再び秩父へ
浅見孝一、八重子夫婦のお墓参りも兼ねて秩父へ出発した瑞穂達だった。
札所の解禁日、俺は再び秩父へ向かった。今回は特別に高校生の二人も同伴だ。
実はこの頃、埼玉県内こ公立高校は入学試験が行われて休みになるのだ。だから二人を連れ出してもおとがめはないのだ。
それは俺が探しあてた浅見孝一さんと八重子さんのお墓参りを兼ねた巡礼だった。俺は戦時中に亡くなった子供の生き様を知ってほしいと思っていたのだ。
秩父は西国・板東と並ぶ百観音霊場の一つだったのだ。西国が三十三ヵ所。板東も三十三ヵ所。秩父は一つ多くて三十四ヵ所。三つの霊場を合わせれば百観音になるのだ。
「このお金のモニュメントは何だろう?」
秩父鉄道にある和銅黒谷駅で下車した時木暮君が言った。
「此処は和銅って言って、一番先に銅が出た場所らしいよ」
瑞穂が言う。
「あぁ、だから和銅黒谷っていうのか?」
「うん、そうだよ。以前は黒谷駅って言ってたんだ。何時こんな名前になったんだろう」
「何でも、和銅奉納1300年を記念して改名したようだよ」
「1300年? そんな大昔に、此処に銅あるなんて良く解ったね」
木暮君の言う通り、それは俺も疑問に感じた。でも此処で時間を潰す訳にはいかなかった。
この駅に下りたのは俺達だけではなかった。
浅見孝一さんの消息を調べていた男性の他に、ラジオとその奥さんも同行してくれたのだ。
本日の目的地は浅見孝一さんの生まれ故郷の四番下だ。其処で身内の方が待っていてくれるそうだ。それを信じて、俺達はホームとの隙間が激しい電車から下りた。下手をするとホームと電車の隙間から落ちる位の幅がある。
だからこの駅は、登り車両に限って真ん中のドアしか開かないのだ。それに此処にはコインロッカーはない。だから荷物は全部持たないといけないのだ。
俺達野郎は良いけれど、ラジオの奥さんは大変だと思った。だから荷物は若い二人に任せることにした。
駅前を真っ直ぐ行くと国道に出る。其処を右に曲がって暫く行くと、一番札所に続く道だ。でも其処は別方向に繋がる道が隣合わせにあるから気を付けないといけない。下手するととんでもない場所にたどり着くかも知れないからだ。標識には美の山と知るされていた。
美の山は昨今、東京から一番近い雲海の見える場所として有名になった。でも昔から長く桜の咲く公園として名が知られた場所だった。何でもソメイヨシノより早く咲く種類から、ゴールデンウィークまで咲く種類も植樹してあるそうだ。
札所一番方面へ曲がる。比較的平らな道だ。でも俺は男性を気遣ってしんがりを行くことにした。
瑞穂と木暮君は若いから先へ行く。でも何時の間にか一緒に歩いていた。
瑞穂はみずほちゃん、木暮君はお兄さんの御霊と一緒だ。観音様の御加護を受けたくて仲間に加わったのだ。
やっと出た札所一番の案内図。其処を曲がって暫く行くと駐車場があった。
俺は其処で知った顔を見つけた。それは八重子さんの身内の人だった。
「今日は一緒に廻ります。実はボランティアの案内係りをしていました。だからお任せください」
その頼もしい一言が俺を勇気づけてくれた
「それからこれを用意させていただきました。これは観音様に御加護をいただくための心構えみたいなものです」
案内人はそう言いながら書物を人数分渡してくれた。
山門は駐車場の先にある細い道の脇にあった。階段を登り、潜る時に一礼して中へ入る。
「胸の前にて合掌して三礼するのです」
案内人の言う通りにした。
「うやうやしくみ仏を礼拝してたてまつる」
本堂に向かって言う。
「むじょうじんじんみみょうほうひゃくせんまんごうなんそうぐうがこんけんもんとくじゅうじかんげつにょらいしんげつき」
今度は長い。
「これは開経偈と言い、挨拶みたいなものだと思います。次は『おん、あろりきゃ、そわか』これは聖観音のご真言です。これを三度繰りします。次は光明真言です。『おんあぼきゃべいろうしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん』これも三度繰り返します」
「本格的にやると大変なのですね」
「はい。そうですね『南無大師遍照金剛』これは御宝号です。これも三度唱えます。このこの御宝号は挨拶にも用います。覚えておかれた方が良いですよ」
案内人はそう言うと一番蛇腹になった冊子を取り出した。
「次はいよいよ、般若心経です。『「ぶっせつ、まかはんにゃはらみったしんぎょう』般若波羅蜜多とは、仏様によって完成された大いなる智慧の世界の真髄を説かれたお経と言う意味です。『かんじんざいぼさつ。ぎょうじんはんにゃはらみったじ。しょうけんごうんかいくう。どいっさいくやく。しゃり。しきふいくう。くうふいしき。しきそくぜくう。くうそくぜしき。じゅそうぎょうしき。やくぶにょぜ。しゃり。ぜしょほうくうそう。ふしょうふめつ。ふくふじょう。ふそういげん。ぜこくうちゅうむしき。むじゅそうぎょうしき。むげんにびぜつしんい。むしきしょうこうみそくほう。むげんかい。ないしむいしきかい。むむみょう。やくむむじょうじん。ないしむろうし。やくむろうしじん。むくしゅうめつどう。むちやくむとく。いむしょとくこ。ぼだいさった。えはんにゃはらみったこ。しんむけいげ。むけいげこ。むうくふ。おんりいっさいてんどうむそう。くきょうねは。さんぜしょぶつ。えはんにゃはらみったこ。とくあのくたらさんみゃくさんぼだい。こちはんにゃはらみった。ぜだいじんしゅ。ぜだいみょうしゅ。ぜむじょうしゅ。ぜむとうどうしゅ。のうじょいっさいく。しんじつふこ。こせつはんにゃはらみったしゅ。そくせつしゅわつ。ぎゃていぎゃていはらぎゃてい。はらそうぎゃていほじそわか。はんにゃしんぎょう』」
俺達には其々の傷みがある。だからこそしきたりを重視しなければない。
無事読経出来たことにホッとした。でもそれで終りではなかった。
「願わくばこの功徳を以て遍く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん。これは回向文です。これを一度唱えてください」
「ありがとうございました」
誰ともなく言った言葉を嬉しかったのか案内人は泣いていた。
「それを言ってから御礼をして、ご本尊の居るであろう祭壇に向かってもう一度手を合わせます」
案内人はその足で水子供養所へと向かった。
怖いようで、痛ましい。
ここに安置してある霊が一日も早く救われることを思い合掌した。
本当は水村麗子さんとマイさんの流された胎児が重なって見えていたのだ。妻も俺の子供を欲しがっていた。もしかしたら宿していたのかも知れない。そんな思いが胸を詰まらせたのだ。
その後で横を通り抜けて戦没者慰霊塔とその奥にある慰霊碑に向った。
その足で御朱印をいただくために納経所へ向かう。
俺は緑色の御朱印帳を選んで皆の後ろに並んだ。
流石に1番札所だ。その中には既に何やらの文字が書かれていた。日付だけで済むようにとの知恵らしい。
でも、それでは御朱印集めの魅力が半減すると思ったのは俺だけかも知れない。
今は若い女性もさることながら男性まで御朱印集めのブームらしい。だから尚更、手抜きはいけないと思った。
一番札所から暫く歩くと信号がある。其処を渡ってから少し右に行った脇道から札所二番方面へ向かう。
初めは民家もあるが次第に木ばかりになる。其処は鬱蒼とした山道だった。登り坂をかなり行った場所に札所二番はひっそりと建っていた。
俺は其処にあるという板の絵が気になっていた。でも所作を忘れる訳にはいかない。細い石段には仏様が置かれている。それらを見ながら登ると、石灯篭の先に真副寺はあった。
此処も聖観音様だった。従って同じ御宝号を唱えることになる。
でも般若心経だけはどうしても馴染めない。妻を見送った会場で読経していたからだ。俺はあの時泣けなかった。あまりにも突然の妻の死を理解出来ずにいた。殺したのはラジオだと思い込み、腸が煮えくりかえっていた。それでも妻の死を認めたくなかった。
そんな状態でも般若心経はそれを受け止めろと言っている。
でも出来るはずがないともがき苦しんだ。
そんな俺がまさか般若心経を読み上げる羽目になるなんて考えもしなかったのだ。
だから今、傍にいてくれる瑞穂に感謝してる。瑞穂が居なかったら、俺は今でもラジオを執拗に追っていることだろう。
尤もあのクリスマスイヴの女子会さえも無くなったことだろうけど、全てが瑞穂と姉が俺を気遣ってくれたからなのだと思っている。
真福寺には納経所はない。三番札所の巡礼道の途中にある寺で書いてもらえるそうなので向かうことにした。
「あの、此処でお昼にしませんか? お握りを用意してきました」
案内人の嬉しい提案だった。以前秩父を訪れた時、コンビニを見つけていたから其処で買えば良いと思っていたのだ。
「ありがとうございます」
俺は素直にその行為を受けることにした。秩父は醤油もさることながら味噌造りも盛んだと聞いた。だからなのか? そのお握りは味噌を付けて焼いてあった。
「美味しい」
誰からともなく声を上げる。それが嬉しいかったのか、案内人は頬を緩めた。
「すいません。実はお腹が空きすぎて……。お握りを焼きながら何個か食べたのですが……」
案内人の言葉に皆笑い出した。
次の札所に向かうために真福寺を出発したのはお昼が少し過ぎた頃だった。何処からともなく『エーデルワイス』の曲が鳴っていた。秩父ではお昼の合図にこの曲を流すのだそうだ。
その途中に小道があったけど、足の達者な者ばかりではないので車も通れる道を行くことにした。
ゆっくり歩いて行くと水音がしてきた。
其処には小川が流れていた。
でもそれだけではなかった。その上流には小さな滝があったのだ。
「癒されますね」
深呼吸をしながら男性が言った。
「疲れましたか?」
俺の質問に男性は首を振った。
でもそのことが、男性に無理をさせていることだと理解し反省した。
浅見孝一の身内に会うだけならこんな苦労はいらないからだ。
俺は気持ちを整理するためもあって深呼吸をすることにした。
「気持ちいいですね」
男性はそう言ってくれた。
光明寺で納経してもらった俺達は次の札所三番に向かった。道を反対に少し行った所にコンビニがあった。本当は其処でお昼を買うつもりだったのだ。
三番札所は横瀬川に架かる山田橋を渡って左に曲がった先にある。剥き出しの金剛力士像二体が俺達を迎えてくれている。
山門はないけど、俺達は一礼してから境内に入った。
納経所脇の縁側には子持石が小座布団に乗っていた。そのお腹の部分に触ったり、石自体を抱き抱えると子宝に恵まれるらしい。
奥には池があり、側の神殿にご本尊が奉られていた。
三番札所も聖観音だった。
三番札所から出て、山田橋の反対側を行くと小さな橋があった。
それは巡礼橋だった。
「あれは何だろう?」
木暮君が橋の下のコンクリートの塊を指差した。
「あぁ、あれは橋桁です。あの上に何十年も前に作った木の橋があったそうですが、台風によって流されたみたいです」
「台風が? でも川の水はずいぶん下を流れている気がしますが」
「彼処まで水が来たってことです。二度架けたそうですが……」
「凄いな」
木暮君はそう言いながら暫くその残骸を見ていた。木暮君が驚くのは当然だった。コンクリートで出来たという橋桁は岩の上にあったのだ。あの上部にまで水嵩が増したってことだろう。穏やかに見える川が牙を剥くと災害という凶器になるのだ。俺はその事実を肌で感じていた。
その橋から真っ直ぐ延びる道は札所四番に続いている。もうすぐ浅見孝一さんの住んでいたという四番下だ。
札所四番の下だから、四番下と呼ばれているそうだ。
比較的大きな通りに出た。其処はバスの行き交う道だそうだ。だからか、交通量がかなりあり、なかなか渡れない。それに少しカーブしていて見にくかった。
「信号があればいいな」
瑞穂が言った。
「いや、せめて横断歩道くらいは付けてもらわないと」
「安全に渡れないな。巡礼者の命なんて軽くみているのかな? 彼処に巡礼橋を作っても中途半端だよね?」
「本当だな。配慮が足りなさすぎる」
「以前こんなことを聴いたことがあります。新興住宅地が出来て……、学校の通学路に信号を設置してほしいと警察署に申請に行ったそうです。その時婦警が得意そうに助言したそうです。『死亡事故が起きれば一発で付きますよ』と」
「婦警がそんな酷いことを言ったのですか?」
俺は落ち込んだ。妻も婦警だ。それも交通課だ。もしかしたらそんな申請が沢山来たに違いない。それでも妻はそんな人の心を傷付ける発言をしていないことを願っていた。
「勿論皆激怒した。でも実際に信号が設置されたのは死亡事故が起きた後だったそうだ。此処もそうなのかな?」
「いや。俺達が声を上げる」
木暮君が言うと、瑞穂も大きく頷いた。
まずは一番札所だ。




