近くて遠い
馬鹿なことをしている。
秋穂は、兄の背中を見つめながら自分の行動を後悔していた。
ついつい勢いでついて行くなどと言ってしまったが、要するにオタク達の会合へ行くのだ。秋穂はアニメなどまるで興味もなかったし、アニメに耽溺する兄の姿など見たくもなかった。兄の言うとおり、留守番をしていればよかったのだ。でも、兄がカノンとかいう金髪少女やレリーラとかいう銀髪幼女と出掛けるとなると捨てては置けなかった。
『折角兄さんと二人っきりで過ごせると思っていたのに……。兄さんのバカアホマヌケスカタン』
心の中で兄への恨み節を唱えながら、秋穂は兄の隣を歩いている金髪少女のことを思った。
カノン=プリミティブ=ファウ。父の知り合いの娘だという異国人は、秋穂の知らぬ間に新田家に居つき、本来なら秋穂がいるべき位置に立っている。はっきり言って鬱陶しいお邪魔虫だ。
改めてカノンを見てみる。兄と何か話しているらしく、その横顔を窺うことができた。目の覚めるような美人だ。アメリカに一年半ほどいたが、カノンほどの美人は見たこともなかった。
ただ、秋穂も負けてはいまいと思っている。アメリカのハイスクールでも告白してきた男子の数は両手でも足りないぐらいだ(勿論全て断った)。スタイルについては圧勝なのは言うまでもない。それに兄と過ごしてきた時間の長さでも秋穂の方が大差で勝っている。すべての面において、カノンに劣るところなどないはずなのだ。それなのに兄の関心は、秋穂よりもカノンに向いている。久しぶりに帰ってきた妹よりも、出会って少々の外国人の方が兄にとっては大事なのだろうか。
秋穂はまだ兄を必要としているのに、兄はもう秋穂を必要としていない。いや、はじめから必要としていなかったのではないか。昨日から続く寂しさから、そんな嫌な妄想を抱かせていた。
ぴぴぴ、と携帯電話のメール着信音がした。美緒からだった。今の秋穂には唯一の味方である。
『秋穂ちゃん、帰ってきたんだ。お帰り。朝練だっから見るのが遅れてごめんね。もし良かったらこれから会わない?色々と話したいことがあるから』
薄情な兄とは違い、美緒はちゃんと秋穂の帰国を喜び、会いたいと言ってくれている。美緒さんの爪の垢を煎じて兄に飲ませたいほどだ。
こうなったら予定変更。まずは美緒に会おう。
「兄さん。私はここで失礼します」
秋穂は、先を歩く兄に声をかけた。
「え、一緒に来るんじゃなかったのか?」
カノンやレリーラはともかくとして、兄まで嬉しそうだった。なんとも腹立たしい。
「予定が入りました。帰国を喜んでくれる友人と会ってきます。兄さんばかりに構っていられません」
勿論皮肉のつもりで言った。しかし、兄は堪えている様子もなく、そうかそうかと感情のない声で言うばかり。あまりにも腹が立ってきたので、一発ビンタをかましてから兄と別れた。
「お待たせ!待たせてごめんね」
待ち合わせ場所である明王院高校近くの公園に現れた楠木美緒は、相変わらず健康美溢れる体をしていた。引き締まった体に、すらっと伸びやかな手足。年頃の女性なのにまるで気にしていないのか、よく日焼けしていた。しかし、美緒の場合は、それがよく似合っていた。
「はい、これ。帰国祝いということで」
美緒がペットボトルを差し出した。スポーツドリンクというのがいかにも美緒らしい。
「ありがとうございます」
冷たかった。どこか近くで買ってきたのだろう。こういう暑い日にはありがたい。こういう優しい気遣いも、秋穂が美緒に好感を持つ理由のひとつだった。
兄と美緒が出会ったのはいつの頃か、あまりはっきりとは覚えていない。小学校の高学年の頃には兄の周りをうろちょろしていた。
陽気で活発な女の子。それが美緒の印象だった。当初は足利夏子同様、兄の周りにいる女子として不愉快な存在以外の何ものでもなかった。
しかし、それが決定的に変わったのは、兄がオタクになった頃からだった。美緒は、兄のオタク化に大いに懸念を示し、兄の脱オタクのために動き出したのだ。つまり、秋穂にとっては同志が生まれたのだ。
そうなると、自分とまるで性格が反対の美緒に何やら惹かれるものを感じ、秋穂は美緒に接近し、同じ目標に向かって共闘することになったのだ。
「そっか、日本に帰ってきたのは一年半ぶりか。流石の俊助も喜んでいたでしょう?」
などと言うものだから、秋穂は兄の無残な仕打ちを滔々と述べた。美緒は眉間にしわを寄せながら真剣に秋穂の話を聞いてくれた。
「俊助もしゃーないやつだな。説教してやらないと」
我が事のように怒ってくれる美緒。本当にいい女性だ。この女性なら、兄の彼女になってもいいと思える。
「兄さんは変わってしまいました。昔はもっと私に優しかったのに……」
「落ち込まないでよ、秋穂ちゃん。俊助は照れているだけだよ、きっと」
「そうだといいんですけど……。それはそうと美緒さん。千草という女性をご存知ですか?」
「千草?俊助と同じクラスの千草さんのことかな?」
「その人は、兄とどういう関係なんですか?彼女ですか?」
秋穂は、昨晩のことを話した。万が一の確率でもあり得ないことだが、彼女のだったらどうしようと恐怖を昨日の夜からずっと抱いていたのだ。
しかし、美緒は、そんな秋穂の恐怖を吹き飛ばすように笑い出した。
「千草さんが俊助の彼女?ははは、ないない。絶対ない。千草さんって超美人で超お嬢様よ。俊助の方が好きになったとしても、彼女の方が俊助のことを好きになるなんて天地がひっくり返ってもない」
「そうですか……」
しかし、昨晩の兄の狼狽振りは尋常ではなかった。あるいは兄はその女性が好きなのかもしれない。アニメばかり見てアニメのキャラクターばかりを愛でいていた兄にしては喜ばしい進化だが、同時に兄が他の女性に好意を持っているというのは面白くない。複雑な気分だった。
「そうそう、千草さんってカノンちゃんにちょっと似ているんだよ」
それもまた聞き捨てならない話だった。兄が千草なる女性に懸想しているとして、そのそっくりさんが近くにいるとなると、これほど危険なことはなかった。
兄がカノンを好きになるかもしれない。いや、あの二人の雰囲気を見ていると、すでにそうではないかと思えなくもない。
秋穂は、その懸念を口にしてみた。美緒は、目を何度か瞬かせてからやはり大声で笑った。
「あはははは。それこそあり得ないよ。だってあの二人、いつも喧嘩しているんだもん」
「喧嘩するほど仲が良いって言うじゃないですか?」
「仮にそうだとしても、あの二人の間に恋愛感情なんて芽生えないよ。私には分かる。こう見えても他人の恋愛沙汰には鋭いんだ」
美緒には全面的な信頼を寄せているが、このことに関して言えば首肯しかねた。確かに今段階では二人の間に恋愛感情はないだろう。しかし、秋穂や美緒には分からない特別な感情が二人の間に通っているような気がしてならなかった。そう。昨晩のことだってあるのだ。
「何だか兄さんがどんどん遠い存在になっていく気がします」
妹というポジションは一番近しい存在のはずだ。それなのに大人になるにつれ、どんどん遠ざかっていく。代わりに今まで遠かった存在の人々が兄に近くなっていく。人が社会的に成長するというのはそういうことなのかもしれないが、秋穂としてはあまりにも悲しいことであった。
「どうなんだろうなぁ。私、一人っ子だから分からないけど……」
こればかりは美緒には理解できないだろう。妹にしか分からない兄との距離。秋穂はそれが一番の問題なのだと思った。
昼からの練習に参加するという美緒と一緒に明王院高校へ向かった。兄がいるであろう部室の場所を教えてもらい、美緒とは校門のところで別れた。夏休みということもあってか、校内は閑散として、時折スポーツ系クラブの掛け声がどこからともなく聞こえてくるだけであった。
秋穂は、一人明王院高校の校内を歩きながらふと思った。一年半前、秋穂の判断が違っていれば兄と二人でこの校庭を歩いていたかもしれない。それは今の秋穂にはあまりにも甘美な妄想だった。
『判断、間違ったかしら……』
結果として、兄との間により大きな隔たりができてしまった。もし日本に残留していれば、こんなことで思い悩む必要なんてなかったのだろうか?
『考えても仕方がないか……』
こういう場合、過去の判断についてのイフは愚問なのだろう。タイムマシンがあって過去を改変できるわけではないのだから。今なすべきことは、開いてしまった兄との距離をどのようにして埋めていくかであった。
しばらく美緒に教わったとおりに歩いてると、クラブの部室が集まっているという建物を見つけた。門前に守衛らしき人がいたが、呼び止められることはなかった。建物の内部にも人影はなかった。だが、人の声や吹奏楽器の音が聞こえてくるので、どこかで活動は行われているのだろう。
部室がある六階にたどり着いてみると、ひどく薄気味悪かった。
最上階のくせに窓が少なく光が差し込んでこない。それにもかかわらず、人工の照明も乏しく、まるで倉庫の廊下を歩いているようであった。
そろそろと扉のネームプレートを確認しながら奥に進むと、日に焼けたくたびれた紙に『動画及び動画遊戯研究会』と書かれたネームプレートを見つけた。
『や、やめてくださいよぉ!夏姉ぇ!』
中から情けない兄の声が聞こえてきた。こういう声もなんだか可愛らしい。もうちょっと聞いていようかな。
『へっへっへっ。嫌よ嫌よも好きなうちってか?ほれほれ、脱いでみな』
『はわわっ。せ、先輩が脱がされていく……。ハン元帥は嫌がりながらも徐々に脱がされていくにつれ、下半身は興奮し……』
下半身?そんな……秋穂だってまだ……じゃなかった。兄の貞操危機だ!
「兄さん!!」
秋穂は力任せに扉を開けた。狭い部室は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
上半身を肌蹴させたメイド服姿の兄。
その兄のスカートを捲ろうとしている足利夏子。
そんな二人のやり取りを鼻息荒く食い入るように見ている眼鏡の少女。
秋穂の意識は遠のき、視界が暗くなっていった。




