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みつせがわのだくりゅう。 -06- // 2126年10月18日 AM0Z:ZZ

 朝間ナヲミは、濁流の一人でほとりに立っていた。


 やがて、濁流の、目前を流れる川の中程に、見知った馬が立っているのに気付いた。


 どうやら一人という訳でもない。と認識を改めた。


 そこで、待ちかねている気配のある馬に近寄るため、水の中へと足を入れようとした。だが、足を踏み出そうとした瞬間に、誰かに、突然に肩を強く掴まれて、動きを止められた。


 振り返ると、彼女の動きを止めたのはかの(・・)百合子さんだった。


 大昔に、朝間ナヲミと(もり) 葉子(はこ)が高校生だった頃、朝間医師の家で雇われていたお手伝いさんの姿がそこにあったのだ。


 朝間ナヲミは驚いた。


 何しろ、二人の再会は半世紀以上ぶりだったからだ。


 もちろん、朝間ナヲミは、百合子さんが今まで何処で何をしていたのかは知らない。


 朝間家から去って会津を離れた後は、完全に音信不通。どれだけ探しても梨の(つぶて)だったのだ。


 にも拘わらず、22世紀になり、もう顔を思い出す事もなくなったと言うのに、呼びもしていないのに、まるで朝間ナヲミが通りかかるのを待ち構えていたかの様に、朝間ナヲミの目前に(正確には背後に)威風堂々と現れたのだ。


 朝間ナヲミが驚いたのは、突然の再会以上に、彼女は生身の筈なのに、思いだの通り、大昔の外観は昔のままであることだ。


 何一つ変わっていない。シワ一つ増えていない。


 許してもらえるなら、確認の為に、ちょっとで良いから、百合子さんの頬をつねってみたい気分だった。


 だが、百合子さんは朝間ナヲミの当然の当惑に何の興味も示さずに、合衆国仕様の200SXのハッチバックを両腕で開ける。まず最初に、大型のパラソルをトランクの中から取り出して、朝間ナヲミへ手渡す。


「何処でも良いから、安定して挿せそうな場所を見付けて開いて」


「はい」


 朝間ナヲミは、何だか、高校生だった頃、ガキだった頃に戻った様な、不思議な、懐かしい気分を錯覚した。だから、口答えもせずに、百合子さんが命じるままに、裸足で石が安定していそうな場所を探し当てて、パラソルを開いてから石と石の間に突き立てた。


 ーーー何となく、そうするのが当然の様な気がしたのだ。


 昔にすり込まれた習性と言うものは、なかなか抜けないものだのだ。


 パラソルは目論見通りに見事に安定した。


「次は?」と百合子さんの方へ視線を戻すと、安雑貨屋の、道路へと多分にはみ出した軒先で、見切り品の特価で売っていそうな、軽いだけが取り柄で細部の作りが適当そうなリゾートセット、収納式プラスチックテーブルを200SXの後方トランクから強引に引っ張り出していた。


 朝間ナヲミは、その「リゾートセット」を両手で受け取って、パラソルの下で展開して、置いた。意外に、しっかりと安定してくれた。少なくとも、4本の脚の中の1本が浮いていて、テーブル面がガタガタする様なことは無かった。


 次は鉄パイプと布地で構成された収納式の椅子が二脚だった。それも展開し終えると、百合子さんは、1000mlサイズのテルモス(サーモス)瓶とプラスチック製のカップを両腕に抱えてテーブルに近寄って来た。


「とりあえず、お茶にしましょう」


 百合子さんは、2つの取っ手付きプラカップを安物のテーブルの上に並べて、瓶から直接に紅茶を注ぎ始めた。


 朝間ナヲミは、百合子さんの言葉に素直に従う。何となく、昔の様に、白い浴衣っぽい衣装の裾を整えながら、大手通信販売サイトのセールの目玉になって良そうな収納式の座面がテーブルに対して少し低めの椅子に、やや勢い余りながら何とか腰を下ろした。


 百合子さんは、先ほどほどの漆黒ではないものの、それでもまだまだ薄暗い空の下、濁流を眺めながら、カップに口を付けて紅茶を啜る。


 濁流の中、やや沖の方で、前足で流れる水を前掻きするウエストファーレン種の老馬「ハナコ」が目に入った。


 ーーーどうして自分に寄ってくれないんだ?


 と言う不満を全身で表現している。


 朝間ナヲミは、川の中にいるハナコに対してちょっと悪いことをしている様な気がした。それに気付いた百合子さんは、ハナコへ向けて一瞬だけ視線を送る。すると、ハナコは突然に目立った動きを止めて、耳を後ろに伏せて見せた。


 朝間ナヲミの知るハナコなら、次に行う動作は頭や首を激しく振って不満をアピールする筈だった。だが、ハナコは首を高く上げ、朝間ナヲミの直ぐ横の一点に向かってジーッと視線を送り続けている。


 ーーー最大限の警戒中?


 朝間ナヲミがハナコの視線の先へ目をやると、そこには百合子さんがいた。どうやら、馬にも人と人の関係を察することが出来る様だ。


 朝間ナヲミが何やら頭が上がらない相手であれば、従順な愛馬も渋々ながらそれを是として認めるらしい(ただし、不満は隠し切れない様だが)。


 自身が自信の背を預ける乗り手と認めた、優れた者であっても太刀打ち出来ない様な脅威であるまらば、どうあっても蹴散らせるはずもない。


 ハナコは百合子さんをその様な特級の脅威と認め、状況が自身に有利に転じるまでは、機会を覗うことに決めた様だ。野性味のある、(したた)かな戦略である。


 何故か、二人が対面しない椅子の配置で、お互いが濁流と、その中に立つハナコを眺める様に座る。百合子さんは度々カップに口を付けて、瓶から注いだ紅茶を口に含んでいる。


 一方で、朝間ナヲミは喉が、半世紀以上ぶりにヒリついていると言うのに、紅茶で湿らせる気になれない。


 ーーー百合子さんは一体何を話し出すともりなんだろう?


 それが気になって仕方がない。彼女がどうして(・・・・)ここにいるのかなど、それと比べたら大した問題でもなかった。


 もう、ここにいる段階で、実現性とか辻褄とか、他のいろんなモノ全部が無意味に思えて仕方がなかったからだ。


 朝間ナヲミは、サイドバイサイドで座っていないから、このままでは絶対に視線が交わらない女が、何かを自発的に話し出すタイミングを待っていた。そして、そのタイミングは思っていたよりも早く訪れた。


「ところでナヲミちゃん」


「はい」


 若かった頃のように、即座に、反射的に正しく応えてしまった。


 その直後、朝間ナヲミは百合子さんが、自身の反応に驚いて、思わず微笑んでしまったという気配を感じた。


「そんなに緊張しなくても良いから」


「・・・はい」


 朝間ナヲミとしては、百合子さんのこれから発する言葉が戯言などではなく、これから目前の川の向こう側にいるらしい、閻魔様とか言う霊界最高裁判所の裁判官の審判と同じほどの重みがあると言う心構えで言挙げ(ことあげ)を待った。


 自分はもう死んでいるのか? それともまだ死んではいなのか? 既に死んでいるなら地獄行きは決まりなのか? それとも地獄行きを免れるのか?


 流石に、転生はあるのか? その際にチート能力は賜られるのか? 能力の種類・傾向は選べるのか? いくつまで装備出来るのか? 転生の拒否権はあるのか? など「なろう」にありがちな例を頭に思い浮かべる余裕はなかった。


「今のこの状況は臨死体験。そう的外れに遠くはないけれど死後の世界ではないから」


「・・・(良かった)」


 百合子さんの第一声は、朝間ナヲミを安心させた。まだ、ペンディング、或いはモラトリアムの状態にあると言うのだ。もしかしたら、現状を挽回出来るのかも知れないと言う、都合脳良い展開を心の底から強く願い始めた。


「目の前を流れているのは、生きている誰もが目にしたことはないけれど、いとどは耳にしたことがある、かの『三途の川』。あちら側の岸に着けば、その時から死後の世界は不可逆的に始まるって言うシステムだから」


「・・・(実在したんだ)」


 百合子さんは、朝間ナヲミの心の声が聞こえている様だ。


「違うかな。実在はいないから」


「・・・(!!)」


 百合子さんは、朝間ナヲミをじらす様に紅茶のカップにもう一度口を付けた。


「目の前の光景は貴女の心象の現れ。現実にあるのは、生前と死後をはける厳密な『理』だけ。『理』を目前にした貴女の心が、それを理解する為に作り出した象が、今貴女が見ているこの(・・)三途の川の光景って訳」


 呆気にとられる。いや、呆けるしかない朝間ナヲミ。


「ただ、この心象の光景は・・・日本人が描く此岸の彼岸の境界の光景としては極めて有り触れた、とても平均的な出来かな。これだけ長く日本に住んでいれば、死生観を受け止める貴女の核である魂まで日本人のそれと等しくなってしまうってことか」


「・・・」


「最初に居たあたりの風景は、強深瀬(ごうしんせ)とか江深淵(こうしんえん)に相当する情景かな」


「気持ちの悪いところでした」


 百合子さんは、微笑を堪えながら言葉を続けた。


奪衣婆(だつえば)負われて、折角の死に装束を剥ぎ取られるより象はマシだったんじゃない?」


「そんなのもあるんですか」


「ええ。逆に、余程のナルシストなら、金銀七宝で飾り付けられた橋で浅瀬を渡るなんてシチュエーションもあるみたいよ」


「でも、ここまで来る途中に話に聞いていたお花畑はなかったし、向こう岸から漏れ出る光々しい(神々しい)風景なんて見えない」


「あら。ハナコが迎えに来てくれてるじゃない」


「そうでうすね」


「あの子は、寿命を迎えてここへ来てから、ずーーーっとここで貴女が来る日を待っていてくれたのよ」


 ーーー70年間? 80年間?


「え? それは悪いことしたかな」


 百合子さんはハナコへ微笑みを向けてから、軽口を叩くように、言葉を続けた。


「気に病むことは無いんじゃない。それはあの子が望んでやったことなんだから


「う〜ん」


「後でしっかりと感謝を伝えるとか、思いっきり褒めてあげれば良いと思う」


「はい。そうします」


 そこで朝間ナヲミは始めてカップの縁に口を付けて、紅茶を舌の上に乗せた。


「ーーー!!」


 何十年ぶりかの、自分の舌の味蕾で直接に感じ取るお茶の風味は、とてもとても鮮烈な刺激として脳全体を貫通した。


 ほのかな甘み、渋み、硬水でなく軟水で入れたために引き立てられないが為にじんわりと伝わってくる紅茶の存在感。喉から鼻腔で上がって来て、鼻の穴の前後から来る空気の流れが作る香りの渦が、紅茶を喉を通した後もしばらく続く。


 朝間ナヲミは、擬体へ宿ってから出来るだけ思い出さないように、出来れば完全に忘れてしまおうとしていた、生き物として本来ならば当たり前の悦びを再確認してしまった。


 ーーー医療技術が、再生技術が、科学技術が、化学技術が、データ処理のフィルタリング技術がどこほどに進もうとも、生き物として本来ならば当たり前の悦びの体験そのものを再現出来る日は来ないだろう。


 朝間ナヲミはそう確信する。「よく発達した科学は魔法と変わりない」、と言うアーサー・C・クラークの文言が、置換医療の分野の研究者の間でも、まことしやかに語られていることは知っていた。


 ーーー"Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.ーーー


 だが、それに全面的に賛成出来る人は、よく発達した科学で不幸にも喪失した魔法(悦びの体験)を取り戻そうと日々もがいている人と同一人物ではありえない。


 世界中のアンダー・グラウンドで流通している各種化学物質。まあ、平たく言えば、警視庁の警察官や麻薬取締部司法警察職員が取り締まりの対象しているあれら。


 一部の人はあれら(・・・)があれば、現実では取得不可能な程の悦びの体験を楽しめると主張する。しかし、それを主張し、強く訴える者たちはどいつもこいつも、まあ、だいたい、九割以上が悦びの体験の欠乏症に罹った患者たちである。


 特殊なサブスタンスで自由に楽しむと言う目標を追求するより先に、心の治療を受ける方が持続可能なんじゃなっかと思う。


 そういうあれこれ。酸いも甘いも、人間性の業の正体を、人生を通じて学んでいる朝間ナヲミは、こう願う。


 ーーー次の人生があるなら、生身を二度と失いません様に。


 大きなため息。三途の川の向こう側から木霊として帰って来そうなほどに大きなため息が朝間ナヲミの口から漏れた。


 雑音が激しい激流の中にいるハナコがそれを聞き取った。だから、すぐ近くに居る百合子さんが気付かない筈はない。


 そろそろ頃合いか。そう言う感じで、機は熟したとして、百合子さんはこの(・・)世界の核心を突く気になった。


「さて、ナヲミちゃん。貴女は選ばなければならない」


「え?」


 百合子さんは両手で握っていたカップを安物のテーブルの上に置いて、好んで選んでいるらしいとても地味だが高そうな(上質そうな)生地の、足首まで届く長めのスカートの中で脚を組み直した。


「今、ハコちゃんは何をしていると思う?」


「分からない」


 百合子さんは遠い目で、まるで本当に(もり) 葉子(はこ)を見つめている様な素振りで語る。


「完全に壊れてしまった貴女の器、正確には生体脳ユニットの科学的で化学的な再構成に取り組んでいる」


「確か、ハコちゃんはそんな未来に備えていた。いくつかのプランが用意済みだと聞かされていたけど・・・」


「今この瞬間も、その中でも、最も・・・最悪のプランに挑んでいる。不眠不休でね。もう、三日目かな」


「ムリしてハコちゃんまで死んでしまっては困るな」


「どうして?」


「もう二度と会えなくなってしまうから」


「なんで?」


「今死なないとしても、最終的に私は地獄へ落ちると覚悟は出来ている。でも、ハコちゃんは天国へ昇るでしょう? 」


「!!」


 朝間ナヲミは、本当に初めて、百合子さんが本気で驚く顔を観測した。


「そんな風に考えてたのね」


「うん」


「大丈夫、全ての魂の行き先は一つしかない。地獄も天国もない。私が保証する」


「死んだ事もないのに保証出来るの?」


 百合子さんは、朝間ナヲミの言葉を意地悪なツッコミと見なさず、素朴な不思議と捉えた。


「確かに。死にたいと望んだことはあるけれど、まだ死んだ事はない」


 百合子さんは、朝間ナヲミへ、はじめて、まるで母が娘へ送る様な温かい眼差しを無遠慮に向けた。そんな事は過去にはなかった。


「でもね。この世界の『(ことわり)』ならばだいたい全てを(かい)している」


 呆気に全身を絡め取られている朝間ナヲミに向けて、百合子さんは、さっきまでとは異なる、羨望の眼差しを朝間ナヲミへ向けて送りながら断言した。


「それを証明する手段は持ち合わせてはないけれど、私を信じて欲しい」


 朝間ナヲミは、その突拍子もない話を信じてしまった。


 ーーー百合子さんなら嘘は言わないだろうし、それが嘘でない方が私には都合は良い。


 もし、百合子さんの主張は嘘でないならば、自分は死後に再び最愛の人物と会える。


 死後の世界で第二の人生を始められるかも知れない。それが叶わず、どこかの人でなしな存在の都合で、今までの人生かリセットされてどこかで新しい人生が始まるのかも知れない。だとしても、今離れたくないと願う人物と新しい世界で絶対にもう一度出会えると言う強い確信があった。


「それでね。ハコちゃんは貴女の生体脳の再生に間もなく成功する」


「流石は私の嫁だ」


 まるで、自画自賛しているかの様に、自分の嫁を誇る朝間ナヲミの振る舞いを、百合子さんは好ましく思った。まるで、完全に忘れてしまって、どうしても思い出せない、それでも確実に自分に起こったはずの過去の出来事を愛おしんでいるかの様に。


 或いは、目前にいる自分に比べれば圧倒的に若い女が、自分と違って人間らしく生きる道を選び、それを(まっと)うしようとしている事を羨ましく思っているかの様に。


 しかし、伝えなければならないことは都合の良いことだけではない。光があれば闇があり、メリットがあればデメリットがある。


「しかし、それは一時しのぎの解決にしかならない」


「どうして?」


「死滅する各部の脳細胞をナノマシンが作り出す人工新細胞へと、片っ端から置き換える再生利用技術は、まだまだ最先端であるだけでなく、最末端なレベルでもあるから」


「そうなんだ」


 百合子さんは、今ひとつ納得がいかないが、伝えているのが自身であることから、朝間ナヲミが遠慮して納得した振りをしていると分かっていた。だがら、朝間ナヲミが、より分かりやすいように比喩を使って説明を続けることにした。


「錬金術と科学・化学の違いって分かるかしら?」


「古代〜中世〜近世の入り口まで流行した人間の自然認知活動が錬金術。その後に、神秘主義や願望や宗教観を排除して成立したのが・・・科学・化学って感じ?」


 百合子さんは、出来の良い生徒が望んだ通りの回答をしてくれたことに安堵した。


「錬金術でどうして金を錬成出来なかったのか、その理由は明確に出来るだけ短い文章にまとめなさい」


「何か、あの先生(朝間医師)みたいな話し方だな。錬金術で使えた手段は、加熱、化学反応・・・酸素還元とか、地球上で極めて有り触れた物質の操作手段しかしなかった・・・から?」


「もっと詳しく」


「地球上で極めて有り触れた物質の操作手段とは・・・う〜ん。そう、化学式で表せる電子の操作しか出来ない。あ、うん。金という元素を電子操作で錬成出来る筈もない」


「良く出来ました。錬金術では電子操作までしか出来ないから、1000年かけても金という元素を生み出せない。()成では金は作れません」


 百合子さんは、朝間ナヲミが自分の主張に耳を貸し、付いてきていることを確認しながら講義を続ける。


「じゃあ、22世紀の科学・化学で金は作成は出来るかしら?」


 朝間ナヲミは、大した時間悩むことなく、自分の知識で、外部インフラとの協業で作り出す矯正知性を利用することなく、主張の根拠を組み立て出力してみせた。


「作成は可能であり、不可能」


「どうして?」


「水銀元素や鉛元素に細工をして、金元素を作成・・・じゃなくて、誕生させることは可能。でも、誕生させた金元素は一般的な金元素・・・安定同位体じゃない。いくつかある放射性同位体の一つ。陽子の数は89個であること以外は異なる。だから、一時的に金元素の同位体であるだけで、すぐに変化して、金以外の元素へと変わってしまう」


「良く出来ました。正解」


 百合子さんは、朝間ナヲミは自分の与えた高評価に喜んでいると知って、嬉しくもあり、次に続ける言葉を出来るだけマイルドな表現になれば良いと願ってしまった。


「ハコちゃんが今やろうとしていることは、全人類は錬金術で出口にやっとさしかかろうとしてるタイミングで、彼女一人だけが科学・化学の域へ手を突っ込もうとしてるに等しい」


「?」


「22世紀の科学・化学をもって、人間の脳組織の全てを人間の力で再構成・完全再生するなんてことは・・・錬金術を使って金元素を錬成しようと努力するのと大して変わらない暴挙」


「・・・」


「もし、ハコちゃんはそこら辺にいくらでもいる天才的な研究者であったなら、純粋に22世紀の科学・化学で問題を解決しようとして、必ず失敗する。もし、そうならば、私が敢えて干渉しなくてはならないことにはならなかった?」


「よく分からない」


「ハコちゃんが、そこら辺にいくらでもいる天才的な研究者ではなかったってこと。どうやら、本能とか直感に従って、無邪気に何十年も科学・化学の常識を進められちゃうみたい・・・」


「それって、私の嫁がすごいってこと?」


 嫁への高い評価を自分のことの様に、無邪気に喜ぶ朝間ナヲミを見て、百合子さんはこの世界の(ことわり)の無慈悲さを呪いたくなった。


「ナノマシンによって置き換えて、同時に抱えている情報(発達したシナプス組織とホルモン物質)をもハンドオーバーを、まさか、外部委託した意識で、矯正知性にも頼らずに実現させてしまうなんて・・・私も、朝間先生にも、まったく想定外だった」


「なるほど」


 やたらに、三途の川のほとりへ来てから一番の笑顔をうまべて自分の話に聞き入る朝間ナヲミ。百合子さんとしては、その笑顔をどうしても護りたかった。だが、それが不可能であることを深く知りすぎてもいた。


「確かに、人類が作る(仮初めの)金元素と同じ様に、貴女の生体脳の再構成・完全再生は成功する」


「うん」


 百合子さんの表情がにわかに厳しくなる。


「でもね、中性子ビームの照射とか、ハドロン加速器の超加速で無理矢理に誕生させられた金元素の同位体と同じで・・・再構成・完全再生された貴女の生体脳は・・・仮初めのもの。そう長い時間、世界に留まることは出来ない」


「え?」


「放射性元素の半減期みたいに確実に、再構成・完全再生された貴女の生体脳は、時が経てば立つほどに思考空間を支える器としての機能を失っていくことになってしまうの」


「・・・」


「賢くも、ハコちゃんもそれを承知して再生作業に没頭している。だから、運命に逆らうために、人工新細胞のテロメアを自分のものと同じ構造へと書き換え作業も並行している」


「それでは十分ではないの?」


「ええ。どんな天才であっても、22世紀の人類の力からではどれだけ背伸びしても、どうしても届かない高見と言うものある。限界を梯子掛けを繰り返して超えても、はるか先にある限界までも超えられる筈もないでしょう」


「そうなんだ」


「古代の冶金技術者や中世の錬金術師が現在の核融合の原理を想像も出来ないのと同じ。化学反応レベルの電子の概念も持ち合わせていなかった過去の知的冒険者達に、現代の概念、元素の種類を変える為には元素の原子核の量子の数の操作する必要がある・・・なんて想像出来る筈もないでしょう」


「ハコちゃんが私に為にやってくれていることは全て無駄なの?」


 百合子さんは、困っている様だった。表情を覗わなくても、朝間ナヲミにはよく分かった。


「無駄じゃない。それで貴女は一時的に彼女の元へ帰れる。でも、それが問題を複雑にしてしまう。あの娘が、いえ、あの娘の貴女に対する執念が世界の(ことわり)を歪める程に強いとは、流石に想定外中の想定外」


「そうなのかあ」


 朝間ナヲミは少し嬉しそうだった。自分の生死よりも、嫁による自分に対する思いの強さの多い少ないの方が重要な問題であると、百合子さんは思い知らされた。だから、少しだけ諦めることにした。ここは当人達の好きに任せるべきではないかと、考え始めた。


 ーーー仮に、それが想定している中で最も悲惨が結末へ転げ起きようとも。


 もしかしたら、彼女たち(・・・・)の主観では、それすらも幸福と感じてしまうのではないか。そんな『気付き』があったのだ。


「ハコちゃんの治療で貴女を寛解持って行くことは出来る」


 百合子さんは、口調を強めて、言葉を慎重に続けた。


「でもね。大した時間も経たないうちに、貴女の生体脳は端々から機能不調に陥っていく。そして、それを改めて治療する手段は現状では存在しない」


 それを聞かされても、朝間ナヲミは大して動じなかった。それを見せつけられて、百合子さんは自分でも分からないが、酷く苛ついた。


「だから、ハコちゃんは貴女の変容を見守る以外に出来ることがなくなる。おそらく、変わっていく貴女を観察しながら、自分が成功させてしまった治療(快挙)の裏の面を、その罪深さを直視せざる得なくなる」


 これは飽くまでも主観に過ぎない。自分の思いを今ここで伝えるべきことではなかった。百合子さんは言ってしまった後から悔いた。失敗した。


 これで説得、いや、自身が望む方向へ朝間ナヲミの選択を誘導出来なくなってしまった。


 どれだけ長く生きても、生き物が見せざる得ない、愚かながらも生き物らしさが完全に消滅することがないと、三途の川まで出向いて来た百合子さんは学ばされてしまった。


 このままずっと黙っている訳にもいかない。朝間ナヲミとハコちゃんが、想定している中で最も悲惨が結末を迎えようとも、その時に出来るだけ後悔せずにいて欲しい。だから、今後は、そんな状況に即した情報、運命のIfを伝えることにする。


「この先、貴女は目覚めてから、少しずつだけれど、認知力を確実に低下させることになる」


「低下した認知力は第二小脳経由で修正されて、外部委託された一般常識(価値)エンジン(※1)に補正される事になるの?」


 百合子さんは、朝間ナヲミの理解の早さに少し同情した。これだけ自分が迎える状況を把握出来ると言うことは、過去にこの問題を深く検討済みであることの証明でしかないからだ。


 人間、生命、意思、命、魂、と言った根源的な問いが、常に表層意識のどこかを漂っていたに違いない。


きっと、全身を失って、全身擬体に宿らなければ、持ちようのない「何故?」であったのだ。


生身のままであれば、一生持ちようのない、どうでも良い種類の「Why」でしかなかったのだ。


 もし、Ifだが、朝間医師が施した朝間ナヲミの治療が成功せず、朝間ナヲミが擬体へ宿らなければ、あの時に命を失っていれば、そんな厄介な、絶対に答えのない根本的な、常識や既存の概念を疑う様に強要される人生など歩んでこなく済んだのだ。


「無知の知」など知って喜ぶ人間が世界にどれほどいるか? 「無知」であることがどれだけ人間の心を安定させ、人間に容易に多幸感を与えてくれるのか? 


 その事実を知っている百合子さんには、物語を始めてしまって、数え切れないほどの伏線が自動的に張られてしまい、それを最終回までに回収出来ないと悩んでいる作家達の苦悩が、人ごととは思えなくなっていた。


「ええ。だから、人間であることの証拠が失われて。痕跡に過ぎなくなってしまう期間が終われば、貴女は突然に消えて、一瞬後には人工物が生み出す"一般常識エンジン"が貴女の擬体を制御する所まで落ちてしまう」


 これは、朝間ナヲミにとっては、懐かしくも、忘れがたい、現実逃避の厚い壁の向こう葛藤だった。


 人間が宿ることによって擬体は、完全擬体、全置換身体は人間へと昇華する。それを踏まえれば、全置換身体は人間による制御を失うことで、再び人形へと戻ることになる。


 人形が人形へと戻るだけの事だ。全置換身体は本質的には人形であることは変わりが無い。しかし、人間の世界へ向けた端末となっている瞬間の連続に限り、人間へと昇華出来るのだ。


 擬体は、朝間ナヲミそのものであるかどうか。人間であるかどうか。それは決して解決不能な哲学的問題である。そこに、彼女の複雑で、深い人格の出発点があった。


 かつては、2030年代には、政治的問題であり、宗教的問題でもあった。だが、それらは置換治療が広く普及してしまった(・・・・)今では、かつてのような差別の対象として消費することは許されなくなった(もちろん、人類の少数派になってしまったがFundamentalist様達は不滅。皆さん揃ってお年はかなり召されたようだが、ご健在だ。死滅は仕切っていないと言う意味で)。


 ここしばらく忘れていた、この哲学的問題が、自身が消失した後に嫁を直撃すると預言、いや、予告されたのだ。預言? 何者から? そんなヤツがいるならば、面くらい拝んでみたい。場合によっては殴ると言う選択もある。


「それは不味いな。"一般常識エンジン"の振る舞いなんて一瞬で見抜いちゃだろうから」


 百合子さんは、ここで最後の説得を試みることにした。


「だから、さっきも伝えたけれど、貴女がハコちゃんの望み通りに復活することは、もっと悲惨な将来を貴方たち二人にもたらす可能性が高いと言わざる得ない」


 だが、朝間ナヲミも反応は、百合子さんのあらゆる想定から外れていた。


「ハコちゃんの望み通りになるなら、それで構わない」


 百合子さんは、真顔で、朝間ナヲミに誘導ではなく、本物質問を送る。


「ナヲミちゃん。これは貴女の人間としての尊厳の問題よ!! よく考えなさい!!」


 これは、よく考えれば自分と同じ結論に達しないはずがないと言う、百合子さんの見込みが強く反映する叱咤でもあった。


 ーーーここまで強く促されるとは、自分は何か重要なことを見落としている可能性が高い。


 そう閃いた朝間ナヲミはもう一度深く考える。しかし、やはり結論に変わりはない。


 だから、朝間ナヲミは百合子さんの期待に応えることが出来ない。


 一人で生きる百合子さんとは違って、選んだ相手と二人で生きる朝間ナヲミは、道徳と倫理の摺り合わせを諦めて、それが故に内面的な美徳の素晴らしさ、つまり(もり) 葉子(はこ)と言う、「拡張知性」ではなく、正確を期して名付けるならば、「拡張人格」がもたらしてくれる、現実と夢の境界と言う曖昧さを受け容れる者の余裕で、たった一言で答えた。


「と言うと?」


 質問に対して、質問することで応じたのだ。


 朝間ナヲミとしては、少しは物事を深く考えろと即した百合子さんの申し出に対して、明確な拒絶を表示したつもりだった。


 百合子さんは、大きなショックを受ける。自分の読みと朝間ナヲミの価値観の間にズレが最大に表面化した。その事に驚いたのだ。自分は、朝間ナヲミの全てを理解出来ているつもりだった。だが、そうではないと、朝間ナヲミはその振る舞いで明確に示した。


 朝間ナヲミは、ここ10年以上は嫁である(もり) 葉子(はこ)以外の人間との深い交流を一切持ってこなかった。それが為に、物事を深く考えるよりも、直感に素直に従うことを習慣としていた。正確には、答えが分かり切っている問いを、それ以上に深く、広く考えることを放棄してしまっていたのだ。


 これから朝間ナヲミの人格を納める器、一度は機能を取り戻す生体脳が、全面的な機能不全へと転げ落ちていく過程が目に見える形で繰り広げられると言う確定した未来。


 人生最大にして最後の悲劇。精神崩壊への入り口。それは認知症である。


 朝間ナヲミは、そう遠くない未来に、認知能力を失うとの宣言を受けたのだ。


 果たして、生き返る代償として、認知能力の喪失と言う悲劇を許容しなければならないと言うのならば。


 この取引からは、支払いに見合うだけの収益が見込めるのだろうか。


 朝間ナヲミは見込めると判断し、百合子さんは見込めないと判断した。ここの価値観の断絶がある。もちろん、どちらが正しいとは言えない。


 だが、二人の主張のどちらが損か得かと言う判断ならば付くかも知れない。少なくとも、百合子さんは、朝間ナヲミが自分と同じ判断に達するに違いないと信じていた。だが、それは見込み違いであったのだ。


 一般的に、認知症、認知空間を喪失する過程と言うものは、とても苛烈な時間の連続となる。本人にとっても、周りに居る縁者にとっても。しかも、時の経過に沿って、二次関数のグラフの様に苛烈さは急激に(二乗)極まる場合が多い。


 客観的に、認知症患者本人にとっては、認知喪失の過程を明確に認知は出来ないと知られている。だが、色々な世界に対する違和感が増加して、肥大化して行くことは自覚出来る。


 今までの人生で学んだ常識が、日に日に通じなくなって行くと言う自覚。それは恐怖以外の何物でもない。誰かに(すが)ってでもその雪だるま式に巨大化する不安を解消したくなる。


 世界の崩壊。不条理の常識化。まるでに、朝に目が覚ましたら、今まで居た世界とよく似たデストピア的な異世界に転生していた。みたいな、ショックを受けたとしても不思議はない("勇者刑に処す 懲罰勇者9004隊刑務記録" みたいな異世界への転生とか、マヂ勘弁である。女神様だけ、こちらの世界へと御転生願えないものだろうか?)。


 だが、実は、不条理世界に転生したのかも知れないと言う不安を、本人はそれがどう言った不愉快や不具合があって、どの様にどのくらいの不安をもたらしているのかなどの、コミュニケーションに不可欠な最低限の情報を、誰に対してでも、慣れ親しんでいる数の家族にも的確に説明出来ないことに、出来ていないことに気づけない。


 だから、不安に精神を潰されそうな状態で、必死にパニックを避けているにも関わらず、必死に救いを求めて縋った相手が理解を示してくれないせいで、家族の態度が冷たいとか、不寛容だとか、自分に対して余りに興味を持ってくれていない、などと不平不満を強く強く訴え始める。


 そして、耐えきれなくなって、パニックに繰り返し陥ってしまう。


 これもまた認知症患者本人の恐怖を増加させる。絶対に避けられない。悲しいことに。


 パニックの連続は人格を疲弊させる。おそらく、精神科の医者であっても、その事の本人の症状が、脳機能の衰えによる痴呆であるのか、パニックで押し潰されたて重度の鬱病に陥っているのか、判断に困るに違いない(おそらく、多数の症状がもたらす合併症と言う診断を下すだろう)。


 認知症を患っていても、本人にとって、誰かに(すが)るなど、以前であれば「人間として恥ずかしい」と謹んでいたかも知れない。しかし、症状がある程度進むと、恥を自覚する認知能力までも失われてしまう。


 認知症のBeforeとAfterでは、人格が一変してもおかしくない。


 だから、縋られた相手は、驚いて、大抵の場合は、「(本当は)そんな人だったなんて知らなかった」と感じ、今まで欺かれていたんだと認識して、それを裏切りだと判断して酷く腹を立てる。


 ところが、認知症患者本人には、自分が置かれた社会的にヤバイ立場を察することが出来る筈もない。


 これが認知力の低下がもたらす、社会的、或いは個人間の関係の葛藤である。


 こうなると、人間関係が遅かれ早かれ確実に破綻する。してしまう。せざる得ない。


 これが、人間的な尊厳の喪失と言う事態である。


 これは縋られた人間が一方的に悪いとか、不寛容であると言う訳では絶対に的にない。


 縋られた相手としても、縋ってくれた人を助けたいと思はないでもない。しかし、認知症患者本人と対面して、ある程度の時を共有し、少しでも認知力の崩壊と言うイベントの恐ろしさを理解すれば、後は途方に暮れるしか無くなる。


 ーーーすぐに救済手段など一切存在しないことを思い知らされる。


 自分の、人間の無力さに愕然とするしかない。


 何故なら、縋られた相手の状態は決して良くはならないからだ。


 それどころか、坂を転げ落ちるように、どこまでも状態は悪化して行くとの絶望へと辿り着く。


 かつて、筆者の恩師は言っていた。


「人間の幼児期、認知力の発展(開発)期の研究者なら腐るほどにいる。しかし、人間の終末期、認知力の衰退(減衰)過程の研究者はほとんどいない」


 当時、それを聞いた筆者は、だったらその分野でなら一旗揚げられるかも知れないと野望実現の可能性を感じていた。実に若く、余りに未熟であった。


 サイコロジー101(単位は4つ)の受講時の話だ。教科書はとにかくブ厚かった。また、紙質が上等だったので、鈍器として利用出来る程に重かった。多分、学外の外では有り触れていた22口径の弾丸なら貫通出来なかったと思う。


 話を戻す。何故、一旗揚げられる分野であっても常に研究者が不足しているのか。それは、そこに何の希望もなく、あらゆる絶望しか存在しない分野であるからだ。また、その研究分野の第一人者が、人生末期に認知症を患った場合、その診断を下された時にまだ認知能力は多少でも残っていれば、比喩ではなく本当に自殺意外に救いがない、本物の恐怖を知ることだろう。


 ーーー自身が、その意識が消滅して行く過程を体感して、恐怖しない人間などいない。いてはならない。


 21世紀初期であれば、まあ、この程度の恐怖で終わることも許されただろう。しかし、時代が後になるとこの程度では許してくれなくなる。


 デジタル化、it化、DXを実現した、時代には、それに見合う地獄が用意されるものである。


 厚生労働省のエリート官僚達は、人工知能、データベース、ネットワーク機能などが生み出した脅威にデジタル化知性である、"一般常識(価値)エンジン"を介護現場でも積極的に導入した。


 22世紀の終末医療は21世紀初期のそれほどに牧歌的ではない。それすら生ぬるい。認知症の患者の自意識が消滅して行く恐怖を、外部からの制御によって、患者本人にも、家族にも、介護者に高効率で認識阻害させてしまう。


 厚生労働省主導の介護システムは、万人に救いを与えようとして、与えようとした人々へより深い地獄を送りつけてしてしまう。


 何故か、それは救いを与える者には、救いを求める者状況をまったく理解出来ないからだ。


 ーーー厚生労働省のエリート官僚の想像力では高齢者問題の本質をカバー出来ない。


 決してエリート官僚を批判しているのではない。人間、誰でも、未経験の問題を想像など出来るものではないのだ。だから、仕方がない。しかし、仕方がないと諦るのは適切ではない。何故なら、地獄を生み出すクリエイティブなエリート官僚様も等しく、平等に、もれなく将来的に確実に被る問題であり、逃げ切れる筈のない恐怖がそこに明白に転がっているのだから。今は見えないのかも知れないが。目を反らすことが許されているのかも知れないが。


 厚生労働省が容易してくれた22世紀の終末医療=問題解決手段とは。


 一般常識(価値)エンジンの積極的な活用。全国民への全面的な開放。


 それは、拡張意識。拡張知性。或いは、矯正意識。矯正知性。全ては外部委託によって実現する、生身以上に広く深く大きな知性=強い認知能力と言う公共サービスである。そしてそれがもたらす弊害でもある。


 特に、老齢期に提供されるサービスは、"一般常識エンジン"と言うシステムを高齢者を受納的に管理する為にまとめたパッケージである。


 この時代、先進国の住人のほとんどは、身体外、ネットワーク上にある公共インフラ『思考空間拡張サービス』による支援を受けていた。


『"一般常識エンジン"』はそんなサービスの一つである。後期高齢者となるタイミングで、『"一般常識エンジン"』(国民へ配布されているパンフレットに記載されているサービス名は『コンシェルジュサービス for エルダー♫』(※2))。


『コンシェルジュサービス for エルダー♫』と言う名称はパッケージ名である。名称が英語である理由は不明。おそらく、マイルドな(つかみ所のない)印象を与える為である。知らんけど。それで、このサービスの()利用には国民健康保険が適応され、60歳の誕生日を迎えると簡単な申請(意思表明)するだけで自己負担率0%で利用出来る様になる。


 なお、60歳以上の日本国に住民票を置く日本国国民であれば、日々の生活で行政サービスを利用する度、操作画面の端にある「申請しない」の項目をチェックし忘れるだけで、自動的に「申請を希望」と解釈される超善意のインターフェイスが採用されてる模様。


『コンシェルジュサービス for エルダー♫』による完全見守りサポートが普及した時代には、認知症が進んで、患者はその周辺にいる家族や友人との人間関係を破綻させる前に、認知症へ上がった(・・・)人間の価値観を強制的に上書きする。そして、人格的な振る舞いそのものを上書きする。


 ーーー"一般常識エンジン"によって人格=表層意識が上書された人間は、本人の意思を無視して、完全に"一般常識エンジン"が制御する擬体は、果たして人間なのか?


 そして、生身ではなく全身置換者(全身擬体保持者)に限らず、第二小脳をインストールされた人間の場合、"一般常識エンジン"が上書きするのは、表層意識や判断システムだけではない。それは置換された身体、義手や義足などの動きを一定レベルで合法的に制限する。これは、低下した認知能力が引き起こす可能性のある、義手や義足による事故を未然に防ぐ為とされている。


 また、朝間ナヲミの様な全身置換者(全身擬体保持者)の場合は、全ての擬体制御、表情や手足の動きと言う、人間としての振るまいの全てが上書きすることとなる。


 21世紀初期の人類の感覚であれば、これは自動車に自動ブレーキを取り付けるみたいなものである。その乗りで22世紀の全身置換者(全身擬体保持者)の老人達は、『コンシェルジュサービス for エルダー♫』と言う、アイサイト的(スバルの)な何かの取り付け(・・・・)を強く勧めされるのだ(これから50年後には、これは安全機能として後付けでなく、擬体の工場出荷時の標準装備となっているだろう)。


 生身であれば、"一般常識エンジン"による介入(・・)をお断りすることも不可能ではない。しかし、完全擬体に宿っている、第二小脳をインストールされている朝間ナヲミの様とそれに準じる者達は、法律の規制的にも、介入(・・)から逃れたければ国外へ出るしかない。


 日本国内へ留まった場合、適切な医療サービスを受けられなくなる。全身擬体の暴走による治療者側の被害を恐れる医療機関が増えた為、緊急治療をお断りされても文句は言えなくなるからだ。


 朝間ナヲミは、今回の疾患で医療施設へ緊急輸送されるまでは、健康体と言う医療評価を受けていたので、『コンシェルジュサービス for エルダー♫』による完全見守りサポートの利用を強く勧められるこはなかった(各種チェック項目の回避も忘れなかった。繰り返しで申請誘導を回避出来る程にしっかりとした自意識があれば、サポートは不要と言う最高裁判所の判例が存在したせいでもある)。


 しかし、今回はこれだけ大事の治療騒動を引き起こしてしまったので、今後は粘り強く勧めされる(事実上の強要だ)ことになるだろう。


『コンシェルジュサービス for エルダー♫』を全身置換者(全身擬体保持者)をフルサービスで利用すると、認知症の進み具合が擬体の振る舞いの観察で推察したり、把握することは難しくなる(介護そのものは劇的に楽になるが。完全に自動化されると言う意味で)。


 どこまでが朝間ナヲミの意思の表れで、どこからが"一般常識エンジン"による上書きされた行動なのかの線引きが非情(・・)に怪しくなる。


 そうなると、ここでパスカル先生も真っ青の哲学的問題にぶち当たる。考える葦とは、何のことなのか? 誰のことなのか? 人間なのか。それとも"一般常識エンジン"なのか。生き物なのか。機械なのか。


 ()いては。


 ーーー(もり) 葉子(はこ)が、これから先に介護する朝間ナヲミは、果たして朝間ナヲミと言う人間なのか?


 ーーー完全に上書きされ、自意識を失った朝間ナヲミは、果たして幸福を得ることは出来るのか? 誰かに幸福を与えることは出来るのか?


 百合子さんが言っているのはそう言うことだ。


「今なら、機械に邪魔されずに、ハコちゃんとのお別れを明確に認知出来る。しかし、復活してからだと、きっとお別れしたと言う認識がないまま、ハコちゃんが気が付いたら貴女は消えていた・・・みたいなことになってしまう」


「"一般常識エンジン"の拡張認知能力がもたらす弊害か・・・」


 朝間ナヲミは、百合子さんが言ってることの本質を即座に理解した。


「今なら、ここからハコちゃんの元へ引き返さなければ、今なら、お互いにキレイにお別れ出来ると言うことをキチンと理解しておいて欲しい」


「日に日に、時が経過する程に自分の生体脳による認知による判断、自発的行動の発動率が減少して行く。気が付くと、自分の生体脳が機能しなくなっていて、認知活動の全てが委託先である"一般常識エンジン"によって出力されたものになってしまう」


 それは、哲学的には、朝間ナヲミと言う人間が消滅し、(もり) 葉子(はこ)との受け答えの全てが、最もその場に好ましいと外部処理で選択したものとなる。それは、行動の全てが本質的にはオウム返しであると結論付けられる。


 認知症が進み、認知能力が低下したことがが引き起こす各種・精神病の症状。例えば、被害妄想、幻聴などの陽性症状がもたらす思考の混乱。具体的には、支離滅裂な会話や行動=異常行動が引き起こす対峙者への被害。


 (もり) 葉子(はこ)が、そんな被害すら受けることが出来ない可能性が高い。本来ならば、感情の平板化に始まり、意欲の低下へと移行し、社交的障害へと至って、辟易させされる筈である。しかし、"一般常識エンジン"はそれを全て抑えてしまい、擬体が出力する行動は、全て背筋が寒くなるような、人間として理想的な振る舞いとなってしまう。


 そして、そこに、近い将来に認知症の患者となっているだろう朝間ナヲミの意思は微塵も混じってない。


 この事実を知らなければ、完全自動と言う完全放置も可能な介護は誰にとっても理想的な後期高齢者向けサービスとなるだろう。しかし、知ってしまうと話はもう少し複雑になる。


 認知症患者と家族の精神的な結びつきが強い場合、この全自動介護システムは非人道的として捉えられる。物理的な楽なことが、常に精神的に楽であるとは限らない。だから、この制御システムを拒みたくなるのが人情と言うものだ


 しかし、実際の介護現場ではもう少し複雑な話となる。制御下にない認知症患者、特に全身擬体保持者の数々の突飛な行動に、それらと常に対峙せざる得ない家族は精神をすり減らされる。だから、つい翻意してこの制御システムを受け容れてしまう。


 しかし、しかし"一般常識エンジン"による、認知症を発症する程に高齢の全身擬体保持者に対する行動補正/行動抑制/行動制御は、多くの人々に矛盾を突きつけ続ける。良心的とされる家族であれば、しかも、希望も出口もない介護生活に疲れていない、あるいは疲れる機会を児童会後システムによって奪われれたままの家族であればなおさらだ。


 幸運にも介護の現実を知らない、それが故に良心的なままでいる事が許された家族であれば、その矛盾が頭の片隅から常に離れなくなって、介護向けの体力をすり減らされる以上に、精神本体を蝕まれかねない。


 純真無垢なままで、或いは何事も未経験なままで大人になってしまった若者が、突然に現実社会へ投げ出されれば体力も精神も疲弊せいにはいられない。理想の追求が非現実的と知らなければ、ついつい理想を現実でも求めてしまう。


 もし、(もり) 葉子(はこ)が認知症が極まった近い将来の朝間ナヲミを抱えて、精神本体を蝕まれるまで理想を追い求めてしまったら。『コンシェルジュサービス for エルダー♫』がもたらす矛盾に挟まれて、苦悩する羽目に陥ってしまったら。


 ーーー朝間ナヲミの選択が、(もり) 葉子(はこ)をそんな矛盾の大海の真ん中へと放り投げてしまうかも知れない。


 百合子さんは、そんな、未必の精神的暴力を嫁に対して振るう運命を選ぶのか? と尋ねているのだ。そして、それを避けたいなら、今が最も効果的な判断時であるとも伝えているのだ。


 百合子さんは、自分の説得に朝間ナヲミが応じないだろうことは分かっていた。それでも訴え続けることはやめられなかった。


「それでね。今なら、選べるの。ここで、今回の疾病(しっぺい)を機会として選べばこのままハコちゃんとキレイにお別れが出来る。選ばなければ寛解した後でキッチリと線引きの出来ない中途半端なお別れしか出来なくなる」


「確かに・・・ね」


 朝間ナヲミの方も、百合子さんの伝えたい事。それでも敢えて口に出さない問題の本質を察するに至った。


「私としては、ここで、ハコちゃんとキレイにお別れした方が、お互いのためになると思った。だから、ここまで出向いて来たって訳なのよ」


「大変お手数お掛けしました」


 朝間ナヲミは、ともかく、感謝だけは伝えておかなければならないと感じた。だが、どんな言葉で伝えれば良いのか分からない。それで、社交辞令的で月並みな謝辞となってしまった。


 百合子さんにもそれが分かった。そして、続けて、自分が説得に完全に失敗したことにも気付いた。それでも、一応、礼儀として、朝間ナヲミの意思表示を正面から受け止めることにした。


「で、どうする?」


 その簡潔な問いに対して、朝間ナヲミはもっと簡潔な言葉で応じた。


「それでも、ハコちゃんの元へ帰ろうと思います」


 百合子さんは目を瞑る。


「本当に? それで良いの?」


 朝間ナヲミに回答のダメ押しさせる問いを発した。


「気が付いたら消滅してた・・・なんてのは寂しい。それでも、このままハコちゃんとお別れするってのはもっと寂しいから」


 それを聞いて、百合子さんも納得は出来なくても受け容れることにした。


「やっぱり、そうなるわよねえ・・・」


 百合子さんは、おもむろに、どこからか、古代スマホのiPhone3Gsを取り出した。そして、スマホに向かってしゃべり出す。


「と言う話なの。やっぱりアナタ達にお願いすることになったわ」


 ここから先は、不特定多数による見守りへと切り替える。その為の、始まりの為の宣言だった。


 これで、朝間ナヲミの運命は百合子さんの手から完全に離れ、時を支配する必然=偶然の流れの海へと再放流された。


 朝間ナヲミには聞こえなかったが、百合子さんは何かと通話しているようだ。


「じゃあ、それでよろしく」


 そう言って、スマホの通話終了ボタンを押して、三途の川へ向かって、古代スマホを投げ捨てた。


「誰と話していたの?」


朝 間ナヲミの問いに、百合子さんは笑顔で答えた。


「ひみつ」


 そして、立ち上がる。


「私に出来るのはここまで。後は貴女の思い通りの人生を」


「はい。そうします」


「じゃ、帰る」


「え?」


「ハコちゃんが生体脳ユニットの再生を終えたら、ナヲミちゃんも強制的に帰ることになるから。それまで、もう少しだけ一人の時間を楽しんで」


「どこへ帰るんです?」


「ひみつ」


「また、会えますか?」


「そんな未来もあるかも知れない、かな」


 百合子さんは、また何処からともなく取り出した、一つ一つ小分けにされた、ハッカ味と覚しき飴をいくつか朝間ナヲミの前のテーブルへ置いた。


「もし、後から気が変わって、今、ここで、ハコちゃんとキレイにお別れする方が良いと思えたら、これを使って」


「はあ・・・」


「それじゃ、頑張って」


 百合子さんは、朝間ナヲミの背後の死角へ移動した。朝間ナヲミが振り向いて姿を追おうと振り向くと、もうそこには誰もいなかった。


 左ハンドルで合衆国仕様の赤い200SXも消えていた。ただ、広大な石の原と、周りの風景には実に不似合いなリゾートセット、パラソルやテーブルや椅子などがそのまま残されているだけだった。


「一体・・・どう言うことなんだろう?」


 一人残された朝間ナヲミは、生まれて初めて狐につままれたと言う体験をさせられた。


 今となっては知る人も絶えてしまったが、昔は、朝間ナヲミ自身が『狐』と揶揄されたり、恐れられていた。


『狐』が『狐』に騙されると言うこともない。だったら、百合子さん、或いは今回のイベントを企画した者がいるとすれば、きっとそれは『狸』であったのかも知れない。


 気が付くと濁流の中に立っていたハナコがいなくなっていた。


 おそらく、朝間ナヲミのその時が今ではないと知って、出直す気になったのだろう。





※1= 外部委託された一般常識(価値)エンジンとは、22世紀に広く普及しているコンシェルジュサービスを指す。システム的には、生体脳と外部記憶・処理能力の境界のない併用環境を指す。それらがもたらす拡張知性や拡張人格は、史上かつて無いほどに、更に近い将来に、全人類へ深い知性と効率の高い判断力を低コストで提供出来る可能性が高いと見積もられていた。実際、日本国の厚生労働省は、それを念頭に置いて民間企業の開発・維持を主導・委託している。


三十代までの若年層であれば、九割を超える利用率を達成している。利用者等の大多数は、セキュリティー・チェック項目の全てを「Yes」と設定し、その恩恵として、学んだ事のない言語を理解し、読んだ事のない書籍を記憶し、国家や組織や個人が発表・公開済みのスケジュールを把握している。また、一般常識エンジンが提供するサービスとの共存を選択しない場合、就活や婚活を含む日常生活の競争で著しく不利益を被る(利益を得る、ではない)と言う価値観を共有している。


次世代では、幼児期に未拡張知性のままで過ごす期間がどれほど存在するが疑わしいとされている。また、一部識者は、同時に、拡張知性と非拡張知性の区別が主観では付けられなくなると危惧している。




※2= 厚生労働省が提供する高齢者向けサービス。認知症などが発症するなどの万が一の事態に備えた安全対策。高齢者が、第三者への傷害や本人への負傷をもたらしかねない問題行動を取ろうとした事件の回避に極めて有効な対策である。


生身の場合: 装着しているネットワーク端末に抑制(自制)の必要性を示す警告が現れる。

義手、義足など他の置換身体の使用者の場合 :動作を自動ロックするのなどの手段で暴走や誤操作を未然に防いでくれる。

第二小脳と全身擬体を併用する高齢者の場合 :積極的に全ての行動に対する広範囲のサポートを行ってくれる。例えば、全身擬体保持者であれば、認知能力が多少落ちても、単独行動や独居などの社会行動が無理なく行える様になる。


同サービスは、日本国在住の全ての高齢者に対して登録・利用が義務化されている(ただし、罰則規定は無し)。また、利用者は社会福祉サービスを優先的にアクセス出来るメリットがある。なお、サービスの利用義務は、加入する年金制度の受給開始時に発生する。年金制度未加入は、生活支援給付金の受給対象者が一定の年齢に達すると同時に発生する。




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