プロローグ ネット小説
アパートのドアを開けた時、時計はすでに夜の十時を回っていた。
今日は棚卸日で、いつもより帰りが遅かった。
バッグを放り出し、手を洗って昨晩作り置きしたおかずをレンジに入れる。温めている間に、ささっとシャワーを浴びてしまおう。そう思ってすぐに浴室に入る。
アパート住まいだから、遅い時間の入浴には気を遣う。一人暮らしをするようになってから意識するようになったことだ。
バスルームを出て濡れたショートの髪を雑に乾かし、人肌程度まで冷めた器をレンジから取り出してテーブルに並べる。
ご飯をよそってやっと一息ついたところで、そばに置いたスマホの通知音が鳴った。
『真昼ちゃんお疲れ様! もう家に帰った?』
画面に、友達の紹介で知り合った男の子からのメッセージが映る。同い年で恋人未満の、まだお互いに距離感が掴みきれていない相手だ。
反射的に手を伸ばしかけたけれど「まずはご飯」と思い直して箸を持った。
静かな空間を紛らわすように動画を流し、それを見ながら食事を終えたら二十三時を回っていた。時間が経つのが早すぎる。
『遅くなってごめんね、やっと帰ったよ。悠太くんも仕事お疲れ様でした。棚卸し疲れたー!』
とりあえず返信して、すぐ寝られるように就寝準備に入った。その間に返ってくるかと思ったけれど、見るとまだ未読のまま。
(遅い時間だもんね。もう寝ちゃったかな)
スマホを持ってベッドに転がり、他のSNSをチェックする。その後でも既読にならないところを見ると本当に寝たのかもしれない。
私も部屋の明かりを消して、布団に潜り込んだ。
温かい毛布の中で、スマホを持ってよく見る小説サイトを開く。こうして寝る前にネット小説を読む時間が最近の楽しみの一つだ。
もう今日はもう遅いし、連載物じゃなくてサクッと読める短編でも探そうかな。
そう思ってランキングを見たけれど、興味を引くものはすでに読んでしまっている。それならと久しぶりに新着欄を開いてみた。
上から下に流してページを眺めていると、気になるタイトルが目に入る。
【性悪女と罵られた伯爵令嬢は、通りすがりのヤンデレ騎士に溺愛される】
溺愛系タイトルを見たのは久しぶりな気がする。そういえば最近は読んでないなと思ってタップしてみた。
タグは、「溺愛」「ハッピーエンド」「ざまぁ」が並んでいる。
溺愛ものは割と好きだ。ヒロインが深く愛されて、幸せになることが約束されているから。序盤の展開でストレスを感じても安心して読めるし、悪人がしっかり裁かれるなら文句ない。
今日はこれに決めた。ヤンデレ騎士の『ヤンデレ』が少し気になるけれど、執着が強いのも愛が重い系も結構好みだし、良いかもしれない。
探している間に少し眠たくなってきたけれど、そのまま作品ページを開くことにした。
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【性悪女と罵られた伯爵令嬢は、通りすがりのヤンデレ騎士に溺愛される】
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「リオレット・サリアン! 今日をもってお前との婚約を破棄する!」
ニールセン侯爵家の三男、エディウスの声が大広間に高らかに響き渡った。
王宮で開かれた宮廷舞踏会。優雅な旋律が流れ、シャンデリアが眩しく煌めくなか、貴族たちの視線が一斉にリオレット・サリアンへと突き刺さる。
今日は、その彼女の社交界デビューの日。華やぐ熱気は凍りつき、周囲が一斉に静まり返った。
「エディウス様、どうして……」
「彼女のこのドレスを前にしてもまだとぼけるつもりか。お前が自分の妹であるミレイナに何をしてきたのか聞きている。可哀想に、彼女は勇気を振り絞って私を頼ってきたのだ!」
リオレットの婚約者であるエディウスに、さりげなくしなだれがかり涙を浮かべる異母妹ミレイナ。
彼女の美しい白のドレスが、ワインによって汚され無残な姿になっている。
いきなり身に覚えのないことを責められたリオレットは、ただ戸惑うように二人を見つめた。
「エディウス様、私は彼女のドレスを汚すようなことなどしておりません、どうか――――」
「言い訳が見苦しい! これ以上醜い姿を晒さないでくれ」
エディウスは吐き捨てるように言い放ち、うんざりしたようにリオレットを睨みつけた。
「世間で何と言われているか知っているか。傲慢で我儘な伯爵令嬢。後妻と異母妹をいびり、男に色目を使う性悪女。それがお前の正体だ。……行こうミレイナ。この女にこれ以上関わる必要はない」
「はい、エディウス様……」
肩を抱かれて去る間際、ミレイナは勝ち誇ったようにリオレットを見て微笑みを浮かべた。
ざわめく周囲の貴族たちは遠巻きに彼女を眺め、聞こえよがしに嘲笑と陰口が囁かれる。
(どうして……エディウス様は、私の生きる希望だったのに)
その場に一人取り残され、婚約者を失ってしまったことにリオレットは呆然と立ち尽くした。
***
〈……これ、普通にミレイナの自作自演じゃない? 安い嘘に騙される婚約者、定番とはいえイラっとする。
でもエディウスが生きる希望ってさ、ヒロインはこんな男が好きだったの?〉
***
リオレットに不幸が訪れたのは、もうすぐ十歳を迎えるという冬の日のこと。母が病に伏して亡くなってからだった。
……
………………
「お前に新しい家族を紹介しよう。彼女はコリーヌ、お前の新しい母親になる。そしてこの娘は私のもう一人の娘で、お前の妹となるミレイナだ。これからは仲良くやっていくように」
そうして紹介された彼女たちは、これまで父親が別邸に囲っていた妾とその娘だということを初めて知った。
恥ずかしげもなく父親が語った内容は、実母がリオレットをお腹に抱えていた頃にコリーヌの元へ通っていたということだった。そして彼女もまた子を身籠り、ミレイナが生まれたという。
***
〈うわ、父親最低!……もしかしたら妾が許される世界なのかもしれないけど、それにしたって母親を亡くしたばかりの子供に対して酷すぎる。再婚時期くらい考えてあげたっていいじゃん。
……私なんて、時間が経っていても複雑だったのに〉
***
「ちょっとお姉様、まだ掃除が終わらないの? さっさと終わらせて部屋から出ていってちょうだい。邪魔なのよ」
「ごめんなさい。今部屋に戻るところなの」
昼食から戻ったミレイナに嫌味を言われ、雑巾と箒を手にして顔をそらすようにして部屋を後にした。
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「すみません。何か残り物はありませんか?」
部屋の掃除を終えて厨房へ向かったリオレットは、お腹を空かして使用人に声を掛ける。しかし分けてもらうのは彼らの食事の残り物。パンの固い部分や具の少ないスープを与えられた。
***
〈ああ、虐げられるヒロインか……。早くヒーロー登場して……〉
***
初めてエディウスと出会ったのは、リオレットが九歳の時だった。
母を失う少し前、ニールセン侯爵の三男であるエディウスと婚約を交わした日のこと。いずれ伯爵家に婿入りするという彼は、まだ十一歳だというのにとても紳士で大人のように見えた。
***
〈アホ男のエピソードなんてどうでもいい……婿入り………ダメだ、もう眠くなってきた……〉
***
ある日の昼下がりのこと。………………。
………コリーヌの言いつけで中庭の掃除を
……、……………。
「おい、気を付けろ!」
………………、
………………………………。
「街中で大声を上げるんじゃない……おや?」
騎馬隊の先頭にいた若い騎士が、リオレットの姿を見て立ち止まる。
「君は……」
「大変申し訳ありませんでした」
リオレットの顔はみるみると青ざめ、震える声で謝った。
***
〈…………はっ、もしかしてヒーロー登場? でも、いいところなのに、睡魔が……〉
***
短編だからすぐに読み切れると思ったけれど。
文字を追っているうちに瞼が重くなって、何度かまばたきを繰り返すうちに、いつの間にか深い眠りへと吸い込まれていった。
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……小鳥のさえずりが、目覚まし時計の代わりをしてくれたらしい。
スマホのアラームが鳴る前に起こされてしまったけれど、今は何時だろう。
眠い目をこすってスマホを探そうとしたところで、ふと何かがおかしいことに気が付いた。
目に入った天井は高く、壁には見慣れない模様が描かれている。
え、ここどこ?
私は知らないベッドの上で目を覚ました。




