1. ヒロインの婚約者
ヨーロッパ風の、これまでの人生で見たこともないラグジュアリーな部屋。
やっと頭が覚醒した私は、ここがどこなのかすぐに見当がついた。
寝る前に読んでいた、あの小説の中だ。
なぜかそう確信して途方に暮れる。
一体どういうこと?
慌てて起き上がろうとしたけれど、まるで重りが乗しかかったように体が動かない。
よく見れば、自分の上に重なって寝ている人物がいる。
誰!?
思わず叫びそうになったけれど、それも一目見てすぐに誰かわかった。
小説の冒頭で登場した婚約破棄男、エディウス・ニールセンだ。
よくフルネームを憶えていたな、私。
物覚えが良い自分に感心するくらいには、混乱しつつも冷静だった。もしかしたら正常性バイアスがかかっていただけかもしれないけれど。
その彼もちょうど目を覚ましたらしく、のそりと体を起こした。すると私まで引っぱられるように上半身が起き上がる。
えっ、と思う間もなく、彼の後ろにぴったり張り付いて、寝癖の付いた後頭部を見下ろしていた。
何だこれ?
状況が飲み込めなくて思考が停止する。
とりあえず仕事には行かなくていいよね。ここは日本じゃないし。だったら私は一体何をしたらいい?
キッチンも無ければ洗面所もない。ぼんやりと自分の置かれた状況を受け入れていったら、今度は焦りのようなものが湧き上がってきた。
大丈夫、これは夢だ。
寝る直前まで小説を読んでいたから、きっとその影響で見ちゃってるだけ。そうに違いない。
そう思い込もうとしながら、目の前でリアルな存在感を放つ男を眺めた。
赤みがかったブラウンの髪が、私の鼻を掠めるように揺れる。これがヒーローやヒロインだったらまだしも、どうしてこんな噛ませ男の夢を見てしまったのか。
恨めしげにそう思っていると、彼は毛布を剥いでベッドから勢いよく足を降ろした。
その瞬間、ガタッと何かがぶつかる音がしたかと思うと強烈な痛みが私を襲う。
「うっ!」
〈痛ぁ!〉
彼が呻くと同時に私も声を上げた。見るとベッドのすぐ横にあるサイドテーブルに足をぶつけたらしい。
もう、そんな可愛くないドジっ子アピールなんていらないから!
足の小指を抑えて悶える彼の後ろで、私も必死に痛みを堪える。
いや待って。なんで私まで?
痺れる痛さに涙目になりながら、何だか嫌な予感がしてきた。
あまりにもリアルな痛み。そして彼の痛みが私の痛みと共有している。
まさかこれ異世界転……。
いや、ないないと笑い飛ばそうとしたけれど、じんじんと疼く痛みがこれは現実なんだと強く訴えてくる。
婚約破棄男に転生? 無理、嫌すぎる。
「エディウス様、お怪我は!?」
突然横から男性の声がして、思わず体がビクリと竦んだ。痛みに気を取られて、他の誰かが部屋にいるなんて気が付かなかった。
「ああ、レノか。いや、何でもない。寝起きに足をぶつけてしまっただけだ」
「申し訳ございません。お目覚めになる前にテーブルを下げておくべきでした」
「いや、ここに置くよう頼んだのは俺だから気にするな。そのまま朝の支度を頼む」
きちんとした身なりのこの男性は、どうやら彼の使用人らしい。まだ若く、エディウスよりも少し上くらいの歳に見える。
それにしても、エディウスが穏やかな口調で話すことは意外だった。
あの「お前との婚約を破棄する!」の印象しかないから、もっと横柄でヒステリーな男だと思っていた。謝る使用人に対しても、特に怒るような素振りも見せない。
「本日の午後は、リオレット様との面会のお約束がございます。サリアン邸に向かわれるお時間には馬車をご用意いたしますので」
「ああ……そういえばリオレットと会う日か」
声のトーンが落ち、不快そうに呟いた。
今の会話でやっぱりエディウスはエディウスなんだと確信する。ヒロインの名を聞いて嫌そうにするなんて、やっぱりこの男は碌なもんじゃない。
これが夢か現実か、まだよく分かっていないけれど。
どうしてあの時婚約破棄の流れになったのか、小説では描かれなかった二人の関係を見てやろうじゃないか。
そう思うと、エディウスの目線で小説の世界を覗くのも悪くないなと思い始めていた。




