第9章──堕羅Ⅲ
堕羅Ⅲ
Ⅳ
越知英資は未だに何も音沙汰の無い錫にしびれを切らしていた。
──「あの巫女さん、まだ解決の糸口が掴めていないのだろうか?」
越知は師匠乾丸正嗣の代わりに依頼人の除霊をしていたが、まだまだ乾丸の足下にも及ばない。せめて乾丸愛用の霊具・晶晶白露を使えれば乾丸に劣らぬ除霊も可能なのだろうが、乾丸があの状態では使用許可を求めることもできない。
乾丸婦人は夫が呪われてからというもの、片時も側を離れることなく付きっきりだった。そして〝この人にとって晶晶白露は自分の命と同じくらい大事な賜り物でしょうから…〟と、常に晶晶白露を乾丸の枕元に添えてやっていた。
そんな婦人が珍しく外出した。「今しかない!」越知はこの機会を密かに心待ちにしていたのだった。
越知には試してみたいことがあった。それゆえ一度だけ晶晶白露を無断で使おうと決めていた。婦人の留守を狙って後ろめたく思いながらも、ぐっすり眠っている乾丸の枕元に立つと、目的の桐の箱にそっと手を伸ばし静かにふたを開けた。そして徐に晶晶白露の柄をしっかり握った越知は、今まで感じたことのない雷のような霊気が全身に迸るのを感じた。短刀を握っている右手がブルブルと震え出す。越知は額に脂汗を滲ませながら、小刻みに震えている刃先をじっと睨んだ。胸いっぱいに空気を吸い込んで気持ちを落ち着かせると、視線を晶晶白露の刃先から乾丸へと移動させた。何も知らずにぐっすりと休んでいる乾丸を上から覗き込み、肩まで掛けてあった布団をお腹の辺りまで捲り、握っていた晶晶白露を逆手に持ち替えた。
──「力を込めて突き刺す必要はない。刃先を軽く当ててやるだけでいいんだ…」越知は自分にそう言い聞かせると、晶晶白露を真っ直ぐ乾丸の胸に振り下ろした。
〝ぴくん〟──乾丸の反応はそれだけだった。越知は異変が起こることを信じて乾丸を見守った。
だが越知が想像していたような変化は見られない。「結局無駄骨か…」ぽつんと呟いた越知は、晶晶白露を桐の箱に納め、部屋から出ようとドアの前まで来て、何気なくもう一度乾丸に目を遣った──異変が起こったのはその時だった。
「ぐっっ………ぐぐうっ……」ちょうど乾丸婦人も帰宅して、夫に挨拶をしようと部屋の前まで来ていた。ドア越しに只ならぬ呻き声が聞こえてきたので、急いでドアを開けようとしたが、鍵が掛けられていて開けられない。
「あなた……あなた!」乾丸婦人は必死で夫に声をかけた。
部屋の中では、今まさに悍ましい事態が起こっていた。
全身の血管の中をウジ虫が這い回るような感覚に襲われ、断末魔に近い叫び声を上げながら喉元を掻きむしっていたのは────乾丸正嗣ではなく越知英資の方だった。
Ⅴ
白の国を守護する矢羽走彦と照陽龍社王尊は同じ霊神に恋心を抱いていた。
だが白の国には〝何人も愛してはならない〟という厳しい掟がある。白の国に住む限り、この掟は守らねばならない。まして民の魂を守る位の高い霊神となれば尚のこと、自分たちが規律を乱すことなど決して許されるものではなかった。
白の国の民たちは温和で平和を好む魂たちだ。そしていかなる物も空想の世界によって手に入れられるので、他の民たちを羨望することもない。因って諍いなどはまず起こらない。
ただ一つだけ、空想であっても手に入らないものがある──〝愛〟だ。愛だけは代用するわけにはいかない。
愛は相手の心を奪いたくなる。愛は自分の心を伝えたくなる。愛はどこまでも美しいものだが、無限の力を秘めている。時にその力は嫉妬となって現れる。やがてそれは白の国の瓦解に繋がると恐れられ、愛することはご法度となっているのだ。
矢羽走彦も照陽尊もそのことは重々承知していた。けれどもこの二柱の霊神は、恋心を上手く隠せるような器用さを持ち合わせてはいなかった。
矢羽走彦と照陽尊が共に熱愛し、競い合っていた霊神は泉坂乃雫姫といった。雫姫もまた白の国を守護する霊神だった。特に雫姫は長い年月その役目を担っていた。雫姫に続く霊神は他に三柱あって、これを合わせて〝白の国の四天王〟と呼んでいた。もちろん矢羽走彦と照陽尊もその四天王に名を連ねていたが、筆頭だったのは雫姫で──〝霊力は極めて高にして絶世の美女〟と噂されていた。
残る一柱は天翔虎慈之尊で、四天王としての年月は一番浅かった。しかしその霊力は矢羽走彦や照陽尊とは比べものにならぬほど抜きん出ていた。けれど、そうであっても虎慈之尊は出過ぎた真似は決してせず、常に雫姫を補佐しながら自分の任務を黙々と遂行していくような霊神だった。
ある時──矢羽走彦は人間界へと修行に出る決意をした。ある者はその勇気を素直に称えた。気がおかしくなったのではないかと噂する者もいた。あれは雫姫の気を引くために自分を売り込んでいるだけだと斜から見ている者もいた。真意のほどは明かではなかったが、矢羽走彦は暫くして白の国から姿を消した。
矢羽走彦がいなくなったことで、照陽尊は雫姫を独占できた。今までのように雫姫と矢羽走彦が話をしているのを、黙って横目で見ているような不愉快さからは解放されたし、矢羽走彦が雫姫と力を合わせて悪霊を退治した時に決まって聞かされていた、武勇伝なのか惚気なのか判断できないげんなりする話に付き合わされる事もなくなった。独占といっても、たかだかその程度の事だったが、照陽尊にとって、それは充分すぎることだった。
それから数十年の歳月が流れた──。
矢羽走彦は修行を終えて帰ってきた。人間界での修行は苛酷とされていて、無事白の国に帰れただけでも箔が付く。まして修行の成果を上げ、魂を磨き上げて帰ってきたとなると霊力は高まり、より位の高い霊神として崇められる。一見良い事尽くしのようだが、それでも誰もが率先して人間界に出て行こうとしないのは何故だろうか──。
錫がそうであるように、人間として生まれると白の国の記憶は全て失われる。記憶が再び蘇るのは人間としての修行を全うした時──つまり死した時だ。白の国の住人たちは、ここがあまりにも魂の安らぐ楽園であるため、苦難苦痛のある人間界には行きたがらない。我々が地獄を恐れるように、白の国の住人から見れば、人間界は地獄に値するような場所だ。そう考えると好んで人間界に行こうとする魂がいなくて当然だといえる。
もう一つ人間界での修行を嫌う理由がある。それは人間に生まれた時、どういう人格になり、どう生きて行くのかはその魂次第だということだ。
万が一、人間としての人格が捻れてしまい、極悪非道な魂に成り下がったまま人生を終えたとすれば、人間界での修行が失敗したことになる──そうなれば忽ち地獄落ちだ。生まれた境遇の悪さや起こりくる運命の悪戯に対する言いわけは一切通用しない──配慮も同情も決してない。ヘレン・ケラーも野口英世も、人には理解できない苦境を乗り越えて偉人となった。
どのような境遇にあっても人間として生まれてきた目的に気づき、世の中に貢献する生き方を全うできれば、その魂はより高い位となり白の国でも優遇される。
逆に起こり来る境遇に負けてしまい、人生を呪い、邪な心に魂を売り、私利私欲のために世の中を乱すような人間に陥ったなら、これは間違いなく人間界での修行の失敗となる。
誰が好んでこんな伸るか反るかの冒険に望むだろう────。少なくとも強制的に修行に出されるまでおとなしくしていれば、白の国で穏やかに暮らせるのにだ────。
そんな人間界に身を投じた矢羽走彦の修行の成果など、照陽尊にとってどうでもよいことだった。気に入らなかったのは、思ったよりも早く矢羽走彦が戻ってきたこと──そして何より、雫姫が矢羽走彦を褒め称えていたことだ。
自ら人間界へ修行に出たといっても、所詮は雫姫に取り入るために仕組んだ大芝居にして大博打だったに違いないのだ。雫姫もどうしてそれくらいのことが見抜けないのかと、照陽尊は両者を苦々しく思っていた。
矢羽走彦が人間界から戻ってきた時、白の国は戦の最中だった。拗隠の国に抜け穴ができてしまい、白の国の侵略を狙って狡狗が暴れ回っていたのだ。
もちろん矢羽走彦も応戦した。白の国に帰ってきて早々のことで霊力もまだ本調子ではない。どこからか湧いて出てくる狡狗を押さえ込むが関の山だった。それでも白の国にとっては猫の手も借りたい時だ──矢羽走彦の応戦を雫姫は素直に喜んだ。
けれど照陽尊はそれさえも許すことができなかった。矢羽走彦と雫姫を遠巻きに見ながら、ただただ嫉妬の念に駆られるのだった。
一方矢羽走彦だが、雫姫と数十年の空白があったものの、その気持ちに差ほど変わりはなかった。
ただ矢羽走彦は、どうしても忘れることのできない人間の女性の影を引きずっていた。白の国に帰ってきた今も、その女性の存在を消し去ることはできない。できる事ならもう少し生き長らえ、自分の及ぶ限りの事をして守ってやりたかった──それほど愛しい女性だった。狡狗との戦が終われば、時折人間界に降りて、その女性を見守ってやろうとも考えていたほどだった。
雫姫に対して、以前のように感情を露骨に表さなくなっていたのは、もしかすると、そんな気持ちも影響していたからかもしれない。ともあれ誰の目から見ても、矢羽走彦は以前より落ち着いていて、且つ一回り大きく映って見えた。
ところが照陽尊にしてみれば、そんな矢羽走彦が余計癇に障ってしかたなかった。
それからまた日月が流れた────。狡狗との戦は一向に終結する気配を見せない。矢羽走彦が照陽尊に呼び出されたのはそんな時だった。
「まったく私は散々だ…。お前は突然人間界に修行に行き、帰ってきた途端に英雄だ。しかもあのお方は相当お前に感心があるようではないか…?大した奴だ…お前には負けた……脱帽だ…」
「よせ…煽てても無駄だ…」。「煽てではない。いいか矢羽走彦よ……耳を貸せ…………」
「…………なっ…本当か…?」。「本当だ。嘘ではない証拠はこれだ!」
「………こ、これは!?」。「そうだ…全気滅消の瑠璃玉───これを託されたのが何よりの証拠だ。もちろんお受けするだろう?」
「ご命とあれば…」。「ならば急ぐがよい。お前の活躍を期待して待っているはずだ……天甦霊主様は…」




