国へ行くための船もあった」
「外国へ行くのはどうして大きい船なの?」
「海の上では小さい船だと危険だし、どうせ外国に行くなら馬車よりもたくさん人や荷物を運べた方がいいだろ?」
「あ、そっか。陸だと盗賊に襲われるかもしれないしね」
「そういうこと。まぁ、海にも海賊ってのがいるけどな」
物分りの良い生徒の顔をするリュイの頭を、また怒り出さない程度に軽く撫でてやるとライゼは馬を止めた。
「今日はこの辺りにしておこうか」
「はーい」
イクティナシアの荒野は相変わらず寂れた風景だが、そこかしこに焚き木するのに適した禿げた地面があることだけは旅人としては有り難い。
空の様子からして必要は無さそうだったが、季節柄油断は出来ないのでライゼがてきぱきと天幕を張っている間に、リュイが適当な大きさの木を拾い集める。
といっても体の小さいリュイの腕力ではそう多くは運んでこられないので、薄紫の空にちらちらと銀色の星が散り始めた頃になってようやく野営は完成し、二人で作った焚き木を囲んで腰を落ち着けることとなった。
「いい加減塩漬け肉ばかりじゃ飽きないか?」
ざくざくとナイフでブレッドを切り分けながらライゼが問うと、リュイはいつもの、竜の干し肉を載せたそれを齧りながら呟くように言う。
「……魚よりはマシだよ」
「そんなに嫌いか」
笑うライゼのブレッドの上にあるのは昨日釣った魚の燻製。
それをちらりと眺めてリュイはやはり嫌そうな顔をして首を振った。
「だってあんなぴちぴちしてぬるぬるした奴の肉だよ? 絶対食べたくない」
「まあそういうなら無理には勧めないけど。これから行くフルーヴェルや海の近くのトラモントなんかの名物は魚だぞ?勿体無いな」
塩辛い燻製魚を咀嚼しながらスメラギ伝来の魚料理の話をしてやると、リュイの渋面がどんどん広がってくるのがよくわかって面白い。
「魚を? 生で食べるの? 信じられない、お腹壊すよ?」
「まぁ俺も食ったことはないけど、美味いって聞いたぞ。食ってみればわかるんじゃないか」
「絶っ対やだ。いいもん、次は肉が名物の町に行くから」
頑固に言いながら勝手に次の次の目的地まで決めているリュイ。
ブレッドを詰め込むその口に髪まで咥えているのを見てライゼは苦笑しつつそれを掬い取ってやった。
収穫時期の麦畑のようなリュイの髪は出会ったときから随分長かったが、今では脇を越すくらいにまで伸びている。
普段は束ねているので問題は無いのだが、あまり大人しい生活はしていないので時折ばらけた髪が邪魔そうだった。
「まあそれはいいとして……この長い髪、気に入ってるのか?」
「え? ……別に?」
唐突に話が変わってリュイは首を傾げながら自身の髪を触る。
「それなら切ってやろうか」
解くと女の子みたいだし、とブレッドの欠片を口に放り込みつつ少々意地悪く付け加えると、リュイの眉がぴくりと動く。
「じゃあ切る! 切って!」
冗談のつもりだったのだが、リュイにしてみるとその言われようは気になったらしい。
ライゼがおいで、と膝の間に誘うといそいそとそこへ入り込んできた。
「随分伸ばしたな」
先程ブレッドを切ったナイフを用意し、麻紐で簡単に括ってある髪を解くと、小さな背中が豊かな毛髪に隠れた。
本当に女の子みたいだ、と今度は口には出さずに笑いながら、細やかなそれにナイフの刃を当てていく。
他人の髪を切ったのは初めてだったが自分にするのと同じ要領でうなじの辺りに揃えてやると、すぐに活発そうな少年の後姿が見えてきた。
「どうだ、軽くなっただろ?」
「うんうん。似合う?」
くるりと振り返るリュイに肩に落ちた毛を払ってやりながらにこやかに答える。
「ああ、似合ってるよ。短いほうが可愛い」
「か・わ・い・い~?」
するとリュイが何故か不満げな顔で睨み上げてくるので、ライゼは素直に首を傾げてしまった。
「何か不満か?」
「……それは天然ってやつなのライゼ?」
「?」
褒めたつもり言葉がどうやらリュイの気に召さなかったらしい。
しかししばらくすると諦めたような溜息を吐いて肩を竦め、ぽすん、とライゼの胸板に寄り掛かり呟く。
「まあ、いいや。ライゼがそう言うなら『可愛い』でも」
ライゼの膝の中にすっぽりと納まっておきながら妙に大人びたような口を利くリュイ。
それがやはり他に言いようが無く可愛かったので思わず背後から抱きすくめると、リュイは驚いたように小さく体を揺らした。
服の布地を通してリュイの体温が伝わってくる。
暖かくて、もう少しこうしていたい、とライゼが口を開きかけたとき、リュイが不意に口を開いた。
「暖かいね」
「もうすぐ夏とはいっても、夜はまだ冷えるからな」
「……もうちょっとこうしててもいい?」
「お前が望むなら、いつまででも」
背後からでは見えないが、リュイはきっと、可愛い笑顔を浮かべてくれただろう。