8. 社交界の噂
異世界で目覚めてから一ヶ月が経過した
この奇妙な生活にも慣れてきて、まだ現実世界に戻りたいという気持ちも起きていない。今はとにかく、彼らの行く末が気になっていた。
あれから私は無口を貫き、余計なことを口走らないように細心の注意を払っている。
もし小説を最後まで読んでいたら、それなりに上手い着地点を探せたのかもしれないけれど。
結末を知らない私では、さすがにこれ以上彼らの運命を掻き回す気にはなれなかった。
そんな私の思いと連動しているのか、私自身にも少しだけ変化があった。二度目のリオレットとの面会以降、エディウスから離れられる距離が伸びたのだ。
それまではせいぜい一メートル程度の移動しかできなかったのに、今は十メートルくらいの範囲まで自由に動ける。
理由は分からないけれど、そのおかげでかなり窮屈さは解消された。今では壁をすり抜け、隣の部屋や廊下くらいまでなら見に行くことができる。
「レノ、今日は昼食の配膳は不要だ。昼にサリアン伯爵とモーリア侯爵で会食をする予定なんだ」
「かしこまりました」
朝の身支度を終え、レノにそう伝えた。
常に傍らにいるこの彼は、エディウスの従者であり秘書的な役割も担っている。彼以外にも身の回りの世話をする人はいるけれど、外出時には必ずレノを連れて歩いていた。
いつものように馬車で通勤し、王宮に到着したエディウスは滞りなく仕事に取り掛かる。
そんな生活を近くで見ているうちに、色々と分かった事がある。
サリアン伯爵は『宮廷会計院』ではいわゆるナンバー2の地位にいる偉い人で、エディウスの上司でもあるということ。そもそも彼が伯爵家に婿入りする理由は、家を継ぐだけではなくその重要ポストを引き継ぐためでもあるらしい。
そしてサリアン伯爵は王宮内に私室があり、週の殆どをそこで過ごしている。
エディウスの家よりもさらに離れた地区に屋敷があることから、ここで寝泊まりする方がたしかに効率は良い。
だからこそコリーヌが裏で何をしていようと目が届かず、リオレットの置かれている状況にも無関心でいられるのかもしれない。
◇
昼時になり、エディウスがサリアン伯爵の部屋を訪れて二人でモーリア侯爵のもとへ向かっていた時のこと。
「最近モーリア侯爵とお会いしたかね?」
並んで歩きながら、伯爵がそう尋ねてきた。
「いえ、一ヶ月前に父が主催した夜会でお会いして以来ですね。その際は会計院での働きを労われました」
ということは、私がこの世界で目覚める直前あたりか。たしかに私の知らない人物だ。
階段を上り、新たなフロアに入ると一気に空気が変わるのを感じた。
階下の雑然とした雰囲気は消え、静寂が広がる。人の往来も極端に減って、どことなく厳粛な雰囲気が漂う。
二人はやがて重厚な扉の前で足を止めた。どうやらここがモーリア侯爵が待つ部屋らしい。
中へ案内されると、貫禄漂う紳士が迎えてくれた。
二人は恭しく一礼をして挨拶を述べる。
「うむ。エディウス君も久しぶりだな。ニールセン侯爵とは一昨日に会ったばかりだが、君のお父上は相変わらず頑固で気難しい」
苦情なのか軽口なのか分からないけれど、苦笑しながら二人を迎え入れた。
この二人の関係性はよく分からないけれど、とりあえずエディウスのお父さんとはよく知る間柄らしい。
「ではゆるりと会食をしようではないか」
そのまま隣の部屋に案内をされて、穏やかに昼食会が始まった。
わずかに聞こえる食器の音と、その合間に交わされる会話の数々。
仕事の話をしているので、理解できない私はエディウスから離れて部屋の様子を見学していた。
「……ところで、サリアン伯爵。今日昼食に誘ったのは仕事の話だけではなくてね。実は私のところに、あなたの娘リオレット嬢についての噂話が流れてきているんだ。私にまで入ってくる話となると、すでに多くの人に知れ渡っている可能性がある。まずその噂について聞いたことがあるかね?」
「リオレットの噂……でございますか? いいえ、初耳です」
会食が始まって三十分以上は過ぎただろうという頃、話を切り替えるようにトーンを落としてモーリア侯爵が話し出した。
思わぬ所でリオレットの名前が出たので振り返ると、怪訝そうな顔で伯爵が聞き返していた。その口調からは、良い話ではないだろうということが伝わってくる。
そこで、ふと小説のことを思い出した。
『世間で何と言われているか知っているか。傲慢で我儘な伯爵令嬢。後妻と異母妹をいびり、男に色目を使う性悪女。それがお前の正体だ。……行こうミレイナ。この女にこれ以上関わる必要はない』
一言一句覚えているわけではないけれど、我儘娘とか男癖が悪いとか、そんなことをエディウスが言っていた。あれはもしかしたら、この噂が元かもしれない?
そう気付いたらいてもたってもいられなくて、エディウスのところへ戻って真剣に会話を聞いた。
「あまり良い話ではないことを先に伝えておこう。エディウス君、婚約者である君にも聞いてほしい。――実はリオレット嬢には悪い話が出回っている。なんでも、後妻の娘である異母妹を虐めているとか、見境なく男に色目を使うだとかそんな話だ」
「何と……!」
伯爵は顔色を変えて言葉を詰まらせた。動揺が隠せないらしく口を開けたまま固まっている。
「い、いや、なぜそのような噂が。閣下もご存じの通り、うちの娘たちはまだ社交界入りしておりません。教育の場として身内の夜会や晩餐会には参加させていますが、まだ両親である私たちがすぐ隣についている状態です。男に色目を使うなどあり得ない。妹のことは……いや兎に角、それはどこで流れているのでしょうか」
「君も知っていると思うが、コリーヌ夫人は社交界であまり受け入れられていなかった。それでも彼女の慎ましい人柄と努力のおかげか、今では認めている人も多くいる。彼女を心配する人たちの間で急速に広まったようだ」
「まったくお恥ずかしい限り、私の耳には入っておりませんでした。わざわざ知らせていただき、そしてご心配までお掛けして申し訳ございません」
恐縮した様に顔をこわばらせながら伯爵が答える。
「まだデビューもしていない娘が色目を使うなど、私も信じているわけではない。しかしサリアン伯爵家に悪意を持つ者には絶好の餌になりえる。これまでに誤解を与えるようなことはなかったか、一度家に帰って調べてみてほしい。君が醜聞に巻き込まれるようなことがあれば、仕事にも支障がでるからな」
そしてモーリア侯爵はエディウスにも問いかける。
「婚約者である君もリオレット嬢と会うことがあるだろう。これまでに変わった様子は見受けられなかったか?」
「……いえ、特に。気付いたことはありませんでした」
サリアン伯爵とは反対に、冷静な面持ちでエディウスが答える。
私は彼の顔をじっと見つめた。一度眉を顰めたきり表情が変わらない。この話を聞いて、彼は何を思っているのだろう。
「一月後の宮廷舞踏会では、貴方の娘たちが社交界デビューを迎えるのだろう。その時にもケチが付きかねない。もし噂の種となるような問題があるようなら、今のうちに教育をしておいたほうがいいと忠告をしておくよ」
「恐れ入ります」
そう言ってサリアン伯爵は頭を下げた。
思わぬ話を聞くことになった今日の昼食会。食事を終えて仕事場に戻る間、伯爵は噂についてあれこれ言っていた。誰がそんな噂を広めたんだと苛立っているようだ。
その話ぶり聞いていると、やはりサリアン伯爵は家の実態を把握していないらしい。コリーヌはしっかり女主人の仕事をこなし、上手くやっていると思っている。
週一の帰宅とはいえ鈍感過ぎないかと思ったけれど、それだけコリーヌの演技が完璧ということなのだろうか。
そしてもう一つ、あの話し合いの中で大事なことを知ることができた。
一ヶ月後に、宮廷舞踏会でリオレットたちが社交界デビューをする。
エディウスたちの年齢を考えたら、あの小説冒頭のシーンは近いうちにあるだろうと考えていた。それは当たっていたようで、やっとこの世界の時間軸を正確に掴むことが出来た。
リオレットの噂の広がり。
宮廷舞踏会。
運命の行方。
婚約破棄のシーンはどうなるのか。
もしエディウスがそれを回避したら、どのように話が進むのか。
期日がはっきりと示されたことで、自分の中に緊張感が生まれ始めていた。




