前編
カリーナの頭に、この世とは無関係な記憶が流れ込んできたのは、十四歳のお茶会の最中でした。
婚約者と二人きりのお茶会は、崩れそうな空模様のため、庭に面したサロンで開かれていました。
彼女は悟りました。
自分が生きるこの世界は、前世で読んだ、恋愛ゲームを題材にした小説の中なのだと。
小説どおりに進めば、最悪の未来が待っているはずです。
十五歳……つまり来年、私たちが入学する王立学園にヒロインも入ってきます。
その子は平民ですが、貴族に引き取られます。
貴族の庶子ではなく、慈善家が『将来有望な庶民の子を引き取り、教育を受けさせる』という名目でした。
その子は貴族らしさとは無縁の可愛らしさと素直さで、カリーナの婚約者アルフレッドの心を奪ってしまいます。
焦った悪役令嬢のカリーナは意地悪を重ね、ついには皆の前で婚約を破棄され、国外へ追放されるのでした。
(……そんな未来、絶対に嫌!)
カリーナは、目の前で優しく微笑むアルフレッドを見つめました。
二人は幼い頃から親しく交流し、支え合ってきた仲です。
彼は真面目で、浮気をするような人には思えません。
それなのに、なぜアルフレッドは突然現れた平民の少女を好きになったのでしょうか。
記憶をたどると、そこには重要な秘密がありました。
アルフレッドは八歳のとき、一人で公爵邸を抜け出して迷子になり、貧民街で悪人に襲われかけたことがありました。
そのとき彼を助け、かくまってくれたのが、名も知らない平民の少女だったのです。
アルフレッドは礼として、公爵家の紋章が入った青い宝石のネックレスを彼女に渡しました。
『君は僕の命の恩人だ。いつか必ずお返しをするよ』
学園でそのネックレスを見たアルフレッドは、「あの子があの時の命の恩人だ」と気づくのです。
貴族の暮らしに慣れないヒロインを支えるうち、二人の距離は一気に縮まっていきます。
(なるほど……命を救われた記憶があったから、アルフレッド様は私を捨て、あの子を選んだのね)
そんな「運命」のために、大好きな人も自分の未来も奪われるわけにはいきません。
「カリーナ? どうしたの? 顔色が悪いよ」
アルフレッドが心配そうに手を差し伸べます。
カリーナはその手を強く握り返し、にっこりと笑いました。
「ううん、なんでもないわ。……来年からの学園生活を、どう楽しもうか考えていたの」
幸い、今はまだ十四歳。
ヒロインはまだ慈善家の目にも留まっていません。
貧民街で、ただの平民として暮らしているはずです。
身分差が厳しいこの国では、平民の命など塵芥も同然なのです。
◇
翌日、カリーナは公爵家に仕える暗殺者をひそかに呼び出しました。
「ある女の子を探してちょうだい。
私と同じくらいの年で、名前はゼシカ。
西の貧民街にある孤児院の近くにいるはずよ。
首には、公爵家の紋章が入った青い宝石のネックレスを下げているはず。
六年前に、アルフレッド様が貧民街でなくされた物らしいの。
……おそらく、掏られたのでしょうね」
男は低い声で応じました。
「承知しました。……捕らえて連れてまいりますか?」
「いいえ」
カリーナは刺繍の手を止めず、冷ややかに告げました。
「捕らえる必要はないわ。
病か事故、あるいは盗賊に襲われたことにして……今日中に始末して。
それから、そのネックレスは回収し、跡形もなく溶かして処分してちょうだい。
どんな理由があれ、庶民の手に渡り、身につけられていた物なのよ。
戻ってきたところで、ふたたび身につけるなど、公爵家の名を汚すだけだわ」
「……かしこまりました」
男は瞬く間に姿を消しました。
理由を尋ねる必要も、私が手を汚す必要もありません。
アルフレッドの「命の恩人」という記憶も、証拠となるネックレスも。
最初から存在しなかったことにすればいいだけです。
悪役令嬢として追い落とされる前に、消してしまえばよいのです。
その夜、届いた報告は一言だけでした。
「始末しました。ネックレスも粉砕し、処分済みです」
「そう。ご苦労さま」
カリーナは満足げに微笑み、温かいミルクを口にしました。
翌日の新聞にも街の噂にも、名も知らぬ平民の少女が行方不明になったことも、命を落としたことも出ませんでした。
世界は、何事もなかったかのように回り続けています。
◇
翌年。
王立学園に入学したカリーナとアルフレッドの前に、二人を妨げる者は現れませんでした。
アルフレッドにとって、迷子になった記憶はただの「幼い頃の悲しい思い出」にすぎません。
あの子と再会し、面影を探すきっかけもありませんでした。
二人は薔薇の咲く庭園で手をつなぎ、将来の夢を語り合いました。
「カリーナ、これからもずっと僕のそばにいてくれるね。
僕には君しかいないんだ」
「ええ、もちろんですわ、アルフレッド様。
私たちの邪魔をする者など、もうどこにもいませんわ」
こうしてヒロインの消えた世界で、
公爵子息と公爵令嬢は結ばれ、
末永く幸せに暮らしましたとさ。




